【意訳版現代語訳】地の巻 ホツマツタヱ24文 コヱ国ハラミ山の文
ホツマツタヱ24文の現代語訳を「読みやすさ」と「まとまり」を重視して意訳しました。
詳細な逐語訳や原文を確認したい方は、冒頭のリンクから個別ページを参照してください。
ホツマツタヱ24文のあらすじ
ニニキネによる全国的な土木事業、三種宝の継承、八州巡幸、富士山造成、アシツヒメとの誓約と御子誕生など、国家基盤の整備と皇統の確立が語られた文(あや)です。
1. ニニキネの土木事業と伊勢での許可申請
民が増えても田が増えず食糧が不足したため、ニニキネは井堰や水路を築いて高地を田にする大規模な土木事業を開始する。伊勢でアマテルに巡幸の許可を求め、まず伊勢の高地開拓を成功させる。
2. ヒヨミ(暦作り)の継承と三種宝の授与
巡幸に先立ち、ムラクモが「アメフタヱ」の名を賜ってヒヨミ職を継ぐ。門出に際し、ニニキネ・コヤネ・コモリに三種の宝(文・鏡・剣)が分授され、君臣の調和の理念が示される。
3. 八州巡幸の開始と各地の開拓
タチカラヲ・コヤネ・コモリらを従えて八州巡幸が始まる。播磨・丹後・越など各地で池・水路・新田を造成し、峰輿(みねこし)や土木技術の伝来も語られる。
4. サルタヒコの登場と土木事業の拡大
近江でサルタヒコと出会い、巡幸を先導する役目を与える。サルタヒコの働きにより土木事業はさらに発展し、三上山の造成などが行われる。
5. 富士山(ハラミ山)を中心とした大規模造成
富士山を中心に八方の湖(富士八海)を掘り、八峰(富士八峰)を造成する。これらは天の形(モトアケ図)に合わせた国家象徴として整備され、富士山は「ハラミ山」と名付けられる。
6. アシツヒメとの契りと誓約、御子の誕生
サカオリ宮でアシツヒメと契りを結ぶが、姉イワナガの讒言で疑いが生じる。アシツヒメは桜に誓約し、三つ子を出産。火中から救われた三子は天御孫であると証明され、ホノアカリ・ホノススミ(スセリ)・ヒコホオテミと名付けられる。アシツヒメは「コノハナサクヤヒメ」の名を賜る。
7. 絹織り・霊草・農耕などの文化技術の発展
越での絹織り(タチヌヒの道)、富士山の霊草、稲作の発展など、国家の文化・産業基盤が整備される。
8. オシホミミの最期と兄弟統治の理念
ヒタカミのオシホミミが最期の詔を与え、兄テルヒコはアスカヲキミ、弟ニニキネはハラヲキミとして協調統治するよう命じる。この教えが「ハラカラ(兄弟仲)」の語源となる。
9. ニニキネの治世と各地の開拓の完成
比叡山(ヒヱノヤマ)造成、雷の鎮め、各地の池・山・田の造成など、ニニキネの治世は土木・農耕・文化の総仕上げとなり、国は「シハカミホツマ」として豊かに治まる。
意訳文
ニニキネによる土木事業
ニニキネがニハリ宮とツクバを治めてから、3鈴2050年(18万2050年)が経過していた頃、ニニキネは次のように考えた。
「民は増やしたものの、田を増やさなかったために糧が不足するようになった。平野の田は水が絶えないが、高田(高所の田)は雨が降らなければ種が育たず絶えてしまう。ゆえに、川上に水路を渡して水を運ばなければ土地が枯れてしまうだろう」
そこで、井堰を設けて堤を築き、山に水路を引いて高田を開拓することにした。また、この考えをアマテルに報告するため、イツノカモフネを出して伊勢に向かい、アマテルに八州(全国)を巡るの許可を請うた。しかし、アマテルが許さなかったため、ニニキネはイセに仮住まいすることにした。
ニニキネは、まずは伊勢から工事しようと、ヤマタノタカク(山田ヶ原の高倉山)に向かい、宮川の上流に井堰と堤を築いた。そして、伊勢の高地を田とすると、五年のうちに瑞穂が成ったため、他に十八ヶ所の井堰を造成した。
こうした成果を目の当たりにしたアマテルは、ついに「八州を巡幸せよ」との詔を発した。
暦をつくるヒヨミ
この時、29鈴500枝38穂2月1日であった。
ニニキネは八島(全国)を巡る前に梅の花見をしながら祝の御饗を催し、アマテルの宮である日夜見の宮(伊雑宮)にて次のような門出の宣言をした。
「昔、ヒヨミ(日月を見て暦を作る役職)のオモイカネがこの地で暦を作っていた。その後、ムラクモが後任としてヒヨミを引き継いだ。しかし、後にムラクモは兄・テルヒコの御伴となってアスカに侍ることとなったため、タチカラヲが親の後を継いでヒヨミとなり、此処居る」
そのように宣言して、巡幸の御伴にタチカラヲを指名した。
すると、アマテルはムラクモを召して次のように詔した。
「汝、ムラクモはヒヨミの職に就き、暦を成すべきであるが、そのムラクモという名では日月を読む能力が落ちることになるだろう。そこで『アメフタヱ』の名を与えることにする」
こうして、ムラクモは「アメフタヱ」の名を賜り、伊勢にてヒヨミの職に就くことになった。
ニニキネへの三種の宝物の譲渡
こうして祝賀の御饗を終えると、この門出に際して三種の宝物が譲渡されることになり、
・ニニキネには、「ミハタノトメノオンフミ(調和の教えの記された文)」
・コヤネには、「ヤタノカガミ(八尺鏡)」
・コモリには、「ヤヱガキノツルギ(八重垣の剣)」
が授けられることに決まった。
そして、アマテルは次のように詔した。
「この三種の宝物は、御子のオシホミミからテルヒコに受け継がれたものである。その際、フトタマとカグヤマツミがテルヒコのハネノオミ(羽の臣=左右の臣)となった。この度、ニニキネにも宝物が受け継がれたことで、コヤネとコモリはニニキネの羽の臣となる。
君と臣は心を一つにせよ。国をカノトリ(国家を象徴する鳥)に例えれば、その全体像はヤタミ(民)である。頭は君、左羽は鏡臣(左臣)、右羽は剣臣(右臣)、足はモノノベである。
鏡臣が居なければ民はまとまらず、祭祀も無くなり、恵みの日月も世に祀られなくなるだろう。剣臣が居なければモノノベが分裂して、君の代は奪われることになるだろう。鏡臣は活性化する春の民業を鑑みる『目』であり、剣臣はモノノベを動かして背く者を枯らす『手』である。
これゆえ、三種の宝物を分けて授けるいわれは『永く一つに調和する』であり、その由縁を文(ミハタノトメノオンフミ)に記しているのである」
アマテルは詔を終えると、文(ミハタノトメノオンフミ)を自らニニキネに手渡した。
セオリツヒメは、御鏡(ヤタノカガミ)を持ってコヤネに授けた。
ハヤアキツヒメは、御剣(ヤヱガキノツルギ)を持ってコモリに授けた。
この儀式を以って、授かった各々が三度敬意を表し、三種の宝物を受けることになった。
ニニキネによる八州巡りの開始
この後、三種の宝を櫃(ひつ)に入れ、印に榊(さかき)を添えて、八州巡幸が開始した。
先駆けはタチカラヲが務め、次にカツテ、次にオオモノヌシであるコモリが続いた。その後を、ニニキネとミクサヒツ(三種櫃)を乗せたヤフサミクルマ(八房御車)が進み、次にコヤネ、後方に駕籠(かご)や馬に乗った八十人のモノノベらが付き従った。
イセを発ってアスカ宮に到り、その先は水路を通って西宮に到ると、まずカンサキ(播磨の神崎)に大井(大きな池)を掘った。
さらに進みマナヰ(天橋立北端の真名井原)に到ると、そこに祀られたアサヒカミ(トヨケ)の元を詣でて幣を納めた。
次に越の根国に到ると、アチハセがミネコシ(峰輿)を捧げた。
ニニキネは峰輿を召して白山峰を巡る際に用いたが、斜めになることがないため非常に重宝した。
ニニキネがこの輿の作り手を問うと、ココリヒメが次のように答えた。
「義妹のウケステメ(西王母)が、アカガタにてクロソノツミとの間に子を生みました。その子は崑崙国の君となるクロソノツメルです。ウケステメは険しい峰を越える時のために、この峰輿を造って子を育てたのだそうです」
ココリヒメの話に感銘を受けたニニキネは、ウケステメを呼び寄せるように命じた。
ウケステメがやってきてニニキネと接見すると、ニニキネは喜んで「国は越、山は峰輿」と言って、返礼としてミチミノモモを与えた。これにウケステメは「花見の桃とは珍しい」と言い、土産物として自国(シナ国)へ持ち帰った。
サルタヒコの登場
3月15日、御饗の梅を前にニニキネは笑んで次のように詔した。
「梅を見ながら三種の門出を迎え、さらに輿(こし)まで得た。この御饗は、まさにアメノシルシ(吉兆)である」
そう言うと、梅の枝を折って簪(かんざし)とした。
その後、タカシマ(琵琶湖付近の高島)に到ると、ニニキネは次のように詔した。
「ササナミ(近江方面)の桜も良し」
そう言うと、桜の枝を簪(かんざし)とした。
そして、クマノ・ヨロギノ(駄目な土地)を田にするべく、コモリの子であるオオタ(コモリ十二男)とミシマ(コモリ十一男)を召した。そして、二人に此処の池や川を造成をさせた。
この時、オトタマガワの白砂(傍)で昼寝をしている者がいた。その名は「チマタカミ」と言い、身の丈一七尺、面はカカチ、鼻の高さは七寸で、目は鏡のようであった。
その様相から、ニニキネの御伴の八十守(モノノベたち)が恐れをなしたため、ニニキネはウスメを召して「汝がメカチ(演技)をして素性を問え」と命じた。
そこでウスメは胸を開け、モヒホ(陰部)を曝け出して嘲笑いながら近づいていくと、チマタカミは目覚めて「なぜ、そのようなことをしているのだ?」と尋ねてきたので、ウスメは「御孫(ニニキネ)の御幸の行先に居る貴方こそ何者でしょうか?」と素性を尋ねた。
これにチマタカミは「我は神の御孫の御幸すると聞き、鵜川の仮谷で御饗して待っていた『ナガタサルタヒコ』である」と答えた。そこでウスメが「貴方と我らはどちらが先を行けばいいのでしょう?」と問うと、サルタヒコは「我から先に行こう」と答えて、さらに次のように述べた。
「君(ニニキネ)は筑紫の高千穂に向かうのが良いだろう。我は伊勢(伊雑宮)の南のナガタガワの者である。汝(ウスメ)が我が名を君(ニニキネ)に示すのならば、我も君(ニニキネ)の名を世に示すことになるだろう」
ウスメがこれをニニキネに伝えると、ニニキネは喜んで卯の花も簪(かんざし)にして先に進んだ。
ニニキネはサルタヒコを召して、タケノイワクラ(頑強な障害物)を押し放って開拓させると、イツノチワキ(ニニキネの土木事業)は大いに繁盛した。また、高島のダケ(岳山)やカガミ(鏡山)の「ミオの土」を積んで三上山を築き、そこに井堰を作って麓に田を造成できるようにした。
ニニキネはサルタヒコを褒めて「ミオノカミ」の名と、好むウスメを与えた。また、その名を顕す「サルベ(猿部)」を定め、「カグラオノコ(神楽獣)」を業とさせた。これゆえ、カグラオノコはニニキネが起源なのである。
富士山を中心に四方を開拓し、湖を造成する
ニニキネは、田に水を張った様子が鏡のようであると言い、仮宮を「ミヅホノミヤ」と名付けた。
その後、多賀に行きイサナギ・イサナミの二尊に幣を捧げた。
美濃に行くとアマクニタマがマクワ(真桑瓜=メロンの一種)を各々に一籠ずつ差し入ると、皆も喜んだ。このマクワとは、かつてカスガの斎名のワカヒコにあやかって名付けられた「アメワカヒコ」が、「タカヒコネ」にそっくりで「瓜二つ」であったことからことに由来する。すなわち、二つに割った時の断面が紛らわしく、区別がつかない物として「マクワ」と呼ぶのである。
それから、ニニキネはクモヂ(中山道)を進んで信濃諏訪から導くことにし、ハラミ山(富士山)から四方を見て「裾野は広い、水場を埋めて裾野を田にしよう」と詔した。
そこでタチカラヲを召して八方を掘らせ、出来上がった湖に次のような名前をつけた。
・東は、ヤマナカ(山中湖)
・東北は、アス(明見湖)
・北は、カハクチ(河口湖)
・北西は、モトス(本栖湖)
・西は、ニシノウミ(西湖)
・西南は、キヨミ(精進湖)
・南は、シビレウミ(四尾連湖)
・東南は、スド(須戸湖)
伊豆浅間峰の造成
湖を造成すると、ニハリ(茨城の新治)の民が群れ集まり、八湖を掘り、その土をハラミ山頂(富士山頂)に積み上げて「ヤフサハカリ(八房はかり)」として天の形に合せた。すなわち、ハラミ山(富士山)の形を天(モトアケ図)になぞらえて、アモト神の八座と比較して八房(富士八峰)を造成し、ハラミ山の裾野をアナミ神の八座と比較して八湖(富士八海)を造成したということである。
その過程でナカミクラ(モトアケ図における中心)を作るのに土と人が必要になると、ウツロヰがアワ海(琵琶湖)を回して、「ミオの土」と人を担いで連れてきたので、皆で朝までに中峰(ナカミクラを象徴する中心の峰)を造成することができた。これによって中峰は、ニニキネの名を取って「ヰツアサマミネ(伊豆浅間峰)」と名付けられた。
このハラミ山においては、他に並ぶものの無いほど山は高くそびえ、湖は深く造られた。峰に降る雪は池水となったので、山裾に九千里の田が造成された。ニニキネは三万反におよぶ田を「二十年に一度、更新せよ」と命じ、ハラミ山麓のサカオリ宮に入っていった。
アシツヒメとの契り
サカオリ宮では、宮を預かっていたオオヤマスミ(マウラ)が御饗を催した。その際、ニニキネにミカシハ(御膳)を捧げたアシツヒメが一夜を召されて契りを結んだ。
ニニキネがニハリに帰ると、ユキ宮・スキの宮に祈りを捧げる大嘗会を催行した。そして、三種の宝物を受けたことを天神に報告し、橘や八豊幡と共に内宮に納めた。また、その翌日にはこれをオオンタカラ(民)に拝ませた。
コモリとオホナムチ
コヤネはカシマ宮(タケミカツチの宮)にて年を越した。
一方で、モノヌシであるコモリは井堰を築きつつ、ヒスミ(津軽)に参詣した。これに祖父のオホナムチは喜んで「そなたの父クシヒコは、大和の神(ヤマトヲヲコノミタマカミ)となった。その後、私は自分の孫に会いたいと常々思っていたが、すっかり老いてしまったよ」と言った。
そして、オホナムチが自ら御饗が催すと、コモリも喜んで色々な話をした。その中で、コモリが「我が君(ニニキネ)の山であるヤフサ(富士八峰)には、ヰユキ(氷雪)が積もります」と話すと、オホナムチは驚いて「私も新田を造営してきたが、そのようなことは知らなかった。君(ニニキネ)はまことのテラスカミ(照らして恵む君)である、幾代のミヲヤ(上祖)として忠を尽くしなさい」と言った。
このように御饗を楽しんだ後、オホナムチは名残惜しみながらコモリを国境まで送り届けた。その後、コモリは海辺を西に巡りつつ、指絵(構想)の通りに新田をおこした。また、佐渡に渡って新田を成すと、越に戻って井堰を築いた。
アシツヒメの懐妊とイワナガの讒言
時にニニキネには思うところがあった。そこでコヤネを召してニハリに留め、カツテを召して海辺を上る巡幸に出た。
オオヤマスミ(マウラ)は、ニニキネを伊豆の岬の仮屋に迎えて御饗を催した。その膳を供する時、アシツヒメは「私は懐妊しました」と告げると、マウラは「これはイセに告げるべきだ」と言って装いを整え、妻とアシツヒメの姉のイワナガを連れて、仮屋にいるニニキネに接見を願った。
ニニキネから接見の許可が出ると、マウラの妻は「アシツヒメには美しい姉もおります」と申し上げた。この申し出にニニキネはフタココロ(浮気心)が湧いたため、勧められるままに姉のイワナガを召したが、その容姿は鋭く、見た目も悪かった。
ゆえにニニキネは気を落とし、態度を変えて「やはりアシツヒメが良い」と宣言した。これにマウラは驚いて妻を叱り、「なんということをしてくれたのだ、もう出てこずに急いで帰れ」と言って追い返した。このことから、アシツヒメは母と姉の恨みを買うことになった。
マウラの妻とイワナガはシモメ(召使の女)を召して、アシツヒメを陥れるためのアタマクラ(不貞)の噂を流した。この噂はやがて、白子(鈴鹿の白子)の旅宿に居たニニキネの耳に入ったので、ニニキネはこの疑惑をきっかけにアシツヒメを白子に残し、夜中のうちにイセに帰ってしまった。
アシツヒメが目覚めると一人の身となっており、後を追ったが松坂で塞ぎ止められてしまった。そのため、仕方なく白子宿に戻って「妬まれの 我が恥濯げ この桜」と誓った。
アシツヒメの誓約
アシツヒメは、桜に対して次のように語った。
「昔、曾祖父のサクラウシがこの桜の木を大御神(アマテル)に捧げました。大御神は、この桜を大内宮に植えて夫婦の道を説き、ナルハナル(和合と離別)を計ったといいます。桜よ、もし孕んだ子が君(ニニキネ)の子でなければ枯れよ!君の子であれば咲けよ!」
アシツヒメは、このような誓約をしながら白子に桜の木を植え、里に帰って行った。
それから十二ヵ月を経た六月初日の元旦に、アシツヒメは三つ子を出産した。その胞衣の紋が、梅、桜、卯花と変わったため、怪しんで君(ニニキネ)に告げたが返事はなかった。
そこで、アシツヒメは子らと共に裾野の室に籠り、周りに柴の垣を築くと、室の中で「もし、この子らが君の種でなければ滅びるだろう」と誓約をして火を放った。しかし、火が広がって熱くなり、ついに這い出ようとした。
その時、ハラミの峰のタツ(竜)が現れて、水を吐きかけながら御子を一人ずつ外に導いた。これに諸人は驚き、火を消したところでアシツヒメを室から引き出した。そして、御輿を以ってサカオリ宮に送り、このことをイセに告げたのである。
ニニキネの御子とコノハナサクヤヒメ
また、先の出来事とは別に、誓約して植えた白子の桜が御子の誕生日に咲き誇った。これらことから誓約の結果が認められて、アシツヒメの産んだ子らは天御孫であることが証明された。
そこで、カモフネを出して急いでオキツ(興津)に到着すると、そこから雉が飛んでサカオリ宮にいるニニキネに御子が誕生したことを告げた。この際、アシツヒメはニニキネを恨んでおり、衾(ふすま)を被って返事をしなかったので、雉はこの様子も同時にニニキネに告げていた。
ニニキネはしばらく考え、オキヒコという名の御使に和歌を持たせてアシツヒメに差し出した。
「オキツモ(渡り鳥)は 辺には寄れども サネトコ(近づいて交わること)も 値わぬ鴨よ はまつ千鳥よ」
(沖にいる渡り鳥は傍に寄ってくるが、近付いて交わることは適わない鴨も居る。去ってしまった渡り鳥よ)
アシツヒメはこの歌に、恨みの涙が溶け落ちるほど心に響いたため、裸足のまま裾野を走って興津の浜に向かった。この様にニニキネは喜んでアシツヒメを受け入れ、輿を並べて共にサカオリ宮に向かった。
その道中でマウラが出迎えて、御所には信濃四県の県主が集まっていた。そして、素早くサカオリ宮に入り、ニニキネは次のような詔を発した。
「諸守よ、聞くがよい。私は以前に『梅・桜・卯の花』を髪に挿して巡幸したが、これと同じ紋が御子の胞衣に揃っていたという。そこで、これらの花を御子の斎名とする。
最初に炎の中から出た御子を『ホノアカリ』と名付け、斎名を『ムメヒト』とする。
次に炎の中から出た御子を『ホノススミ』と名付け、斎名を『サクラギ』とする。
最後に炎の中から出た御子を『ヒコホオテミ』と名付け、斎名を『ウツキネ』とする。
また、アシツヒメが子を生んだ日より白子の桜が咲き続けることから、アシツヒメには『コノハナサクヤヒメ』の名を与えよう」
以後、コノハナサクヤヒメは新造された宮に座すことになり、ナツメノカミが御子の産着を造った。また、御子は母・アシツヒメの乳を得て養育されたため、アシツヒメは「コヤスカミ(子安神)」となった。
サクラギがスセリとなる
御子が成長する過程で、二男のサクラギ(ホノススミ)がカニノクサ(腹の病)になったので、スセリ草(芹)を以って癒した。スセリ草の効能によってサクラギの汚れは除かれ、病気も治ったため、サクラギに「スセリ」の名を賜った。
この出来事を以って、後に「白髭のスセリ」として民を蘇らせる守り神となった。また、これがきっかけでスセリ宮が開かれたのである。
富士山に自生する霊草
その後、ニニキネはコノヤマ(富士山の峰々)に登り巡った。ここから見る八峰の風景は、ナカゴ(心)を安心させる氷雪の絶えない峰であった。そのため、代々の名も「トヨヰユキヤマ」と名付けた。
タツタノカミ(竜神)の如く、子代池(コノシロイケ)のミヤコトリ(都を象徴する鳥)にラハナ(富士山に自生する霊草の一種)を投げれば寄り集まる様を「トリタスキ」という。コモリはトリタスキを絵柄とし、さらに千代見草(富士山に自生する三種の霊草)も君(ニニキネ)の御衣に染め写した。
それからニニキネは順調に政を執り行った。その秋、ニニキネは稲作に力を入れたため、ヤマハト(山吹色の稲穂)の御衣を着用した。また、紋様に成果を描き留めた錦織を織り、大嘗会の時に着る御衣とした。
ハラミ山(富士山)には霊草が自生しており、ハオナを食えば、千年寿命が延びる。これはワカナも同じである。これらは苦く、ハオナはいわゆる苦い物の百倍は苦いため、民は食わない。ハオナの根は人の形(四肢五指)に似ており、葉は嫁菜のようで、花は八重顔に似ている。
また、ラハナ・ハクナ・モグサ・カブロナは血や霊を増して、老いも若返らせる。
蚕飼とタチヌヒの道
ワカムスビは蚕を桑に這わせて糸を生み出した。ココリヒメはその糸を結って布を仕立てたため、越を絹織りの「コヱネクニ」と呼ぶ。
コモリは北より巡って越に来て、以前の絵(「トリタスキ」の絵)を進上した。ココリヒメは、そのトリタスキ(鳥が群れる様)の絵を綾に織り成して、天に捧げた。それはニシノハハ(西王母)の土産にもなって世に残っている。
コモリが多賀に到ると、ツエの妻となったアサヒメ(コモリの十四女)が出迎えた。コモリは桑の状態の良し悪し確かめ、アサヒメに繭糸を使って布を織らせた。その際、「タテヌヒの道(経と緯が交差する織り方)」を教えてヲコタマノカミ(クシヒコ)を祀り、五座(東西央南北)を治めた。
そして、アサヒメは布を差し作り、民に「タチヌヒの道」を教えると、それが八方に伝わった。これによりヲコタマノカミは「コヱクニノカミ(籠結国の神)」と呼ばれるようになり、その里(ヲコノサト)はコカヒ(蚕飼)を業を得た。
ハラミ山の由来
天御孫(ニニキネ)は、再びハラミ山(富士山)を巡幸した。峰に冷やされて腹が痛む時は、コモリが近くの人身草(霊草の一種)を進上してこれを治した。
ヒトミクサ(人身草)は、実と葉が交わっており、根はハコネウスギ(箱根空木)のようで、茎は一本から四枝と五葉が出ていて人体に似ている。コシロハナ(小白花)は、秋に小豆大で甘く苦い実が成り、脾臓を潤してムネ(人体の六つの要所)の病を治す。
このようにハラミ山には多くの草が自生しているが、特にハ・ラ・ミ(ハオナ・ラハナ・ミクサ)の三草が優れている。ゆえに、この三草を褒め称える意味で「ハラミヤマ」という名が付いたのだ。
歴代の中柱
イサナギとイサナミの二尊の国の中柱(中核)は「オキノツボ(比叡山の辺り)」である。
アマテル神の中柱は、ヒタカミのカタタケ宮の「ケタツボノフミ(方壺の碑=タカノコフ)」である。
ニニキネの「ハラミハツホ」は、四方八方(日本全土)の中柱である。
ニニキネが国を治める
アマテルは、ニニキネに「ハラノヲキミ」という名を与えた。
ニハリの民が分国と慕うハラの国は、先住民とは風習が分かれて一線を画するようになり、地を治める君の心がそのまま形になって現る如く、政は調和に整って2万8,000年の月日が経った。
30鈴(180万年)の暦となった頃、国の名も「シハカミホツマ」となり、これをあまねく知らせると、楽しく豊かに治まった。
オシホミミの最期(ハラカラの由来)
それから八万年を経て、ヒタカミの君であるオシホミミから、皇孫諸共(テルヒコ・ニニキネ)が召された。
二人がツボワカミヤに上ると、父帝のオシホミミから次のような詔があった。
「私もとうとう年老いてしまったゆえ、直に果てるであろう。そこで、兄・テルヒコはヤマトの『アスカヲキミ』を名乗るがよい。そして、ハラヲキミ(ニニキネ)と共に睦まじく、干支の神が日月や民を守るが如く治めるが良い。
兄弟よ、しかと聞け。国民を我がものとしてはならぬ。君はその民のための日月である。つまり、民のために君があるのだ。統治とはハコネ(日月の巡幸)と同じであり、陽陰二重の恵みである。
カ(明)ように民を慈しむ君は、日の役も為せば、月の役も為す。よって、神の鏡(日月の写し)である『アマテラスヒツキの君(アマテル)』と共に我もハコネを守ろう」
オシホミミは最後の詔を終えると、ヰツヲバシリの洞穴に自ら入って「ハコネカミ」となった。
オシホミミを祀った後、ニニキネは遺言を守り、アスカとハラの二つの民が争えば臣を遣わして等しく裁いた。また、何事も老民を立てて、新民の欠如はハラから償わせた。これゆえに世の睦まじい兄弟が「ハラカラ」と呼ばれる起源となった。
ワケイカヅチの天君
ニニキネはヰヅサキ宮にハコネカミを三年祀り、オキツボノミネから眺めて詔をした。
「ヤマクヒよ、汝はヤマウシロ(山背)の野を掘って池を造り、土をここに上げよ。そしてオオヒノヤマ(ハラミ山)を写す(模倣)するべし」
それから六十年が経つと『ヒヱノヤマ(比叡山)』が出来上がった。その過程で掘った後の池の水が田のソロ(稲)に使われて実ったため、その池は「ミソロイケ(深泥池)」と呼ばれるようになった。これはママアリイケ(自然の池)の西境にある。
その後、食すべき五穀を厳選し、支流から水を堰(せき)に入れて荒地を活かし、ナルカミ(雷)を分けて鎮めた。
この功績により、カグツチ(火)とミヅハメ(水)の生んだ葵葉と桂(火水の清祓)を以って、アマテルが次のような詔した
「アメ(陽陰)は巡り照らすゆえ、すべてはイカツチ(雷)を分けて恵みの神を生む。これはトコタチに代わる新たなる功績である。そこでニニキネに『ワケイカツチノアマキミ』の名を与えよう」
この詔によって、ニニキネは尊名とヲシテを賜った。
各地の土木開拓
この後、広沢池をオオタに掘らせて国を造り、あまねく通るホツマフリ(和の勢い)を謳歌した。
また、津軽のオホナムチは沼を掘り上げて田の水を生み、その際の土をアソベの丘に積み上げてヰユキ山(居雪山)を成した。その山水によって七万里が潤った。また、数多くの島や峰を成し、島々の間に数多くの魚が生じれば、この魚を荒田に入れて地を肥やした。
アマノコヤネもカスガ国のトフヒノオカに大和川を成した。その時に掘った土を集めて三笠山を成した。
伊予のイブキヌシはアメヤマ(天山)土を移して田を成した。
テルヒコの横暴
アスカの君(テルヒコ)は香山を模倣して香久山を造った。これにより、宮の名もアスカ宮からカグヤマ宮とした。
また、初瀬川を掘って飛鳥川を成し、その淵を開墾して田を成した。
これについて、内宮のスガタヒメはテルヒコに対して次のように意見した。
「君よ、この開拓は良くありません。昔、クシヒコは飛鳥川にてあざける穢れを諌めて禊をしました。これを棄てるのであれば、また穢れが生じるでしょう。そうなれば、神が何をするかわかりません」
テルヒコはこれを聞かずに次のように反論した。
「女に政をさせる所がどこにある。汝はこの田のように子が出来ない女である。よって、妻として相応しくないのだ」
このように言い放って離婚し、トヨマドの娘のハツセヒメを召して妻とした。
タチバナノキミ
オオヤマスミ(マウラ)は飛鳥川を模倣し、相模の小野に新田を成した。
また、橘の木を植えたマウラは、代々「タチバナノキミ」となった。
ハラアサマ宮
ニニキネは、サカオリ宮の名をハラアサマ宮とした。その装いは、黄金を飾り、タマウテナ(玉台)を漆で彩っていた。また、懸橋が滑るので、木綿の足袋を付けてそこを通る。なおも豊かで、十万年もの間、瑞穂が上がり民は安心した日々を送っていた。
庭に棲む鶴は千代見草を濯いで根を食い、池の亀は千代見草の葉を食った。このため、万のウラカタ(占形)は「合うと離れる(和合と別離)」、カメウラは「水の湧く湧かぬ」を占うことになった。
こうして、実心を尽くす御孫(ニニキネ)によって調和が成ったのである。
注釈
登場人物
・アマテル:『記紀』の天照大神に比定。八代君主の男尊。創造神アメミヲヤの顕現
・ニニキネ:『記紀』の瓊瓊杵尊に比定。オシホミミの二男。アマテルの孫
・イサナギ:『記紀』の伊弉諾尊に比定。七代君主の男尊。アマテルの父
・イサナミ:『記紀』の伊弉冉尊に比定。七代君主の女尊。アマテルの母
・オモイカネ:『記紀』の思兼神に比定。ヒルコの夫。ヒヨミ(陰陽師的な職)だった
・ムラクモ:『旧事紀』の天村雲命に比定。カンミムスビの曾孫。ヒヨミを継ぐ
・タチカラヲ:『記紀』の天手力雄神に比定。ヒルコとオモイカネの子
・コヤネ:『記紀』の天児屋命に比定。カスガカミ。アマノコヤネとも
・コモリ:神社祭神の子守神に比定。クシヒコの子。今のオオモノヌシ
・オシホミミ:『記紀』の天忍穂耳尊に比定。九代君主の男尊。アマテルの日嗣の御子
・テルヒコ:『記紀』の天火明命に比定。オシホミミの長男。アマテルの孫
・フトタマ:『記紀』の太玉命に比定。タカギの子。テルヒコの左臣
・カグヤマツミ:オオヤマカグツミの子。テルヒコの右臣
・セオリツヒメ:祓戸四神の瀬織津姫に比定。サクラウチの娘。アマテルの内宮(皇后)
・ハヤアキツヒメ:祓戸四神の速秋津比売に比定。アマテルの西局のスケキサキ
・ココリヒメ:『記紀』の菊理媛神に比定。シラヤマヒメと同一。ウケステメと姉妹関係を結ぶ
・ウケステメ:中国神話の西王母に比定。西方から民の早死を憂いてやってきた。ココリヒメと姉妹関係を結ぶ
・サルタヒコ:『記紀』の猿田彦命に比定。チマタカミ。ニニキネを先導した。サルベの祖
・ウスメ:『記紀』の天鈿女命に比定。ホツマでは固有名詞ではなく、舞姫としての職能名で複数存在
・ウツロヰ:方位神の大将軍に比定。ヤマサの第一。空・空間・空気を司る自然神
・オオヤマスミ(マウラ):『古事記』の天津麻羅に比定。オオヤマスミ(大山祇神)は官職名
・アシツヒメ:『日本書紀』の神吾田鹿葦津姫に比定。ニニキネの内宮。コノハナサクヤヒメの名を得る
・イワナガ:『記紀』の磐長姫に比定。マウラの娘。アシツヒメの姉
・コノハナサクヤヒメ:『記紀』の木花開耶姫に比定。アシツヒメの称号
・ホノアカリ:『日本書紀』の火明命に比定。ニニキネとアシツ姫の長男。斎名はムメヒト
・ホノススミ:『古事記』の火須勢理命に比定。ニニキネとアシツ姫の二男。斎名はサクラギ
・ヒコホオテミ:『日本書紀』の彦火火出見尊に比定。ニニキネとアシツ姫の三男。斎名はウツキネ
・オホナムチ:『記紀』の大己貴神に比定。ソサノヲの三男。出雲を手放した後は津軽を得る
・ワカムスビ(ウケミタマ):『記紀』の稚産霊神および宇迦之御魂神に比定される穀物の神
・オオモノヌシ:『記紀』の大物主神に比定。天の軍事長官。ホツマ24文時点ではコモリのことを指す
・ヲコタマノカミ:『日本書紀』の倭大国魂神に比定。クシヒコ(『記紀』の事代主神)の称号
・アスカヲキミ:アスカ政権に属する国々を総括する君。現時点ではクシタマホノアカリ(テルヒコ)を指す
・ハラヲキミ:ハラ政権に属する国々を総括する君。現時点ではニニキネ(キヨヒコ)を指す
・ハコネカミ:神社祭神の箱根大神に比定。オシホミミの贈名とされる
・イブキヌシ:祓戸四神の気吹戸主に比定。ツキヨミの子
・ワケイカツチノアマキミ:神社祭神の別雷神に比定。アマテルがニニキネの功績を讃えて与えた称号とされる
・スガタヒメ:神社祭神の菅田比賣神に比定。スガタの娘。クシタマホノアカリの最初の内宮
・ハツセヒメ:トヨマドの娘。クシタマホノアカリの二番目の内宮
関連社
・猿田彦神社:ホツマにおけるサルタとウスメの説話にまつわる宮に比定
・別 名:みちひらきの大神
・創建年:不明
・主祭神:猿田彦大神、大田命
・境内社:佐瑠女神社(祭神:天宇受売命)
・所在地:三重県伊勢市宇治浦田2-1-10
・白鬚神社:ホツマにおける「白髭のスセリの宮」に比定
・別 名:白鬚大明神、比良明神
・創建年:伝・第11代垂仁天皇25年
・主祭神:猿田彦命
・所在地:滋賀県高島市鵜川215番地
※ホツマツタヱの記述との対応関係に基づく解釈
関連知識
ヒヨミについて
ホツマ24文に登場する「ヒヨミ」とは、日月を観測して暦を作る専門官職とされます。語義は「日夜見」「日月見」「明暗見」で、陽陰の和合を読み取る者という意味もあると考えられています。
24文によれば、ヒヨミという官職は元々オモイカネが務めており、その後をムラクモが継いだとされています。しかし、ムラクモがテルヒコに随行してアスカに移ったため、オモイカネの子であるタチカラヲがヒヨミを継承していました。ニニキネの八州巡幸に先立ち、タチカラヲが巡幸の御伴として指名されると、アマテルはムラクモを呼び戻し、「アメフタヱ」の名を与えて再びヒヨミに据えたとされています。
なお、ムラクモがヒヨミに再任される際に改名が必要になった理由は、アマテルが「ムラクモという名では『カガミ曇る(日月を読む力が落ちる)』ゆえ、アメフタヱの名を与える」と詔しており、名前が能力や役割に影響するというホツマ独自の世界観も示唆されています。
こうした記述から、ヒヨミは単なる暦作成者ではなく、国家統治の根幹を支える陰陽観測官であり、後の陰陽寮(天文・暦・占を司る官制)に相当する役割を担っていたとも考えられます。
ハラミ山(富士山)について
ホツマ24文における「ハラミ山」とは、現在の富士山に相当し、国家造成・天象観念・霊草信仰が結びついた特別な山として描かれます。語義は「ハ・ラ・ミ」の三種の霊草(ハオナ・ラハナ・ミクサ)に由来し、これらの霊草が優れていることから山名が付いたとされています。
24文では、ニニキネが富士山を中心に八方を掘って湖(富士八海)を造成し、その土を積み上げて八峰(富士八峰)を整えたと語られています。これは天の構造(モトアケ図)に対応させた造成であり、富士山が「天の形を地上に写した山」として位置づけられている点が特徴的です。また、山頂に築かれた中峰はニニキネの名を取って「ヰツアサマミネ(伊豆浅間峰)」と呼ばれ、後の浅間信仰の原型とも考えられます。
さらに、ハラミ山には多くの霊草が自生するとされ、とくにハオナ・ラハナ・ミクサの三草は寿命を延ばす力を持つと記述されます。これらは「人身草(ヒトミクサ)」「小白花(コシロハナ)」などとともに、富士山が霊薬の山として認識されていたことを示しています。
こうした記述から、ハラミ山は単なる地理的な山ではなく「天の構造を地上に写す象徴的な山」「国家造成の中心」「霊草の自生する聖地」「浅間信仰の源流」として描かれており、富士山信仰の古層を理解するうえで重要な位置を占めています。
アシツヒメの誓約について
ホツマ24文におけるアシツヒメの誓約は「木花咲耶姫神話」の原型と考えられる重要な場面であり、誓約儀礼・火中出産・正統性の証明が一体となった物語として描かれます。
アシツヒメはニニキネとの契りの後、姉・イワナガの讒言によって不貞を疑われ、白子の宿に取り残されます。そこでアシツヒメは桜の木に向かって「もし胎内の子が君(ニニキネ)の子でなければ枯れよ、君の子であれば咲けよ」と誓いを立て、桜を植えて里へ戻りました。
この誓いは、子の正統性を天に問う「誓約(うけい)」と呼ばれる儀礼であり、『記紀』やその他の日本の史料においてもよく見られます。
その後、アシツヒメは十二か月の懐胎を経て三つ子を出産しますが、胞衣の紋が梅・桜・卯花と変化したため、疑念を抱いたまま火中に身を投じて誓約を再度試みます。しかし、火中で三御子は無事に生まれ、竜神が水を吐いて救い出したことで、天御孫としての正統性が証明されました。さらに、白子に植えた桜が御子の誕生日に咲き誇ったことも、誓約の成就として語られます。
この出来事を受け、ニニキネは三御子にホノアカリ・ホノススミ(スセリ)・ヒコホオテミの名を与え、アシツヒメには「コノハナサクヤヒメ」の名を授けました。ここで桜の開花が正統性の象徴となる点は、後の記紀神話における木花咲耶姫の性格形成にもつながる重要な要素です。
こうした記述から、アシツヒメの誓約は「植物を媒介とした誓約儀礼」「火中出産による正統性の証明」「三御子誕生の神聖化」「コノハナサクヤヒメ命名の由来」を一体として描くものであり、ホツマにおける誓約思想と皇統観を理解する上で中心的な位置を占めています。
ハラカラの語源について
ホツマ24文における「ハラカラ」は、オシホミミの最期の詔に由来する語として説明されます。本文によれば、オシホミミは死に際して、御子の兄弟に「兄弟は同じ腹から生まれた者として互いに和し、協力して国を治めよ」と諭します。この言葉が「ハラカラ」の由来とされ、同腹の兄弟であることを根拠とした統治理念を示す語として扱われています。
一方で、日本語としての「はらから」は「同じ母の腹から生まれた兄弟姉妹」を意味する古語であり、語源は「腹(はら)+やから(仲間)」とされます。古辞書や語源資料でも「同胞(はらから)」は血縁関係を表す語として用いられ、後には「同じ国の民」「同族」といった広い意味にも拡張されましたが、基本的には生物学的な兄弟姉妹を指す語となっています。
『記紀』との主な違い(AI分析)
ヒヨミ(暦作り)の継承
ホツマでは、ヒヨミ(暦作り)の職がオモイカネからムラクモ、タチカラヲ、アメフタヱへと継承され、改名の理由まで含めて体系的に説明される。一方、『記紀』では暦作成の制度や継承体系は語られず、ヒヨミという役職自体が登場しない。
ニニキネによる全国的な土木事業
ホツマでは、ニニキネが井堰・堤・水路の造成を全国規模で行い、伊勢・播磨・丹後・越・信濃・富士山麓など各地で新田開発を進める国家的土木事業が詳細に描かれる。一方、『記紀』ではニニギ(ニニキネに相当する神)が全国を巡って土木工事を行ったという記述はなく、治水・開拓を体系的に行う描写は存在しない。
富士山(ハラミ山)造成の描写
ホツマでは、富士山を中心に八峰・八海を造成し、天の構造(モトアケ図)に対応させる国家的事業として描かれる。また、霊草の由来や山名の語源も詳述される。一方、『記紀』では富士山の造成や八峰・八海の成立は語られず、地形神話としての体系性は見られない。
サルタヒコの役割とウスメの位置づけ
ホツマでは、サルタヒコは土木事業の障害物を除く「道開きの実務者」として描かれ、ニニキネの巡幸に同行して各地の造成を助ける。また、ウスメは固有名ではなく「舞姫の技能を持つ侍女」という職能名であり、サルタヒコとの対話も職能としての役割に基づく。一方、『記紀』ではサルタヒコは天孫降臨の先導役として描かれ、アメノウズメ(天宇受女命)は固有の女神として扱われる。
アシツヒメの誓約と火中出産
ホツマでは、アシツヒメが桜に誓約し、火中で三御子を出産するという誓約儀礼が中心に描かれ、桜の開花によって天御孫の正統性が証明される。一方、『記紀』では木花咲耶姫の火中出産は描かれるが、桜への誓約や胞衣の紋による証明などの詳細な儀礼は存在しない。
別雷神(ワケイカヅチ)とニニキネの関係性
ホツマでは、ニニキネが雷を鎮め、火水の調和を成した功績により「ワケイカヅチノアマキミ」の名を賜るとされ、雷神の神格が政治的功績と結びつけられる。一方、『記紀』では別雷神は賀茂氏の祖神として登場するが、ニニキネ(ニニギ)との直接的関係は語られない。
「ハラカラ」の語源
ホツマでは、オシホミミの最期の詔において、兄テルヒコ(アスカヲキミ)と弟ニニキネ(ハラヲキミ)が協調して治めるべきとされ、これが「ハラカラ(兄弟)」の語源と説明される。一方、『記紀』では「ハラカラ」の語源説明はなく、兄弟統治の理念も明確には示されない。
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