【意訳版現代語訳】人の巻 ホツマツタヱ36文 ヤマト姫 神鎮む文
ホツマツタヱ36文の現代語訳を「読みやすさ」と「まとまり」を重視して意訳しました。
詳細な逐語訳や原文を確認したい方は、冒頭のリンクから個別ページを参照してください。
ホツマツタヱ36文のあらすじ
ヤマトヒメの誕生から伊勢の斎宮成立まで、垂仁朝における皇統の継承・神宝の伝達・伊勢神宮の創建過程が体系的に描かれた文(あや)です。
1. ヤマトヒメの誕生と后妃の変遷
后カバヰツキヒメが神託によって懐妊し、三年の懐胎を経てヤマトヒメを出産する。后は出産後に病没し、神として祀られる。その後、垂仁天皇は丹波道の姫たちを后・内侍に立て、多くの皇子皇女が生まれ、皇統が広がっていく。
2. ホンツワケの発語と鳥取部の起源
言葉を発しないホンツワケのために祈祷が行われ、白鳥(クグヒ)を見たことで初めて言葉を発する。これを捕らえたユカワタナが功を認められ、「鳥取部」の祖となる。この説話は『記紀』や風土記にも類例があり、古層の伝承を反映している。
3. ヤマトヒメの御杖代任命とトヨスキヒメの巡幸
垂仁天皇は神祀りの継承を重視し、ヤマトヒメをアマテル神の御杖代に任じる。トヨスキヒメは神霊笥を担いで丹後・近江・美濃を巡り、神託に従って伊勢に至り、斎宮の原型となるイヰノミヤを定める。これが伊勢神宮の成立へとつながる重要な過程として描かれる。
4. 伊勢神宮(内宮・外宮)の創建と神宝の継承
ヤマトヒメは伊勢に入り、アマテル神に奉仕する。サルタヒコが現れ、アマテル神から託された三種の神宝をヤマトヒメ側に返還することで、皇統と神統の結びつきが強化される。五十鈴川の地に宮が造営され、内宮・外宮の役割(内は母の恵み、外は厳父の徳)が示され、伊勢神宮の神祀り体系が確立される。
意訳文
ヤマトヒメの誕生
垂仁9年(上鈴697年)9月16日、珠城宮(垂仁天皇)の后(カバヰツキヒメ)の夢にヤマトヲヲクニタマの神が現れた。そこで神の垂を賜って子を孕んだが、臨月となっても生まれずに病んでしまった。
結局、懐妊から三年後の垂仁12年9月16日に御子を出産し、ヤマトヒメと名付けた。母(カバヰツキヒメ)は後の10月2日に病で罷り、ツヅキカバヰノツキノカミとして嘆き祀られた。
イクメイリヒコの后と御子
垂仁15年(上鈴703年)2月15日、君はタニハミチノウシ(丹波道の大人)の姫を召した。その姫とは、ヒハスヒメ、ヌハタニイリヒメ、マトノヒメ、アサミニイリヒメ、タケノヒメである。
8月初日、ヒハスヒメを后に立てて、妹三人をスケと内侍に立てた。その際、タケノヒメを一人返すと、返されたことを恥じて輿から落ちて罷ったため、此処をオチクニ(堕国)という。
垂仁18年(上鈴706年)8月10日、后のヒハスヒメが御子のニシキイリヒコを生んだ。斎名をヰソキネという。
垂仁20年(上鈴708年)真冬の11月、后(ヒハスヒメ)が御子のヤマトヲシロワケを生んだ。斎名をタリヒコという。次に生んだ御子はオオナカヒメとワカギニで、ワカギニの斎名をハルヒコという。
また、スケ后のヌハタニイリヒメはヌデシワケとイカタラシヒメを生んだ。
また、アサミニイリヒメはイケハヤワケとアサヅヒメを生んだ。
ホンツワケを喋らせる
垂仁23年(上鈴711年)9月ツミヱ初日から2日、君は「ホンツワケは、髭が生えるほど成長したのに言葉を発さないのはなぜだ?」と詔した。これに諸臣は会議して、ヤマトヒメに祈らせることになった。
10月8日、君が殿上に立った時、ホンツワケが飛ぶクグヒ(鵠=白鳥)を見て「これは何というものだ?」と言った。これに君は喜んで「誰か!この鳥を捕ってまいれ!」と詔した。その際、ユカワタナが「捕るのは臣でなければならないのでしょうか?」と問うと、君は「捕った者を褒めてやろう」と答えた。そこで、ユカワタナはクグヒの飛んでいく方向を追っていき、但馬路を経てイヅモウヤヱ(京都府京丹後市弥栄町鳥取)まで到り、そこで遂にクグヒを捕らえた。
11月2日、ユカワタナがホンツワケに捕らえたクグヒを献上すると、ホンツワケはそれをもてあそんで言葉を発するようになった。これにより、君はユカワタナを褒めてトリトリヘ(鳥取部)の姓を与えた。
※『記紀』『尾張国風土記』に同様の説話が載せられており、『出雲国風土記』の「アジスキタカヒコの誕生」と内容が酷似する
ヤマトヒメを御杖代とする
垂仁25年(上鈴713年)2月8日、君はタケヌカワケ、クニフク、ミカサカシマ、トイチネ、タケヒらの諸臣に次のように詔した。
「我が御親のミマキイリヒコ(崇神天皇)は聡明であり、ホツマ(調和・中道)についてよく知っていた。そのため、誤りを正し、謙り下り、神を崇めて、己を懲らした、これゆえに繁栄が篤く、民が豊かに治まった。今の我が代でも、怠らずに神を祀ろうと思う」
3月8日、アマテル神(八咫鏡)をトヨスキヒメから離して、ヤマトヒメに預けた。
トヨスキヒメの巡幸
これより以前のこと、トヨスキヒメは神託により、ミタマケ(神霊笥)を担いで与謝に到った。橋立(天橋立)に掛かる雲は笠縫(相成山傘松)の上から宮津の松(宮津市松原)にまで棚引いていた。
崇神39年3月3日、詔によってケクニの大臣のタケミクラが斎主となった。また、ヒコヰマスの子のタニハミチウシをミケノモリ(神饌の守)とし、アメノヒオキを神主とした。また、フリタマをネキ(禰宜)とし、これらの者にトヨケ神とアマテル神を祀らせた。
なお、タニハミチウシは御供の神恵みにより、良き子(后となる姫達)を得た。
その後、トヨスキヒメはササハタミヤ(篠幡宮)に帰った。その際に再び神託が下り、大神の形見(ミタケバシラ)を得た。そして、近江から美濃を巡ってイセイイノ(妹背の神を斎む場所)であるタカヒオガワ(高日拝)にて歩みを止めた。ゆえに、その地にイヰノミヤ(伊勢の斎宮)を造って神を鎮めた。
※籠神社・真名井神社ほか、天橋立周辺に祀ったものと推察される
伊勢神宮(内宮)の造営と、皇室の御幸
垂仁22年(上鈴710年)12月28日、ヤマトヒメヨシコは11歳で神に貢ぐミツエシロ(御杖代)となった。これにワカゴヲヤコが伴い、クシダ(櫛田)にて年を越した。なお、この地は「ウスメがヤマトヒメの御髪上げをしようとした際に櫛を落とした場所」であったため、クシダと名付けられた。
垂仁23年(上鈴711年)の初日、アケノハラの伊勢高宮に入ると、叔母(トヨスキヒメ)と共にアマテル神に仕えた。
同年9月、姫は粥(かゆ)を以って兄のホンツワケのために祈った。これゆえにイヰノミヤ(飯の宮)という。
3年後、トヨスキヒメは齢103歳となった時に御杖代が続けられないと感じた。そのため、これを見習わせる後継者を予ねてより願っていたが、このたびヨシコ(ヤマトヒメ)が当てられた。ヨシコはウチノヲミコ(内の親王)となり、神霊笥を担いで伊勢飯野(竹神社)から磯辺(磯神社)に遷って神を鎮めた。
その後、神より「良き宮所は南にあり」との告げが下ると、ワカゴをそこに派遣した。ワカゴが五十鈴川に到った際に208万歳になるサルタヒコが現れて、ワカゴに次のように告げた。
「我は昔、アマテル神から賜物を授かった。それをサコクシロウチ(アマテルが生前最後に住んだ宮であるサコクシロの内宮)に入れ、アラミタマ(荒神魂)が現れるのを8万年を待った。
神の神宝とは、アマツヒツキノサカホコキ、ウツクシキスズ、ワイキタチである。アマテル神は『カカンノンテン(発生・成長・熟成)の時を待ち、来たときには道を表せ』と申された。これらはおぼろげの物ではないため、子に継承するわけにもいかずに主(アマテル)を待ち続けた。
我がこれを授ければ『ナガタ生まれのツチキミ』として元に還ろうと思う。さあ、この神宝を持ち帰って主に告げるが良い」
こうしてサルタは神宝をオオワカゴに授けて去って行った。
オオワカゴが帰って報告すると、ヤマトヒメはウヂ(伊勢の宇治)に向かった。そして、宇治に到った際に「これぞ神風のイセノミヤ(妹背の宮)です。此処をサルタの三種を祀る源としましょう」と言った。そして、この返礼としてサルタが座っていたアグライシを祀った。
その後、オオハタヌシ(ワカゴ)と八十供にイソスズハラ(五十鈴原)の草を刈らせ、オチコチヤマの木を伐らせ、(クシヒコの屋造りの法に則って)上下を逆にし、宮地の真ん中にオオミヤハシラ(大宮柱)を敷き立てて、互い違いの木を交差させた。
こうして宮が新造されると、帝(垂仁天皇)に伊勢神宮の完成を報告した。この報告を以って、帝は伊勢神宮に仕えさせるものを決める詔を発した。
「ミカサノヲトド(オオカシマ)はイワイヌシ(斎主)となれ。
・ワタラヒトミはカンヌシ(神主)となれ。
・アベタケヌガをミカワリ(君の代わり)とする。
・ワニクニフクをウチカワリ(内宮の代わり)とする。
・モノベトチネをミウヱ(御上后)の代わりとする。
・タケヒアサトをミコカワリ(御子の代わり)とする」
この詔を以って、各々がイセノミヤ(伊勢神宮)を詣でた。
伊勢の外宮と内宮
垂仁26年(上鈴714年)9月16日、大御神(アマテル)を五十鈴川のサコクシロウチに遷した。
9月17日の夜、ミタケハシラ(アマテルの御神体)を納めた。その後、皇は自らタケノミヤコ(伊勢高宮)にて「雨風の節は程良くて、豊かに実れ」と繁栄を祈った。このようにへりくだり、かしこみて言上して御恵みを願った。これにアマテル神も喜んで、ヤマトヒメを通じて次のように告げた。
「昔、私が住んだサコクシロにシキナミヨスイセノミヤ(陽陰が和合する妹背の宮)が成った。私は此処に永く鎮まり守護しよう。これはトヨケの神と諸共である」
アマテルの告げに君も喜び、ニキテ(和幣)を成して、アサヒ宮のトヨケの神にも使者を派遣した。その際の差使は三輪のミケモチとし、イワヒト(斎人)はタニハミチウシとした。
なお、地主の尊(ヲコヌシ)の教えは、大御神の嗣を思い、妹背の道を全国の民に活かし恵むことであった。ゆえにカツヲヤキ(鰹八木)の千木の内を削ぎ、ウチミヤ(内宮)の内を軽くして八民を豊かに守るのである。
また、トヨケはサカホコノノリを以って、天の星にコクラ(九座)を表し、カツヲコキ(鰹九木)の千木の外を削ぐ。ゆえにアサヒ宮はトミヤ(外宮)であり、内を厚くして厳民の父である、よって畏れて道を得るべし。
なお、内宮は君による母の子を恵む法である。
注釈
登場人物
・イクメイリヒコ:『記紀』の活目入彦五十狭茅天皇に比定。崇神天皇とミマキ姫の子。十一代垂仁天皇
・カバヰツキヒメ:ツヅキタルネの娘。サホ姫の死亡後に垂仁天皇の内宮となる
・ヤマトヒメ:『記紀』の倭姫命に比定。垂仁天皇とカバヰツキ姫の子。アマテル神の斎宮となる
・ヤマトヲヲクニタマの神:『日本書紀』の倭大国魂神に比定。クシヒコのこと。現在は神霊
・タニハミチノウシ:『記紀』の丹波道主命に比定。ヒコヰマスの子。四方の治人の丹波の治人になる
・ヒハスヒメ:『記紀』の日葉酢媛命に比定。タニハチヌシの娘。垂仁天皇の内宮
・ヌハタニイリヒメ:『記紀』の渟葉田瓊入媛に比定。タニハチヌシの娘。垂仁天皇の典侍
・マトノヒメ:『記紀』の真砥野媛に比定。タニハチヌシの娘。垂仁天皇の内侍
・アサミニイリヒメ:『記紀』の薊瓊入媛に比定。タニハチヌシの娘。垂仁天皇の内侍
・タケノヒメ:『記紀』の丹波竹野媛に比定。タニハチヌシの娘。垂仁天皇の妻に召されるも返された
・ニシキイリヒコ:『記紀』の五十瓊敷入彦命に比定。垂仁天皇とヒハス姫の子
・ヤマトヲシロワケ:『記紀』の大足彦忍代別天皇に比定。垂仁天皇とヒハス姫の子。十二代景行天皇
・オオナカヒメ:『記紀』の大中姫命に比定。垂仁天皇とヒハス姫の子
・ワカギニ:『記紀』の稚城瓊入彦命に比定。垂仁天皇とヒハス姫の子
・ヌデシワケ:『記紀』の鐸石別命に比定。垂仁天皇とヌハタニイリ姫の子。和気氏の祖
・イカタラシヒメ:『記紀』の胆香足姫命に比定。垂仁天皇とヌハタニイリ姫の子
・イケハヤワケ:『記紀』の息速別命に比定。垂仁天皇とアサミニイリ姫の子
・アサヅヒメ:『記紀』の稚浅津姫命に比定。垂仁天皇とアサミニイリ姫の子
・ホンツワケ:『記紀』の誉津別命に比定。垂仁天皇とサホ姫の子
・ユカワタナ:『日本書紀』の天湯河板挙に比定。鳥取部の祖
・タケヌカワケ:『記紀』の武渟川別に比定。オオヒコの子。四方の治人のホツマ治人とされる
・ミカサカシマ(オオカシマ):『記紀』の国摩大鹿島命に比定。アメノコヤネの後裔
・トイチネ(モノベトチネ):『日本書紀』の物部十千根大連に比定。イカシコヲの子
・タケヒアサト:『日本書紀』の大伴武日に比定。タケヒ朝臣
・ミマキイリヒコ:『記紀』の御間城入彦五十瓊殖天皇に比定。開化天皇とイカシコメの子。十代崇神天皇
・アマテル神:『記紀』の天照大神に比定。八代君主の男尊。現在は神霊
・トヨスキヒメ:『記紀』の豊鍬入姫命に比定。崇神天皇とトオツアヒメクハシ姫の娘。天照大神の斎宮
・タケミクラ:『豊受皇太神宮御鎮座本紀』の建御倉命に比定。崇神天皇のケクニ大臣
・アメノヒオキ:『豊受皇太神宮御鎮座本紀』の天日別命に比定。アマテル・トヨケの神主
・フリタマ:『豊受皇太神宮御鎮座本紀』の振魂命に比定。アマテル・トヨケの祭祀における禰宜
・トヨケ神:神社祭神の豊受大神に比定。アマテルの祖父に当たる。現在は神霊
・オオワカゴ:『倭姫命世記』の大若子命に比定。ヤマト姫と行動を共にした
・サルタヒコ:『記紀』の猿田彦命に比定。アマテルの神宝をヤマト姫に捧げる。208万歳だった
・ワタラヒトミ:イセ宮完成時に神主となったオオワカゴを指す。豊受大神宮の禰宜家は度会氏
・ワニクニフク:『記紀』の彦国葺命に比定。和珥臣の先祖
・ミケモチ:『旧事紀』の天御食持命に比定。オオタタネコの子
関連社
・籠神社:ホツマにおける「宮津のトヨケ神とアマテル神」に比定
・創建年:不明
・主祭神:彦火明命
・相殿神:豊受大神、天照大神、海神、天水分神
・所在地:京都府宮津市字大垣430
・真名井神社:ホツマにおける「宮津のトヨケ神とアマテル神」に比定
・創建年:不明
・磐座主座(上宮)祭神:豊受大神
・相殿神:罔象女命、彦火火出見尊、神代五代神
・磐座西座祭神:天照大神(主神)、伊射奈岐大神、伊射奈美大神
・所在地:京都府宮津市江尻
・竹神社:ホツマにおける「イヰノミヤ」に比定
・創建年:不明
・主祭神:長白羽神、天照大御神、建速須佐之男命
・所在地:三重県多気郡明和町斎宮
・櫛田神社:ホツマにおける「クシダ」の関連地に比定
・創建年:伝・垂仁天皇22年
・主祭神:大若子命・櫛玉姫命・須佐之男・天忍穂耳・市杵島姫
・所在地:三重県松阪市櫛田町724
・磯神社:ホツマにおける「イソベ」に比定
・創建年:伝・垂仁天皇25年
・主祭神:天照大御神
・所在地:三重県伊勢市磯町1069
・伊勢神宮(内宮):ホツマにおける「サコクシロウチの宮」に比定
・創建年:垂仁天皇26年
・主祭神:天照坐皇大御神
・所在地:三重県伊勢市宇治館町1
・伊勢神宮(外宮):ホツマにおける「トミヤ」に比定
・創建年:雄略天皇22年
・主祭神:豊受大御神
・所在地:三重県伊勢市豊川町279番地
※ホツマツタヱの記述との対応関係に基づく解釈
『記紀』との主な違い(AI分析)
ヤマトヒメ誕生の描写
ホツマでは、后カバヰツキヒメが神託によって懐妊し、三年の懐胎を経てヤマトヒメを出産するという特異な誕生が語られる。一方、『記紀』ではヤマトヒメの出生に神託や長期懐胎の要素はなく、誕生の経緯は簡潔で、神意による懐妊という構造は見られない。
ホンツワケ発語説話の構造
ホツマでは、ホンツワケが白鳥(クグヒ)を見て初めて言葉を発し、その鳥を捕らえたユカワタナが鳥取部の祖となる過程が詳細に描かれる。一方、『記紀』では同様の説話があるものの、鳥捕獲の経路や祈祷の背景は簡略化され、ホツマほどの心理描写や儀礼的意味づけは付されていない。
ヤマトヒメの御杖代任命と伊勢遷幸の描写
ホツマでは、ヤマトヒメがアマテル神の御杖代として任命され、丹後・近江・美濃を巡るトヨスキヒメの神託とともに、伊勢の斎宮成立までの過程が極めて具体的に語られる。一方、『記紀』ではヤマトヒメの巡幸は記されるものの、神霊笥の扱いや巡行路の細部、斎宮成立の儀礼的背景は簡潔で、ホツマほど体系的ではない。
サルタヒコと神宝伝達の扱い
ホツマでは、208万歳のサルタヒコがアマテル神から託された三種の神宝をヤマトヒメ側に返還するという、神統と皇統を結び直す重要な儀礼が描かれる。一方、『記紀』ではサルタヒコは天孫降臨の道案内として登場するのみで、神宝の継承者としての役割は語られず、36文に見られるような神宝返還の物語は存在しない。
伊勢神宮(内宮・外宮)成立の理念
ホツマでは、内宮は「母の恵み」、外宮は「厳父の徳」として明確に役割が分けられ、千木の削ぎ方や宮造りの法まで含めて神祀りの理念が体系化される。一方、『記紀』では伊勢神宮の創建は語られるものの、内宮・外宮の思想的区別や宮造りの技法は示されず、ホツマに見られるような神祀りの哲学的説明は付されていない。
スポンサーリンク
|
|
スポンサーリンク
コメント
0 件のコメント :
コメントを投稿