【意訳版現代語訳】地の巻 ホツマツタヱ17文 神鏡ヤタの名の文
ホツマツタヱ17文の現代語訳を「読みやすさ」と「まとまり」を重視して意訳しました。
詳細な逐語訳や原文を確認したい方は、冒頭のリンクから個別ページを参照してください。
ホツマツタヱ17文のあらすじ
ヤタノカガミ(八咫鏡)の名の由来を起点に、鏡・経・矛・心・因果・教育・政治理念が体系的に語られる文(あや)です。
1. ヤタノカガミの名と寸法の由来
アマテルは、ヤタとは八尺を基準とした民の平均身長に由来する単位であり、八民の心を映す鏡としてヤタノカガミが作られたと説く。一丈を天体分度器として円に丸めたときの径が鏡の大きさとなり、これが宮柱に神を招く神鏡となったと語られる。
2. 室屋(家屋)と神社の起源
クニトコタチの時代に「ム」のタミメから家屋が、「ヤ」のタミメからヤシロ(神社)が生まれたとされる。また、タ(陽)とラ(陰)のヲシテが父母の役割を象徴し、民を子として養うべきという政治倫理が示される。
3. 二尊が授けた「経」と「矛」
クニトコタチは「ト(経)」と「ホコ(矛)」を作り、代々の君主に相伝させたという。経は「法」、矛は「武力」であり、二尊は民を子のように育て、法に背く者には矛で正したと語られる。臣と民の役割、勤労の義務、政治の基本理念がここで示される。
4. 鏡の意味と心の反映
アマテルは、鏡は天地の法則を映す象徴であり、心の裏鏡は行いを反転して示すと説く。罪は隠せず、天地・風・地の三つの働きによって必ず露見するという思想が語られる。心の鏡を磨くことが政治と生活の根本であると強調される。
5. 差別を否定する教えと人の本質
人はアメノミヲヤの子であり、八元神と三十二神の写しであるため、すべての民は本来平等であると説かれる。能力の優劣があっても捨てずに育てることが「アメナルミチ(和の道)」であり、人の内には陰陽の二つの心があることを知るべきだと語られる。
6. 因果応報と教育の道
罪は必ず己に返るという因果の理が示され、盗み・暴力・驕りは身体や運命に反作用として現れると説かれる。曲がった子は環境と教育で直すべきであり、焦らず育てれば真っ直ぐ成長するという「トノヲシヱ(調の教え)」が語られる。
7. 荒猛な心の意義と矯正
荒猛な心は風雨のように激しく、放置すれば曲がるが、正しい教育と時間によって矯正できると説明される。親や指導者は荒猛な心を慎み、子の性質に応じて教えを変えるべきだと説かれる。
8. 罪人の改心と人情の働き
コクミ・シラヒトの例を挙げ、悪に染まった者も教えによって正せると語られる。人情は六臓に宿り、隠し事は必ず態度や言葉に現れるため、罪は隠せないという思想が示される。
9. モトモリ(六臓)の働きと心の鏡
人の身体は天地の縮図であり、六臓は心(ナカコ)を支える「元守」であると説明される。心が曇れば臓器に現れ、臓器の変調は天地の知らせであると説かれる。心をヤタノカガミに向けることが正しい生き方とされる。
10. ヤタノカガミの総括と歌
アマテルは、ヤタノカガミは民を照らし、心を正すための鏡であると総括する。ハタレたちへの戒めと改心の歌、タチカラヲやコモリの歌が詠まれ、民を導く教えとして後世に伝えるべきとされる。
意訳文
寸法と八咫鏡の由来
天地の内外(中央と地方)が清く調和していた時、大内に侍る臣や民はヤタノカガミを拝んでいた。
そこで、アマノコヤネが謹んで『ヤタ』に名の由来を尋ねると、アマテルは次のように答えた。
「『ヤタ』とは横幅を指す単位である。
往古、全国の八十万人のヤタミの平均身長を集めて『一坪』の単位として定めたことに始まる。ヤタミとは、八方にいる民のことで、その平均身長が八尺(ヤタ)であるためヤタミなのである。
この一坪とは今の『一間』と同じ長さである。すなわち八尺である。
この一間を八段階に分けて一尺を求め、その八尺に日月の象徴たる二尺を増して『一丈』の長さを定めた。
さらに尺を十段階に分け、これを『寸』と名付けて民に教えたのである。
また、高計り(一丈)を『火・風・埴・水』の四つに分け、そこに『空』を継ぎ合わせて『環状の天体分度器』とした。この一丈の天体分度器で、八民の心(八尺の心)を抱こうと円形に丸めた結果、『径(わたり)』は二尺余りとなった。
このニ尺余りの鏡が、宮の御柱に神を招く『ヤタノカガミ』であり、今はタ(手)の大きさが直径となっている。この円鏡は八民(やたみ)の心(魂魄)を鑑みるためのものである。すなわち『ヤタノカガミ』という名は、ヤタのカカミ(八民を写し見る)ことに由来するのだ」
室屋と神社の由来
アマテルは続けた。
「往古の尊・クニノトコタチの家屋は『ム』のタミメ(璽)から建ったと聞いている。これを民に教えて屋根のある室屋が成った。
また、『ヤ』のタミメからはヤシロ(神社)が生まれ、これが後の宮殿となった。
また、『タ』のオシテはミヒカリ(三光)がマル(円)の内に入る形であり、これは『天と父(陽)』を表すものである。
また、『ラ』のオシテは上下を返す『地と母(陰)』を表すものである。
親が子を孕めば乳が必要となるように、父母は子の養育者である。ゆえに乳を持たぬ父もまた『タ』のヲシテが示す如く養育の責任を負う。
これを世に照らせば、助けを乞う民は公方(上位者)の子と同じである。民を我が子の如く養い育てることは公方の義務なのだ」
二尊が作った経と矛
アマテルは続けた。
「往古、クニトコタチは『ト(経)』と『ホコ(矛)』を造り、それを代々授けられた。
『ト(経)』とは調和を説いた『オシテ(文書)』である。イサナギ・イサナミの二尊はこれを受けて親(公方)となり、民を我が子の如く養育し、熱心に教えて人とした。教えてもなお逆らう者があれば、『ホコ(矛)』をもって罪・咎を正したのである。
こうした経緯から、二尊は遠い上下関係では心が通じぬこともあると悟った。ゆえに臣らには国民に教えを説く役割を課し、臣民をはじめ、子孫まで隔たりなく慈しみ育もうとしたのだ。また、臣の立場でトを教えぬ者は臣と認めず、民の立場でトの教えを受けぬ者は民と認めなかった。
ゆえに君臣同様に常に思うべきことがある。
まずはアメノリ(天地法)を得て己を治めること。そして、自らの仕事に精を出すことである。
民であれば、田畑を耕して稲を植え、草を刈って、稲穂を収めるべきである。
臣であれば、民を孫のように、商人を曾孫や玄孫のように思い、教え導いて調和を図るべきである」
鏡の意味
アマテルは続けた。
「私が理想とする安定した世とは、政が隅々まで行き渡り、人の心が豊かになって表で務めに励み、裏で安らげる世である。
例え一人が道から外れても、天地(陽陰)の法則が治めている以上は、花も実も同じ土台に立っていることを知るだろう。罪を隠そうとしても、天地はすべてを見通している。
空(ウツホ)は天の心であり、風が常に巡っているが視ることはできぬ。これは魚が水の巡りを見ることができないことに同じである。しかし、広い視野で捉えれば空も視ることができるだろう。
魚の目も人の目の同様に写るものしか捉えることができない。それに代わる裏鏡(心の鏡)は、左に持てば右に見え、左に遣えば右に向かう。向いに遣えば前に寄る。このように、鏡のごとくすべてが反転して写るのである。この裏鏡が何のためにあるのかをよくよく考えるべし」
差別無用の教え
アマテルは続けた。
「聞くが良い。
モトモトアケ(大元)のアメノミヲヤ神、その側に侍るトホカミヱヒタメの八元神(ヤモトカミ)は寿命を守る神である。人の内外の姿は、天並神(アナミカミ)三十二神の写しである。また、16万8千の神霊が人の魂魄を結合わせ、魂魄に喜びを与える。これらは人が誕生する際に備わる生まれつきのモノである。
ゆえに青人草(臣民)は悉くアメミヲヤ神の賜物、すなわち子孫なのである。よって神を守らねばならない。イサナギ・イサナミの二尊が『ト(経)』と『ホコ(矛)』によって治めた世においては、年月を経ると共に鈍感な者や鋭敏な者、あるいは並の者も現れることだろう。それは器物を多く造れば優劣が生まれることに同じである。
しかし、劣る者であっても捨てずに用いることこそがアメナルミチ(和の心)なのである。私が思うに、善し悪しを問わずに愛でれば、やがて相手のナカゴ(内面)も見えてくる。つまり、人の中には陰と陽の二人が居り、これを知ることこそが『マスカガミの道』なのである」
因果応報の理
アマテルは続けた。
「天地の報いとは『罪を犯せば己に返る』という理である。
例えば、他人を打った時には相手が傷つくだけだが、やがて相手の痛みは己の病として現れるのだ。それがアマガツチ(天の制裁)である。それは他人の財を盗んだ時も同様で、盗むことで己が富んだと錯覚するが、その分 己の価値が損なわれるのである。そもそも、盗みを働けば、盗みを働いた罪に加えて財を隠した罪も生じる。これにより、己の健康を害する罰が与えられるだろう。
もし、罰を与えられても改心しないければ、天地人(世間)の目によって虐げられ、さらに天地の監視によって主人に報告されるだろう。罪が暴かれて滅ぶ時、己はどうすることもできず、他人が喜ぶだけである。これはシム(霊・親族)の恥となり、悔やんでも取り返しがつくものではない。
罪人が子を儲ければ、その子は荒く猛々しい松のようにねじ曲がった人として生まれるだろう。ワガママに育ち、道に背いた曲がった者となる。しかし、たとえ曲がった者でも、薪を切るように惜しむこと無く切ってしまえば(見捨ててしまえば)、シムが痛むだけである。曲がった子を直すには、間引きや植え替えを行う如く、環境や教育者を変えて培うべきで、そうすることで真っ直ぐな子となるのだ。
これが親心というものであり、細やかで篤い『トノヲシヱ(調の教え)』なのである。
親子を木にたとえれば、子は親の根である。幼児を新木になぞらえて培えば、真っ直ぐな親となることが道理であろう。それゆえ、環境の恵みを知れば木がよく育つが如く、子もまた立派な棟梁として育つのである。反面、荒く猛々しい心で子に当たれば、その子は邪悪なハタレとなるのも道理である。幼い頃のねじれた芽は気付くのが早ければ早いほど校正も楽というもの。己に荒く猛々しい心があると自覚するならば、早々に改めるべし」
教えによる罪人の改心(コクミ・シラヒトの例)
アマテルは、かつて問題となったコクミ・シラヒトを例として話を続けた。
「以前、法を破ったマスヒト(地方官)が居り、その名をコクミ・シラヒトと言った。この二人は、器に合わぬマスヒトの地位を得たばかりに、邪悪な心で権力を行使した。そのようなトコヤミ(異常者)がねじけた秩序を生み、賄賂(わいろ)などを許す曲がった法がまかり通ることになった。
この件は既に終息したが、これもミクサノウツワノリ(三種の器法)が無ければどうしようも無かったであろう。兼ねて思えば、マスカガミで青人草が正すことができると言える。ゆえに人は教えによって正すことができるということである」
なぜ荒猛な心が生じるのか?(荒ぶる心の意義)
アマテルは、ミホツヒメを例に挙げて話を続けた。
「かつてコモリの母・ミホツヒメは、親心の理解に苦しんで『なぜ、子供に荒猛(荒く猛々しい)な心が生じるでしょうか?』と問うた。
そこで私はこのように教えた。
『荒猛な心は、激しい風とにわか雨の天気のようであり、松の曲がった節のように千年経っても治らない。そのような子を持った親は、我慢できずに同じように荒猛な心で当たってしまうだろう。
反面、愚かで暗く鈍い子は、打たれても痛みを我慢して押し殺すので、これもまた曲がってしまう。また、そのような痛みをかわすようなずる賢さを得て、それを自慢するようになれば、これもまた曲がってハタレになるだろう。
荒猛な心の意義を誤ってはならない、親も荒猛な心を謹む必要があるのだ。また、暗い子には時間を掛けてでも細かく教えれば、そのうち理解することができるだろう。やがて年月を経て成長すれば、その鈍さも去り、仕事の習得も早い者へと成長するのだ。
このように、最初から子に優れた能力を望むものではない。百回、千回教えても覚えなければ、教育者の問題があるのかもしれない。そうした場合には、良き教育者を求めて、その者に教えを乞うべし。
狭い料簡(りょうけん)を排除して子を育てれば、十年のうちに直るだろう。木は芽を出して三十年もすれば枝は伸び栄え、百年で木工材料に使えるほどとなる。さらに三百年で梁に使え、五百年で棟に使える大木となる。このように、人も十歳では平均の知識を得て、三十歳で梁、五十歳で棟の功を得られるように育つ。
そのため、篤く恵みのあるユルノリ(緩やかで寛容な方法)を知り、事は焦ってはならないのだ。早まれば、早熟と勘違いするハタレになるぞ。だが、ヤタノカガミの文を聞き、それに沿って育てば、ヨコカ(穢れ)も去るであろう。それは、我が心(太陽太陰の神霊)を添えて、優しく天地(日月)が守るからである』」
盗人の病
その時、タチカラヲが進み出て「先程の話にあった、盗人が受ける病とはどのようなものですか?」と質問すると、アマテルは次のように答えた。
「しばし心を静めて聞くがよい。
私は常々 人の振る舞いを観てきたが、皆ことごとく異なっている。それは地神(土地の神)の威勢を受けて生まれ育ち、その習俗を活かし、それを倣っているからである。すなわち、土地によって言葉も習慣も異なり、土地の境の隔たりによって分かれている。
また、生まれた土地は違えども、幼い時に その土地に馴染めば その土地の風習が身について行くだろう。人は空に住んだとしても空を飛ばず、埴を踏めばその応え(反動)を知る。これは風神・埴神の守り司る理である。
また、人は経験を通して善悪を感じ、それは終始 天地に告げられる。罪も同じく、隠し盗む経験も、風を伝って天に届くのである。たとえ足音を立てずに盗みを成功させたとしても、土に伝わる振動が地に届くのである。そして、犯人自身の胸の鼓動が騒げば言葉が乱れ、それが行動に現れ、問答によって遂に露わになる。
他所からの報告もあるが、結局は己の罪を伝える三つの原因からは逃れることはできない。そのため、たとえ主人(被害者)が許したとしても、天地が罪を裁くことになるだろう」
罪人の報い
ハタレの首領であるハルナが進み出て、アマテルにこのように訴えた。
「例え風神が罪を知ったとして、それを皇尊(君)に告げねば罪を知る者はおらぬ。回数を重ねて犯人も利口になれば、長(おさ)をあざむくことなど容易になるのではないか?
また、埴神が土から罪を知れば罪人の言動に現れると言ったが、荒猛な心を持つ者は罪人でなくとも足音や態度に出ているはず。これと罪人のものをどう分けるというのか?
皇尊が天下に知らしめなければ、子らもまた外道となろう。それらが成熟して悪賢くなり、術も身につけ、やがて70万9千もの勢力となった。そして天下を掴もうと道を外れて背いたのだ。
我は そのように考えて六度戦ったが、敗れて捕われた この現実は一体どういうことなのだ?」
それを聞いたアマテルは微笑んで次のように言った。
「焦らず心を落ち着かせて よく聞くがよい。
己のおごりは、逆に己にあざむかれるという報いがあるのだ。その理由を聞かせてやろう。
私が見て思うに、人情というものは『情けを伝える枝』のようなものであろう。天地より授かった魂と魄を結ぶ「命」そのものと言えるのかもしれない。すなわち、人情はタマナカコ(霊=中子=心)を潤わす肝なのである。
シイノネ(魄の根=肉体の要)は、ムラト(腎臓)・ココロハ(心臓)・フクシ(肺臓)・ユフ(肝臓)・ヨクラ(膵臓)・ヨコシ(脾臓)である。この六臓が人情を知っているのだ。情けが心に通っているから、隠し事はあらわになるのだ。
例えば、賄賂を送る商人を許して栄華を極める収賄役人が居れば、その影響で利益を失う商人が怒りだす。また、収賄を得ていると見抜き、分け前を求める同僚の役人も出てくるであろう。人は常に恵みを喜び、負けを憎むものである。主人に呼ばれることを恐れ、追求されて罰せられる悲しさから許しを乞う。主人の怒りで罪が許されなければ、悲しい『後の裁き』が待っている。しかし、臣が連帯保証を条件に預かれば許されることもある(カダとキクミチの例)。
裁きを恐れるのであれば、惑う心を改めて忠誠を尽くせばよい。惑える気持ちも人情の心に触れたならば、他人を打つ時に打たれた痛みを知るであろう。人に反抗すれば、反抗された者の恨みも知ることになる。器物を盗めば、やがて被害者や罪人となる自分の親族の心の痛みも知ることになるだろう。
ココロハ(心情)から悪しき業を為せば、人情によって告げられること。これは同情である。他人が他人を打ったり、殺したりするのを見れば、止めようと思う心が動くだろう。また、転んだ人を見れば、起こしてあげようという気も起こる、これが同情と言うものだ。
ましてや我が身(アマテル)は、ミヤビ(心情)がナカコ(心臓)に伝われば、それを疑うことは無い。己の理性で治めても、ココロハ(心情)では驕りを聞けば欲に染まるだろう。
外見(外観)にこだわっていれば、邪悪な姿形に惑わされるような感覚や関係を持つことになり、やがて己を枯らすであろう。反面、欲を濯げば感覚も元に戻り、イセノミチ(真っ直ぐに生きる道)が成立するだろう。
勇んだり、曲がったココロハはミヤビによって五臓に告げられる。平穏を装った言葉で自分を飾っても、それは足音となって現れる。埴神は人の心を万も十万も知っているが、それは結局 人のミヤビから知り得ているのである。
狡猾が過ぎて悪に染まったハタレ達よ。その狡猾さを術として、私を試そうとする心がミヤビから伝わっているぞ。それはまるで松や榧(かや)のヤニのようなものだ。ミヤビがなければ身も枯れる、枯れた上で得ようとする色欲は何のためにあるのか?」
モトモリとは?(六臓の意義と働き)
アマノコヤネが謹んで「モトモリ(元守)」についての説明を求めると、アマテルは次のように詔した。
「人は天地の象徴、すなわち天地を模した存在である。
天空はタカマノハラ(全宇宙)の一部であり、人の『頭部』に当たる。その中でも目や鼻のように目立つ存在が『日・月・星』である。目鼻が『天』なら、五腑六蔵(内臓)は『クニ(地)の道』に当たる。そしてナカコ(心)は『君主』である。
肝臓は『臣』、脾臓は『民』、肺臓は『垣(周囲)』、腎臓は『平らす(情報の流布)』、すなわち腑は『副手(宮中の補助役)』に当たる。ミヤビは『目付(監査)』で悪さを告げ、肺は『垣』として働く。
温度によって衣は変われど、ミヤビは欲に片寄らず、公正中立である。時節に関わらず、脾臓は甘い物を貪るように働く。これと同様に、民も聞こえの良い話や物には目が無い。
腎臓は息を巡らすが、色に溺れてラミ(霊実)を枯らす。これは『身の鏡』である。これと同様に、兵士は流れに従うのみで、その結果が形として現れる。これらのことから、ナカコ(心)は常に磨いていなければ、やがて曇り錆びて曲がっていくのだ。
ナカコ(心)をヤタノカガミ(心の真実を写す鏡)に向かわせるためにあるのが『モトノモリ(主要の六臓器)』である。ナカコの形は鏡であり、他人には覗けないものであるが、だからといって曲げてはならない。多くの者は これを知らぬが、心の穢れは臓器の変調として現れる。
天は風によって知り、地は埴が感受し、人は告げられて知る。それは身体の変調として知ることもある。この三つによって罪が公になるため、罪から免れることはできないのである」
ヤタノカガミとは(まとめ)
アマテルはこれまでの話を総括して詔した。
「常に畏れ、尊ぶべし。
太陽の巡りは、昼は見た目に明らかだが、夜は暗黒に濁る。肉体の病も天地の視点で見れば、天空と地上のような関係にあり、それは陽・陰・世の関係とも言える。この相対する天地(陰陽)の関係を人の身になぞらえて知るべし。ゆえに人のナカコも陰陽の二人が存在するのである。
この陽・陰・世の三つを合わすカカミ(調和)は、『ヤ』はヤシロ(臣)、『タ』は民を整える。その君(その主人)のヨロノミハタ(国の意向)の政治により、国の全土が左右される。民は八尺・八尺身、すなわち上が治めるもの。この民をあまねく照らせるように『ヤタノカガミ』と名付けたのである。
ミサノリ(調和の法)の趣旨を深く学んでここに知るべし」
アマテルはまとめ終えると、今までのことをワカウタにして詠んだ。
『時に笑む ハルナ六ハタレ 先の罪 許りても解けぬ。己か胸 今やや割るる 濁り霊の 汚泥濯きて 後の結お置く。荒猛に 寄る人も 汚泥濯かん 誓ひなす』
(ハルナをはじめとするムハタレには、自分の罪を理解できない者も居る。そのため、そのコリタマ(濁った心)の汚泥を濯いで、後に誓わせることとする。荒猛心に寄る者も汚泥を濯いで誓いを為すべし)
また、タチカラヲもワカウタを詠んだ。
『谷を出て たまゆら聞けは 瑞知れり 喩ひイソラも 竜・狗も 拉く心地 侍へりき』
(今までの講義を偶然に知ったとはいえ、例えイソラ・タツ・イヌであっても改心して守るべし)
また、コモリはタウタ(養生歌)を考えて歌った。
『肺の病 治し易し。情と味の 過き病むも 根に入らぬ間よ。早や癒せ 人業もこれ 色欲も 道もて為せは 誤たす 横寄らは病む。欲しきをも 癒ゑ業なせよ。乏しくと 盗まは枯るる』
(肺の病は治しやすい、情と味によって病になるのだから心には影響しない。早々に癒そう、人業も、色欲も、道理に沿って行えば誤らず、反れることもない。執着を捨てて、真っ直ぐな行いを心がければ良い。離れれば盗みに走るぞ)
コモリは続けて次のように話した。
「臣は常に人の活用について考えますが、肺(垣)によって騙されてしまいます。また、色欲によって腎(情報)に踊らされ、盗みを働けば、肝(臣)が損なわれるでしょう。そして、その騒ぎで心が動転し、それが外見に現われます。コトハ(言葉)とイキス(呼吸)の真髄を知れば、それを伝えて導くことができます。ソロ(米)を肥やし、民を賑わせるのは、この誓いのみでありましょう」
そのとき、アマテルは次のように詔した。
「汝はよく理解している。よって四方を巡り、その道すがらに糧を増やせ。
暇があれば土地を巡るが良い。そうすれば、荒廃した土地も再び肥えるであろう。
神の歌にはこのようにある。
『培えば 惨の葦原も瑞穂成る 民と為せ臣 民と成れ民』
(よく育てれば惨めな土地にも穂が成る 臣は民を教育し、民は民となるよう努力せよ)」
また、アマノコヤネは諸人に対して次のように言った。
「この歌の内容は、末の末までも民の導きになります。素直な業を教えて育てれば、家も栄えて繁盛することでしょう。この歌は瑞穂を成せる激励歌です。このような教えに導かれれば、民を整え賑わせます。また、その国で保護して伝えれば、末民から上流の臣まで、必ずヲシテ(璽)として与え続けるでしょう。とても尊い歌でございます」
これにより、アマテルが伝えた御歌は「威勢と崇高さを兼ね備えた御歌」と皆に讃えられ、臣と民らは各々が声に出して感謝と喜びの声を上げた。
このように「ヤタノカガミ」の名のいわれはとても恵みがあり、崇高なものである。
注釈
登場人物
・アマノコヤネ:『記紀』の天児屋命に比定。カスガカミ
・アマテル:『記紀』の天照大神に比定。男神。日の神。創造神アメミヲヤの顕現
・クニノトコタチ:『記紀』の国常立尊に比定。初代君主を指す
・アメノミヲヤ:『記紀』の天御中主神に比定。万物の根源神たる神霊。アマテルの身として現世に降誕
・イサナギ:『記紀』の伊弉諾尊に比定。七代君主の男尊。アマテルの父
・イサナミ:『記紀』の伊弉冉尊に比定。七代君主の女尊。アマテルの母
・コクミ:元・ネ国の副マスヒト。罪を犯して罪人となる。恩赦で復帰するがオロチに取り込まれる
・シラヒト:元・ネ国のマスヒト。罪を犯して罪人となる。恩赦で復帰するがオロチに取り込まれる
・ミホツヒメ:『日本書紀』の三穂津姫命に比定。クシヒコ(コトシロヌシ)の妻。コモリの母
・コモリ:神社祭神の子守神に比定。クシヒコ(コトシロヌシ)の子
・タチカラヲ:『記紀』の天手力雄神に比定。ヒルコとオモイカネの子
関連知識
単位の定めについて
・一尺:当時の民の平均身長が八尺であった(1尺はその1/8となる)
・一坪:当時の民の平均身長の八尺と同じ大きさ(1坪=8尺となる)
・一間:一坪と同じ大きさ(1間=1坪=8尺となる)
・一丈:一間を八分割して一尺を求め、二尺を足して十尺にした単位(1丈=10尺)
・一寸:一尺を十分割した単位(1寸は1/10尺となる)
環状の天体分度器
天体観測のために作られた環(わ)のような形状の天体分度器と推定されます。
イメージでは、アストロラーベのようなものだと思われます。
この分度器は、一丈を「火・風・埴・水」の4つに分けて「空」を足したものとされます。
つまり、計算に含まれる要素は「火・風・埴・水・空」5要素と考えられます。
形状に関する説明では、一丈のうち八尺を円形に丸めて直径がニ尺余りと記されています。
1丈を棒状にして8尺分を丸めた場合の直径は約2.55尺になるため記述と合います。
そこから八咫鏡の説明に入るため、正直言って翻訳自体にかなり難しいです。
思うに、環状の天体分度器の説明中に八咫鏡の説明が入るので両方が一体となっているのでは?
具体的に言えば、ニ尺余りの鏡の円周部分に環状の天体分度器が付いているような形です。
この辺はいくら考えても、現物が見られない以上は検証しようがありません。
一尺のメートル法での長さ
現代の一尺は約30.3cmですが、メートル法における一尺の長さは時代に違うようです。
・自然尺・指尺(古代):約18.0cm~20.0cm。手を目一杯広げた親指から小指までの距離
・漢尺(弥生~古墳時代):約23.0cm。中国の漢王朝の標準
・小尺(飛鳥・奈良時代):約26.7cm。律令制度で定められた標準
・大尺(飛鳥・奈良時代):約35.0cm。土地の測量用
・高麗尺(飛鳥時代):約35.5cm。朝鮮半島由来
・曲尺(中世):約27.0cm~28.0cm。大工道具の「さしがね」の基準
・享保尺(江戸時代):約30.3cm。徳川吉宗の時代に定められた基準
・鯨尺(江戸時代~現在):約37.9cm。着物(和服)専用の物差し
・現代(明治度量衡法):30.303cm。10/33メートルと定義された現在の1尺
※ホツマには具体的に検証可能な大きさが記されてないので一尺何センチかは不明です
『記紀』との主な違い(AI分析)
ヤタノカガミ(八咫鏡)の意味と位置づけ
ホツマでは、ヤタノカガミは「八民(やたみ)の心を映す鏡」であり、民の平均身長(八尺=ヤタ)を基準とした寸法体系から生まれた“政治・倫理・宇宙観の象徴”として説明される。一方、『記紀』では八咫鏡はアマテラスの依代・神器として描かれ、寸法体系や民との関係性は語られない。
寸法・度量衡の起源
ホツマでは、八尺・一間・一丈・一尺・一寸などの度量衡が、民の身体尺度と天体観測に基づいて体系的に説明される。鏡の直径も天体分度器から導かれる。一方、『記紀』では度量衡の起源は語られず、鏡の大きさや寸法の思想的背景も示されない。
家屋・神社の起源
ホツマでは、ムのタミメから家屋が、ヤのタミメからヤシロ(神社)が生まれたとされ、建築の起源が神代の文字(ヲシテ)と結びつけて説明される。一方、『記紀』では家屋や神社の構造・起源に関する体系的説明はなく、建築思想は示されない。
経(ト)と矛(ホコ)の意味
ホツマでは、クニトコタチが「経(教え)」と「矛(咎を正す道具)」を作り、イサナギ・イサナミに授けたとされ、政治理念・教育理念の根本として扱われる。一方、『記紀』では経と矛の思想的対概念は示されず、矛は国生み神話の象徴的道具として描かれるのみである。
鏡と心の関係(裏鏡・心の鏡)
ホツマでは、鏡は天地の法則を映す象徴であり、心の裏鏡が行為を反転して示すという心理学的・倫理的な説明がなされる。罪は天地・風・地の三作用で必ず露見すると説かれる。一方、『記紀』では鏡は神霊の依代であり、心の鏡・心理反映の思想は語られない。
差別否定と人の本質
ホツマでは、人はアメノミヲヤの子であり、八元神・三十二神の写しであるため本質的に平等であると説かれる。能力差があっても捨てずに育てる「アメナルミチ(和の道)」が強調される。一方、『記紀』では人間の平等性や教育理念は体系的に語られず、身分秩序が前提となる。
因果応報の体系化
ホツマでは、罪は必ず身体や運命に返るという因果応報が詳細に説かれ、盗み・暴力・驕りが臓器の変調や病として現れると説明される。一方、『記紀』では因果応報は物語的に示されるのみで、身体・心理・倫理を結ぶ体系的説明は存在しない。
教育論・子育て論の存在
ホツマでは、曲がった子は環境と教育で直すべきであり、焦らず育てれば真っ直ぐ成長するという教育論が展開される。荒猛な心の扱い、子の性質に応じた教え方など、極めて具体的な教育思想が語られる。一方、『記紀』には教育論は存在せず、子育ての方法や心の扱いは語られない。
六臓(モトモリ)と心の構造
ホツマでは、人の身体は天地の縮図であり、六臓が心(ナカコ)を支える「元守」であると説かれる。心の曇りが臓器に現れ、臓器の変調が天地の知らせとなるという身体観が示される。一方、『記紀』では人体構造や心の働きに関する思想は語られない。
ヤタノカガミの政治的意味
ホツマでは、ヤタノカガミは「民を照らし、心を正すための鏡」であり、政治理念・倫理理念の中心に置かれる。一方、『記紀』では八咫鏡は天孫降臨の神器としての象徴性が中心で、政治倫理の体系とは結びつけられない。
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