【意訳版現代語訳】人の巻 ホツマツタヱ38文 ヒシロの代 クマソ打つ文
ホツマツタヱ38文の現代語訳を「読みやすさ」と「まとまり」を重視して意訳しました。
詳細な逐語訳や原文を確認したい方は、冒頭のリンクから個別ページを参照してください。
ホツマツタヱ38文のあらすじ
景行天皇(ヲシロワケ)の即位から、諸国平定、皇子たちの誕生と分立、そしてオウスの西征(熊襲討伐)に至るまでの政治的・軍事的展開をまとめた文(あや)です。
1. ヲシロワケ(景行天皇)の即位と皇統の整備
上鈴788年、ヲシロワケが81歳でアメスヘラギ(天皇)に即位し、三種宝を掲げて新たな統治の体制を整える。これにより景行朝の初暦が成立し、皇統の儀礼的基盤が固められる。
2. 皇子たちの誕生と後継構造の形成
后ヤサカイリヒメをはじめとする多くの后妃から多数の皇子・皇女が生まれ、ワカタリヒコが代嗣御子となる。双子のヲウス・オウス(のちのヤマトタケ)もこの時代に誕生し、皇統の広がりが一気に形成される。
3. 景行天皇の西征と九州平定
熊襲・土蜘蛛の反乱に対し、景行天皇自らが九州へ巡幸し、諸国の長や神々と対話しながら平定を進める。戦勝祈願や社殿造営が行われ、祭祀と軍事が一体となった統治が示される。
4. 御杖代の交代
熊襲・土蜘蛛の平定後、アマテルの御杖代であったヤマトヒメが高齢により「御杖代交代の宣言」を発する。これにより、皇女のヰモノヒメが14歳で御杖代を引き継ぐことになる。
5. 東国調査とオウス召喚
タケウチが東国を調査し、蝦夷の勢力や地勢を報告する。これを受けて景行天皇は、反乱再発の兆しを見てオウス(コウス御子)を召し、西国の鎮圧を命じる。
6. オウス(ヤマトタケ)の西征と武名の確立
オウスは変装策を用いて熊襲の長タケルを討ち、その最期に「ヤマトタケ」の名を授かる。さらに吉備・穴門・浪速の荒ぶる者を討ち、海陸の道を開く。これにより、ヤマトタケとしての武名が確立される。
意訳文
ヲシロワケ(景行天皇)の即位
上鈴788年サシト7月11日、アマツヒツキ(帝位)を受け継いで、斎名をタリヒコというヲシロワケが81歳でアメスヘラギ(天皇)となった。
そして、三種宝をアマヲシカ(天御使)に持たせ、ヤトヨノミハタ(八豊の御幡)をタカミクラ(高御座)に飾り、民に拝ませた。
これによりヲシロワケ(景行天皇)の初暦が成立した。
ヲウスとオウスの誕生
景行2年(上鈴789年)3月、キビツヒコの娘の播磨のイナヒヲイラツメを后(内宮)に立てた。
去年4月、この姫が内侍の時に孕んだが、21ヵ月もの間 御子は生まれなかった。その後、12月15日にウスハタ(臼の端)でモチハナ(飾った餅)を作っている時に双子が生まれた。
双子の兄は斎名をモチヒトという、ヲウスの御子である。
双子の弟は斎名をハナヒコという、オウスの御子である。
この御子らは共によく成長し、共に身の丈が八尺であった。また、兄は身体が弱かったが、弟は二十人力であった。
タケウチの出自
景行3年(上鈴790年)2月初日、紀の国に神(日前神)を祀ろうとして占うと「行くのは好からず」と出てため、御幸を止めてオシマコトの子のウマシタケヰココロを派遣して祀らせた。
なお、アヒカシハラ(阿備柏原)に九年住んだウマシタケヰココロが、ウチマロの娘のヤマトカゲヒメを娶って生んだ子がタケウチである。
オトヒメと出会い、姉のヤサカイリヒメを娶る
景行4年(上鈴791年)2月15日、美濃へ行った臣らが次のように申し上げた。
「美濃には良い女が居ます。また、そこにはヤサカタカヨリがココナキリ(菊・桐)を植えて楽しんだというココリミヤ(泳宮)があります」
ゆえに、君はこの女を得ようと御幸して、まずは美濃高北のヤサカタカヨリのココリミヤに訪れて仮宮とした。その際、生簀(いけす)を覗くとオトヒメ(ヤサカタカヨリの娘のうちの妹)の顔が映ったので、君はオトヒメを召すことにした。
しかし、オトヒメはイセノミチ(妹背の道)の通例に適っていないと思い、君に対して次のように申し上げた。
「私はトツギを好みません。また、御殿に召されるのも好きではありません。私の姉は名をヤサカイリヒメと言います。容姿も良く、后として宮に召されるのに適っているでしょう。姉を召すことで操を立てたとしてください」
君は、これ申し出を許し、姉のヤサカイリヒメを召した。
11月初日、マキムキヒシロの新宮に帰り、ヤサカイリヒメをミノウチメ(美濃から来た内侍)とした。
代嗣御子の誕生
景行4年(上鈴791年)11月15日、ヤサカイリヒメが日の出と共に生んだ子がワカタリヒコである。
また、ヤサカタカヨリはアヒノマヱミヤ(日前国懸神宮)を詣でた時、ヰココロに館で生まれたウチマロの孫の斎名を乞われた。そこでヤサカタカヨリは、その子の斎名をタカヨシとし、名をウチと名付けた。これがタケウチマロである。
御子誕生の雉(使い)が飛ぶと、ヤサカタカヨリが都に上り、ウチマロも内宮へ行って言祝をした。君は喜んで、御子の斎名を乞うと、ウチマロが「ウチヒト」という斎名を捧げた。このウチヒト(ワカタリヒコ)が代嗣御子である。
ヲシロワケの御子と子孫
美濃内侍(ヤサカイリヒメ)がスケ后となった後に生んだ子はヰモキヒコといい、斎名をスズキネという。他に生んだ子は、オシワケ、ワカヤマトネ、オオズワケ、ヌノシヒメ、ヌナキヒメ、カノコヨリヒメ、ヰモキヒメ、ヰソサキヒコ、キビヱヒコ、タカギヒメ、オトヒメである。
イワツクの子のミツハイラツメが三尾のスケ后となって生んだ子はヰモノヒメクスコであり、ウチヲキミ(内親王)となった。
ヰソキネ(ニシキイリヒコ)の娘のヰカワヒメがスケ后となって生んだ子は、カンクシとヰナセヒコである。
アベコゴトの娘のタカタヒメが内侍となって生んだ子は、タケコワケである。
ソヲタケの娘のタケヒメは16ヵ月孕んで生んだ子は双子であり、クニコリワケとクニヂワケという。次にミヤヂワケ、トヨトワケを生んだ。
日向に御幸した時にカミナガの娘のヲタネヒメが乙下侍となって生んだ子は、ヒウガソツヒコである。
ソヲタケの娘のミハカセヒメが生んだ子はトヨクニワケといい、斎名をソヲヒトという。この御子はヒウガキミ(日向君=日向國造)となった。
皇の御子は、男は55人、女は26人、総て合せれば81人である。
なお、ヲヲウス(ヲウス)およびヤマトタケ(オウス)、ヰモキイリヒコ(ヰモキヒコ)、ヰモノヒメ、ワカタラシヒコ(ワカタリヒコ)、トヨクワケ(トヨクニワケ)の6人はヲミコ(親王)の名を帯びる。
残りの75子は、国・県を分け治め、その末裔は多い。
ヲヲウスがヱトトオコに魅せられる
景行12年(上鈴799年)初春、美濃の国のカンホネの娘の姉妹のヱトトオコはクニノイロ(この世の美)であると告げられた。そこで、ヲヲウスをに呼びに行かせたが、ヲヲウスが美濃でヱトトオコの姿を見るなり魅せられてしまった。
ゆえに美濃に留まり密かに通じて返言せず、それから11年の月日が経った。君はこれを咎め、ヲヲウスの都の出入りを禁止した。
熊襲の謀反(周防国の熊襲討ち)
景行12年(上鈴799年)7月、クマソ(熊襲)が叛(そむ)いて朝貢しなかった。このため、筑紫より君の巡幸が乞われて、8月15日じゃら御幸することが決まった。
9月5日、皇が周防佐波(今の山口県)に到った時に「南がいきり立つならば、ツツガ(牢獄)行きとせよ」と詔した。そして、オホノタケモロ、紀のウナデ、モノベナツハナの三人を派遣し、そのカタチ(形)を見せしめた。
ヒトノカミ(非正規の頭領)のカンカシヒメは、皇の御幸を御使から聞いた。そこでシツヤマ(磯津山)の榊(さかき)を抜いて、上の枝に八握の剣と八尺鏡、下の枝に環珠や白旗をトモヘ(先と末の端)に掛けて出向き、「我々は天に背かず、その恵みを得たいと思っています」と述べた。
また、カンカシヒメは背く者らについて次のように説明した。
「害を成すはハナダレは、天の名を借りてマタカル者(ならず者)を集めて菟狭川に集まっています。また、ミミタレも貪欲で民を誑かして御木川(山国川)の縁に集まっています。また、アサハギも供を集めて高羽川に集まっています。また、ツチオリとヰオリもみとり野の川境(沃野を流れる川辺)に隠れ集い、民の財を掠め盗っています。このように、要地に集まって天の臣と騙り、長を名乗っていますので どうか討ち取ってください」
この報告に対し、オホノタケモロが作戦を立て、赤衣・袴などの引出物(贈り物)でアサハギを誘い出した。すると、これに呼応するようにハナダレ、ミミタレ、ツチオリ、ヰオリも集まってきたので、タケモロがことごとく討ち取って皆殺した。
その後、御幸して豊国の長峡(福岡県行橋市長尾)に到ったので、そこを仮都とした。
熊襲の謀反(豊国のツチグモ討ち)
景行12年(上鈴799年)10月、速見邑(大分県速見郡)に到ると、そこの長のハヤミツメが御幸を聞きつけて自ら皇を迎えた。そこで近隣の情勢を次のように説明した。
「北西の窟にはフツチクモ(二人の地蜘蛛)が居り、名をアオクモとシラクモと言います。また、直入県疑野(ナオリネギノ=大分県竹田市菅生辺り)にはミツチクモ(三人の地蜘蛛)が居り、名をウチサル、ヤタ、クニマロと言います。このヰツチクモ(五人の地蜘蛛)は朋族(土蜘蛛の仲間)の中でも力の強いものを集めておりますので、討つには相応の手練が必要です」
これを聞いた君は、すぐに進軍せずに来田見邑(大分県竹田市久住町大字栢木都野)の仮宮にて会議を開くと「皆で一斉に打って出れば、蜘蛛らも恐れて隠れるであろう」という結論に至った。
ゆえに海石榴(ツバキ)を採って槌を造り、猛将を厳選して派遣した。その猛将らは槌で山を穿ち、草を分け、蜘蛛の隠れる窟に入って討ち殺した。これにより、稲葉川の川辺は君の領地となった。
熊襲の謀反(豊国のヤタとウチサル討ち)
景行12年(上鈴799年)、直入県疑野(ナオリネギノ)のウチサルを討つべく、海石榴市(ツバキを採った地)より根際山(その付近の山)を越そうとした。その際、敵が横矢を射って雨のように降らせたため、皇軍は進軍できなくなった。
そこで一旦 城原(大分県直入郡竹田市城原)に返り、フトマニで占って疑野(ネギノ)の土蜘蛛のヤタを討ち破った。これにより、ウチサルも降伏して許しを乞うたが、君はこれを許さなかった。ゆえに土蜘蛛の一派のクニマロも同罪と見なされ、ことごとく滝への身投げに処されて滅ぼされた。
ヤタ、ウチサル、クニマロが滅びると、周辺の地域は治まった。
戦勝祈願の磐座と神社の改築
熊襲討ちの前の話、君は"カシハオノイシ(活栄の石)"に戦勝祈願すると飛び上がった。このカシハオノイシは、長さ六尺、幅三尺、厚さ一尺五寸であった。
これゆえに、戦勝後にスミヨロシ(志加若宮神社)と直入神の両羽の社(直入中臣神社・籾山八幡社)を新造し、これらを祀り、カエモフデ(お礼参り)も行った。
熊襲の謀反(日向のクマソ討ち)
景行12年(上鈴799年)11月、ヒウガタカヤ(日向高屋)に到ると、そこに仮宮を設けた。
そこで行われた熊襲討ちの会議の際に君は次のように詔した。
「私が聞くところによれば、クマソの兄はアツカヤといい、弟をセカヤという。これらとて、所詮はヒトノカミ(非正規の頭領)であり、これを長として集まった者もきっと烏合の衆であろう。ゆえに矛先当たる者(具体的な政治指針を示せる者)は居ないのだ。少々人数は多いが、民の障りを考えれば武力を以って討つのも止む無し。ゆえにこれらクマソを平定せよ」
その時、臣の一人が進み出て次のように申し上げた。
「クマソには、フカヤとヘカヤの二姫が居り、煌々しくも勇ましい娘であると言われております。そこで、これらを貴重な引出物(贈り物)で誘い出し、この隙をうかがって虜にするのはどうでしょうか?」
この提案に君は「良かろう」と賛成し、衣(きぬ)を以って二姫を誘い出し、御許によって恵みを与えた。すると、後に二姫の姉のフカヤが「君の憂いを私が晴らしましょう」と提案した。
フカヤは兵を連れて屋に帰り、酒宴を開いて皆に酒を振る舞った。父のアツカヤが酒に酔って臥した時、まず父の弓弦を切っておき、後に父を殺した。これを成したフカヤが皇に報告すると、皇はシム(親族)を殺したことを憎んで処刑した。
妹のヘカヤについては、叔父のセカヤの子のトリイシカヤと結婚させた。これにより、トリイシカヤをソノクニ(襲国)の国造とした。
その後、君は筑紫の平定が終わるまで日向の高屋宮に6年間も座した。そこでミカハセヒメが内添(ウチサマ)の時に生んだ御子のトヨクニワケを親王とした。これにより、母子ともに日向に留まらせ、日向の国造とした。
賀茂の神を讃えて、国や子を思う御歌を歌う
景行17年(上鈴804年)3月12日、君は子湯県(宮崎県児湯郡)の丹裳小野(ニモノ)に御幸して東を望み、昔を物語る次のような詔をした。
「上祖天君(ニニキネ)は高千穂の峰に登って朝日を拝んで辞洞に入り、妻の方を向いてカミ(上界と下界)を恵む神となった。国の名である賀茂もこれに由来し、『カ』は『上』の、『モ』は『下』の『青人草(民)を恵むこと』を意味している。そして、鳴神(雷)と雨をほど良く別けて満繁の潤いを恵んで民を賑わせたのである。ゆえに この功績はカモワケツチ(賀茂別雷)の神心と言えよう」
こうして賀茂の神を仰いで神祭を催行し、都の空を眺めて次のような御歌を歌った。
『愛しきよし 我家の方ゆ 雲出立ち 雲は大和の 国の幻 復棚引くば 青垣の 山も籠れる 山繁は 命の真十よ 煙火せば ただ子思え 熟山の 白橿が枝を 頭に挿せ愛子』
(愛しい我が家の方に雲が立っている、雲は大和の国の投影、雲が幾重に連なればミモロヤマもその麓の都も繁っているのが良く分かる、山が繁ることは命の鏡である、煮炊する煙を見れば直ちに子らを思い出す、香具山の精がし枝を頭に挿して、自身の山を繁らせよ、愛しい子らよ)
クマツヒコの帰順と弟ヒコの処刑
景行18年(上鈴805年)3月、都帰りの御幸巡りにてヒナモリ(宮崎県小林市細野夷守)に到った時、イワセガワ(宮崎県小林市堤岩瀬)を遥かに望んで人群をオトヒナモリ(ヒナモリを治める兄弟の内の弟)に見せた。帰る時にオトヒナモリが「諸県の主らが大御食を捧げようと、イツミヒメの屋にて集まっております」と申し上げので、これに行った。
4月3日、クマノガタ(熊県=熊本県球磨郡)の長のクマツヒコ兄弟を召した。この際、兄は来たが弟は来なかったため、臣と兄が弟を諭しに行ったが拒まれた。よって弟は処刑された。
水島の由来
景行18年(上鈴805年)4月20日、葦北(熊本県葦北郡)の孤島にて日照りが強かったために君は水を欲した。その際、水が枯れていたのでヤマベコヒダリが天地に祈ると岩角から清水が湧き出てので、これを君に捧げた。これゆえに、この孤島はミヅシマ(水島)と名付けられた。
不知火の由来
景行18年(上鈴805年)5月初日、船を急がせてヤツシロ(八代)へ向かったが、日が暮れて着く岸が分からなくなった。そこで君は「灯火の光る場所へと向かえ」と詔し、その通りにすると岸にたどり着いた。
岸を上がり、その地で村の名を問うと八代の豊村であると分かった。しかし、火を焚いている主が分からなかったため、君は"目印となった灯火は人の起こした火では無い"と思い、その地を「シラヌイ(不知火)の国」と名付けた。
阿蘇の国津神
景行18年(上鈴805年)6月3日、高来県(島原半島)からの輸送を経て、玉杵名邑(タマキナムラ)の土蜘蛛のツヅラを殺した。
6月16日、アソクニ(阿蘇地)に到ると四方が広く、家居が見当たらなかった。そこで君が「此処には人が居るのか?」と問うと、忽然とアソツヒコとアソツヒメの二神が現れて「君よ、"人が居るのか"とは何事か」と言った。そこで、君が「あなた方は誰なのでしょうか?」と問うと、二神は「我らはクニツカミ(地域の守り神)であるが社が廃れているのだ」と答えた。
これに君は直ちに社殿造営の詔を発し、二神のための社殿を新造させると、神は喜んでアソクニを守護することを誓った。これによってアソクニは繁り、多くの家が建つようになった。
三池の由来
景行18年(上鈴805年)7月4日、ツクシチノチ(築後)の高田宮のオオミケ(大木)が倒れた。この大木の長さは970丈であった。
このため、この往来の時に次のような歌が歌われた。
『アサシモの 神木の棹橋 前つ君 礼渡(いやわた)らすも 神木の棹橋』
(阿蘇島の神木の棹橋は、身分の高い君ですら畏れされて渡らせる、故に神木の棹橋なのであろう)
君が この神木について問うと、翁が次のように答えた。
「この神木はクヌギです。倒れる先には朝日翳と杵島峰の夕日翳があるといいます。また、この木は阿蘇山を覆う神の木であります」
これにより、国の名をミケ(三池)と名付けた。
和岬のヤツメヒメカミ
景行18年(上鈴805年)、八女(ヤツメ)を越えた時、君は前山の合岬(アワミサキ)を見て「山並みが畳の如く麗しい。きっと神が居るのだろう」と言った。すると、ミヌサルヲウミが「この峰にはヤツメヒメカミという神がおります」と申し上げた。
ウクハのいわれ
景行18年(上鈴805年)8月、的邑(イクハムラ=福岡県浮羽町)に到った。
この地で御食を進上する日に膳出侍がミサラ(召皿)を忘れたので、邑長が次のように申し上げた。
「昔、天御子(神武天皇)が巡幸して ここで食事をした日にも、膳出がウクハを忘れました。ゆえにクニコトハ(方言)でミサラを"ウクハ"と言います。ヰハ(飯瓮)もこれに同じです。これが重なるとは愛でたき例であると言えるでしょう」
筑紫の御幸を終える
景行19年(上鈴806年)9月8日、君は御幸を終えて纏向の宮に帰ってきた。
御杖代の代替り
景行20年(上鈴806年)サミヱ2月4日、ヰモノヒメクスコ内親王が、筑紫の平定を祝ってイセノカミを祀った。この時、姫は14歳であった。ヤマトヒメは齢108歳であったが、これを喜んでミツエシロ(御杖代)の後任とする次のような宣言を発した。
「年老いて寿命に至れば、私の役目が足りなくなるでしょう。そこで私の八十モノノベの二十司をヰモノヒメに移して仕えさせることにします」
こうしてクスコ(ヰモノヒメ)はアマテル神の御杖代となり、タケノミヤヰ(伊勢内宮)に謹んで仕えることになった。その後、ヤマトヒメはウチハタドノのイソミヤ(磯神社)に隠居し、静かにヒノカミ(日の神=アマテル神)を祀ったことで永らく平穏に過ごした。
タケウチをホツマシルベとし、東国への道を開く(神乗り粥の文)
景行25年(上鈴812年)7月初日、君はタケウチをホツマシルベ(東国の調査官)に任命する詔を発した。これにより、北は津軽からヒタカミ(仙台)を経て、カグノヤカタ(相模)までの道が開かれた。
その際、橘の君のタチバナモトヒコは「地を知りたくば、道は古に遡る」と言い、昔話を語り始めた。
「根の国の大人・治人が奉じる神の御供は『神乗り粥(カミノリカヰ)』である。11月末の弓張(冬至)には、黒豆、大麦、小豆と七菜の米で粥を炊き、これを神乗り粥とする。そして、ウケミタマと五柱(五座の神)を祀るのだ(新嘗祭に当たる)。
年越しは大麦、小豆に米を蒸らす。そして、トシノリとヤマサ(八将軍)の神を呼び、オニヤラヰ(鬼遣らい)を成す。
1月7日の朝は、ナナクサミソ(七種の具を合せたもの)にて五臓を治す。
1月15日の朝は、ムワタマツリ(六腑祭)を行って、米と小豆で『神あり粥(カミアリカユ)』を作る。なお、辻君(サルタヒコ)のシムノマツリ(親族が集まり)では、大豆と小豆にサカメ(大角豆)と七菜の米を炊き、天九の神(アマコノカミ=アメトコタチ)が見知る粥を作る。
このように、身を治める業を著す文にして、幾年にも及んで万民の道標として代々伝えている」
タチバナモトヒコの話を聞いたタケウチは、東国主導の道となるべくネココロ(本性)を明かして帰って行った。
オウスを召して東西を討つ
景行27年(上鈴814年)2月13日、タケウチは東国の調査結果を君に申し上げた。
「ヒタカミ(日高見)では、男女共に髪をアゲマキ(総角)し、身に刺青を彫って勇み立っておりました。また、すべてのヱミシ(蝦夷)の地は肥えています、ゆえに服従しなければ取るべきでしょう」
その後、クマソ(熊襲)が叛(そむ)いて また罪を犯した。
10月13日、君はコウス御子(オウス)を召して、これらを討つように詔した。そこで、コウスは「良いイテ(射手)が居れば連れて行きたいと思います」と言った。すると、皆が「三野のオトヒコが優秀であろう」と言うので、カツラキミヤドを派遣してオトヒコを召すことになった。
オトヒコは、イシウラノヨコタテ、タゴヰナキ、チチカイナキを引き連れて参上し、皆がコウスに付き従った。
ヤマトタケの西征
景行27年(上鈴814年)12月、コウスは西に向かって進み、クマソらの国の情勢を窺った。すると、トリイシカヤが上流におり、一族の長(タケル)が群れ集まってヤスクラ(安楽な状況)を成していることが分かった。
そこでコウスは乙女姿に変装し、衣の内に剣を隠して和みながら乙女らの中に紛れこんだ。そして、クマソらのハナムシロ(宴会場)に入りこみ、酒を振る舞って皆を酔わせた。
その夜更け、コウスは隠した剣を抜いて酔った長(タケル)を刺した。この際、長(タケル)が「今しばらく その剣を止めよ…汝に言いたいことがある」と言ったので、コウスは剣を止めた。そこで長(タケル)から「汝は誰だ」と問われたので「皇の子のコウスである」と答えた。
それを聞いたクマソの長(タケル)は「我はこの国のツワモノ(兵)であるが、他の者は我より劣るために従っているに過ぎない。我は君のような者でないが、我が捧ぐ名を受け取ってくれぬか」と言った。
コウスが頷くと、クマソの長(タケル)は「汝は今より"ヤマトタケ"と名乗るがよい」と言い、そこで息絶えた。その後、コウスはヤマトタケと名乗るようになり、オトヒコを派遣してクマソの朋族(仲間)をことごとく討って治めた。
そして、筑紫より航路をとって帰路に向かった。その途上で、アナト(穴門)や吉備を渡る際には荒ぶる者を殺し、浪速の岸辺ではモノヤカラ(邪霊が取り付いて支配される輩)を皆殺しにした。
※作戦内容がソサノヲのヤマタノオロチ討伐に類似する
西国の平定
景行28年(上鈴815年)2月初日、ヤマトタケは纏向の都に帰って次のように復命した。
「皇の御霊により、クマソらを殺してことごとく平らげたゆえ、西方は事なきを得ました。また、吉備の穴門や浪速の岸にも障りがあり、そこに悪しき息吹が横行していたため、災いを呼ぶアフレモノ(はみ出し者)も討ちました。これにより、海と陸の道も開けたはずです」
この時、皇はオウスのクニムケ(国家の平定)の功績を褒めて賜物を与えた。
注釈
登場人物
・ヲシロワケ:『記紀』の大足彦忍代別天皇に比定。垂仁天皇とヒハス姫の子。十二代景行天皇
・キビツヒコ:『記紀』の吉備津彦命に比定。オトワカタケヒコの子。四方の治人の西南の治人となる
・イナヒヲイラツメ:『記紀』の播磨稲日大郎姫に比定。キビツヒコの娘。景行天皇の内宮
・ヲウス:『記紀』の大碓皇子に比定。景行天皇とイナヒヲイラツヒメの双子の兄
・オウス(コウス):『記紀』の小碓尊に比定。景行天皇とイナヒヲイラツヒメの双子の弟
・ヤマトタケ:『記紀』の日本武尊に比定。オウスが熊襲の首領のトリイシカヤから授けられた名
・タケウチ:『記紀』の武内宿禰に比定。ウマシウチとヤマトカゲ姫の子。孝元天皇の曾孫
・ウマシタケヰココロ:『日本書紀』の屋主忍男武雄心命に比定。ウマシウチに同じ。タケウチの父
・ヤマトカゲヒメ:『記紀』の影媛に比定。ウマシタケヰココロの妻。タケウチの母
・ヤサカタカヨリ:『記紀』の八坂入彦命に比定。崇神天皇とヤサカフリイロネ姫の子
・ヤサカイリヒメ:『記紀』の八坂入媛命に比定。景行天皇の内侍
・ワカタリヒコ:『記紀』の稚足彥尊に比定。景行天皇とヤサカイリ姫の第一子。十三代成務天皇
・ヰモキヒコ:『記紀』の五百城入彦皇子に比定。景行天皇とヤサカイリ姫の第二子
・オシワケ:『記紀』の忍之別皇子に比定。景行天皇とヤサカイリ姫の第三子
・ワカヤマトネ:『記紀』の稚倭根子皇子に比定。景行天皇とヤサカイリ姫の第四子
・オオズワケ:『記紀』の大酢別皇子に比定。景行天皇とヤサカイリ姫の第五子
・ヌノシヒメ:『記紀』の渟熨斗皇女に比定。景行天皇とヤサカイリ姫の第六子
・ヌナキヒメ:『記紀』の渟名城皇女に比定。景行天皇とヤサカイリ姫の第七子
・カノコヨリヒメ:『記紀』の麛依姫皇女に比定。景行天皇とヤサカイリ姫の第八子
・ヰモキヒメ:『記紀』の五百城入姫皇女に比定。景行天皇とヤサカイリ姫の第九子
・ヰソサキヒコ:『日本書紀』の五十狭城入彦皇子に比定。景行天皇とヤサカイリ姫の第十子
・キビヱヒコ:『記紀』の吉備兄彦皇子に比定。景行天皇とヤサカイリ姫の第十一子
・タカギヒメ:『記紀』の高城入姫皇女に比定。景行天皇とヤサカイリ姫の第十二子
・オトヒメ:『日本書紀』の弟媛に比定。景行天皇とヤサカイリ姫の第十三子
・イワツク:『記紀』の磐衝別命に比定。垂仁天皇とカマハダトベの子
・ミツハイラツメ:『日本書紀』の水歯郎媛に比定。イワツクの娘。景行天皇の典侍
・ヰモノヒメクスコ:『日本書紀』の五百野媛に比定。景行天皇とミツハイラツ姫の子
・ヰカワヒメ:『日本書紀』の五十河媛に比定。ニシキイリヒコの娘。景行天皇の典侍
・カンクシ:『記紀』の神櫛皇子に比定。景行天皇とヰカワ姫の子
・ヰナセヒコ:『記紀』の稲背入彦皇子に比定。景行天皇とヰカワ姫の子
・アベコゴト:『日本書紀』の阿部木事に比定。タカタ姫の父
・タカタヒメ:『日本書紀』の高田媛に比定。アベコゴトの娘。景行天皇の内侍
・タケコワケ:『日本書紀』の武国凝別皇子に比定。景行天皇とタカタ姫の子
・ソヲタケ:タケ姫とミハカセ姫の父
・タケヒメ:『日本書紀』の襲武媛に比定。ソヲタケの娘。景行天皇の妻
・クニコリワケ:『旧事紀』の国凝別皇子に比定。景行天皇とタケ姫の子
・クニヂワケ:『日本書紀』の国乳別皇子に比定。景行天皇とタケ姫の子
・ミヤヂワケ:『日本書紀』の国背別皇子に比定。景行天皇とタケ姫の子
・トヨトワケ:『記紀』の豊戸別皇子に比定。景行天皇とタケ姫の子
・カミナガ:日向国造。ヲタネ姫の父
・ヲタネヒメ:『日本書紀』の日向髪長大田根に比定。カミナガの娘。景行天皇の乙下侍
・ヒウガソツヒコ:『日本書紀』の日向襲津彦皇子に比定。景行天皇とヲタネ姫の子
・ミハカセヒメ:『記紀』の御刀媛に比定。ソヲタケの娘。景行天皇の内侍
・トヨクニワケ:『記紀』の豊国別皇子に比定。景行天皇とミハカセ姫の子
・ヱトトオコ:美濃のカンホネの娘。ヱトオコとトトオコの姉妹を指す
・オホノタケモロ:『日本書紀』の武諸木に比定。カンヤヰミミの後裔
・ウナデ:『日本書紀』の菟名手に比定。紀の国造と思われる
・モノベナツハナ:『日本書紀』の物部君祖夏花に比定。ヤツナダの孫
・カンカシヒメ:『日本書紀』の神夏磯媛に比定。景行天皇の熊襲討伐で庇護を求めた一族の頭
・ハナダレ:『日本書紀』の鼻垂に比定。菟狭川にいたハタレ
・ミミタレ:『日本書紀』の耳垂に比定。御木川にいたハタレ
・アサハギ:『日本書紀』の麻剥に比定。高羽川にいたハタレ
・ツチオリ:『日本書紀』の土折猪折(土折)に比定(混同されている)。緑野川にいたハタレ
・ヰオリ:『日本書紀』の土折猪折(猪折)に比定(混同されている)。緑野川にいたハタレ
・ハヤミツメ:『日本書紀』の速津媛に比定。景行天皇の熊襲討伐で敵情を報告した一族の長
・アオクモ:『日本書紀』の青に比定。熊襲討伐の際に石窟にいたフツチクモの一人
・シラクモ:『日本書紀』の白に比定。熊襲討伐の際に石窟にいたフツチクモの一人
・ウチサル:『日本書紀』の打猿に比定。熊襲討伐の際に直入禰疑野にいたミツチクモの一人
・ヤタ:『日本書紀』の八田に比定。熊襲討伐の際に直入禰疑野にいたミツチクモの一人
・クニマロ:『日本書紀』の国摩侶に比定。熊襲討伐の際に直入禰疑野にいたミツチクモの一人
・アツカヤ:『日本書紀』の厚鹿文に比定。景行天皇が討った熊襲の頭。フカヤとヘカヤの父
・セカヤ:『日本書紀』の迮鹿文に比定。アツカヤの弟
・フカヤ:『日本書紀』の市乾鹿文に比定。アツカヤの娘。皇軍に寝返って父を討つが処刑される
・ヘカヤ:『日本書紀』の市鹿文に比定。アツカヤの娘。トリイシカヤの妻。襲の国造になる
・トリイシカヤ:『日本書紀』の取石鹿文・川上梟帥に比定。襲の国造になるが、謀反を起こす
・オトヒナモリ:『日本書紀』の弟夷守に比定。ヒナモリを治める兄弟の弟
・クマツヒコ:『旧事紀』の熊津彦命に比定。熊の県の県主
・ヤマベコヒダリ:『日本書紀』の小左に比定。熊襲討伐の帰路に水を天地に祈ると湧き出した
・ツヅラ:『日本書紀』の津頰に比定。玉杵名村付近を縄張りにしていた地蜘蛛の頭
・アソツヒコ:『日本書紀』の阿蘇都彦に比定。阿蘇国のクニツカミの男神
・アソツヒメ:『日本書紀』の阿蘇都媛に比定。阿蘇国のクニツカミの女神
・ミヌサルヲウミ:『日本書紀』の水沼猿大海に比定。景行天皇にヤツメ姫神の存在を教えた
・ヤツメヒメカミ:『日本書紀』の八女津媛に比定。合岬の女神とされる
・ヤマトヒメ:『記紀』の倭姫命に比定。垂仁天皇とカバヰツキ姫の子。アマテル神の斎宮となる
・アマテル神:『記紀』の天照大神に比定。八代君主の男尊。現在は神霊
・トシノリ:五臓神と六腑神のこと。年の干支を告げる神
・ヤマサ:方位神である八将神に比定。地の十一神から分れ出た八神霊とされる
・サルタヒコ:『記紀』の猿田彦命に比定。猿部の祖
・アマコノカミ:天上の九座の神であるアメトコタチを指すとされる
・オトヒコ:『日本書紀』の弟彥公に比定。オウスが西征に連れていった射手
・イシウラノヨコタテ:『日本書紀』の石占横立に比定。オトヒコと共にオウスに随行
・タゴヰナキ:『日本書紀』の尾張田子稻置に比定。オトヒコと共にオウスに随行
・チチカイナキ:『日本書紀』の乳近之稻置に比定。オトヒコと共にオウスに随行
関連社
・日前国懸神宮:ホツマにおける「アヒノマヱミヤ」に比定
・別 名:日前宮、名草宮
・創建年:(伝)神武天皇2年
・主祭神:(日前神宮)日前大神、(國懸神宮)國懸大神
・所在地:和歌山県和歌山市秋月365
・志加若宮神社:ホツマにおける「スミヨロシの社」に比定
・創建年:不明
・主祭神:志我神ほか
・所在地:大分県豊後大野市朝地町志賀2
・籾山八幡社:ホツマにおける「直入物部神の社」に比定
・創建年:不明
・主祭神:直入物部神
・所在地:大分県竹田市直入町大字長湯8352
・直入中臣神社:ホツマにおける「直入中臣神の社」に比定
・創建年:不明
・主祭神:直入中臣神、武甕槌神、経津主神、天児屋神、比売神、許登能麻遲媛神、天押雲根神
・所在地:大分県由布市庄内町阿蘇野
・阿蘇神社:ホツマにおけるアソツヒコ・アソツヒメにまつわる社に比定
・創建年:伝・第7代孝霊天皇9年
・主祭神:健磐龍命、阿蘇都比咩命ほか
・所在地:熊本県阿蘇市一の宮町宮地3083-1
・伊勢神宮(内宮):ホツマにおける「タケノミヤヰ」に比定
・創建年:垂仁天皇26年
・主祭神:天照坐皇大御神
・所在地:三重県伊勢市宇治館町1
・磯神社:ホツマにおける「イソミヤ」に比定
・創建年:伝・垂仁天皇25年
・主祭神:天照大御神
・所在地:三重県伊勢市磯町1069
※ホツマツタヱの記述との対応関係に基づく解釈
関連地
・泳宮:美濃の「ココリミヤ」に比定
・岐阜県可児市久々利字御殿畑にある泳宮史跡
※ホツマツタヱの記述との対応関係に基づく解釈
関連知識
記紀の西征とホツマの記述について
景行天皇の西征(九州巡幸)と熊襲討伐は、古代日本の国家統合を語るうえで重要な位置を占めていますが、そもそも『日本書紀』と『古事記』ではその描写が大きく異なっています。
『古事記』では、景行天皇の九州巡幸は簡略的で、土蜘蛛討伐や熊襲の反乱も短い物語として扱われます。また、オウスの西征は独特で、兄・オオウスを殺害した事件を契機に、景行天皇から「傍に置きたくない」という理由で熊襲討伐へ送り出されるという、父子関係の断絶を軸とした物語構造になっています。クマソタケル(熊襲の長)を討つ場面では、女装して騙し討ちで倒し、クマソタケルの死の間際にヤマトタケルの名を献上されるという展開となっています。これらをまとめると、『古事記』のオウス像は、父に拒絶された孤独な少年が機知と武力で過酷な任務を達成していく「孤独な英雄譚」として描かれていると言えます。
『日本書紀』では、景行12年から19年にかけての長期遠征が克明に記され、土蜘蛛の首長名、戦闘の地勢、神々との対話、社殿造営などが詳細に描かれています。オウスの西征については、聡明で体格に優れた皇子であったオウスが自ら西征を志願し、景行天皇からの信頼を受けて出征するという構図になっています。カワカミタケル(熊襲の長)を討つ場面では、あらかじめ娘と仲良くなって近づいて熊襲の酒宴に潜入し、酒宴の最中に髪を解いて童姿となり、衣服に剣を隠してカワカミタケルに近づき、酔った隙を突いて討ち取るという知的な策略が描かれます。そして、カワカミタケルの死の間際にヤマトタケルの名を献上されるという内容です。これらをまとめると、『日本書紀』のオウス像は、国家の命令を忠実に遂行する「優秀な皇子としての英雄譚」として描かれていると言えます。
つまり、『記紀』の段階で既に「西征の描写密度」と「オウス像の性格付け」に大きな差が存在しているわけです。
ホツマツタヱ38文は、この二つのうち『日本書紀』に近い内容となっています。景行天皇が九州各地を巡幸し、土蜘蛛や熊襲を平定し、神々と対話し、地名の由来を語り、社殿を造営するという流れは『日本書紀』の景行天皇紀とよく対応しています。また、オウスの扱いについては『日本書紀』の流れとほぼ同じで、熊襲の長を討つ場面だけが『古事記』と同様になっていると言えます。
ただし、ホツマには独自の特徴があり、特にタケウチによる東国調査の描写は『日本書紀』よりも具体的で、蝦夷の髪型(アゲマキ)、刺青、生活様式、地勢などが細かく語られています。また、地名の由来が巡幸ルートに沿って体系的に説明される点や、名の授与(ヤマトタケ)の場面が言霊と名の霊力の継承儀礼として描かれる点は『日本書紀』には見られないホツマ独自の思想的特徴だと言えます。
『日本書紀』との主な違い(AI分析)
皇子誕生の描写の細密さ(懐胎期間・出生儀礼)
ホツマでは、后妃の出自・懐胎期間・出生の状況・出生儀礼が極めて詳細に描かれ、双子(ヲウス・オウス)の出生事情も具体的に語られる。一方、『日本書紀』では出生は記されるが、懐胎期間や出生儀礼の細部はほとんど描かれない。
皇子の序列・役割・分立の体系化
ホツマでは、皇子たちの序列・役割・分立(どの子がどの地域を治めるか)が体系的に整理され、代嗣御子(ワカタリヒコ)の位置づけも明確である。一方、『日本書紀』では皇子の列挙はあるが、役割分担や体系的な序列構造はここまで明確に整理されない。
東国(蝦夷)の描写の具体性
ホツマでは、タケウチの東国調査を通じて、蝦夷の髪型(アゲマキ)、刺青、生活様式、地勢などが具体的に描かれる。一方、『日本書紀』にも「髻を結い、身に文(刺青)をする」という最低限の風俗描写はあるが、ホツマは名称・生活様式・地勢の細部まで踏み込んでおり、描写の具体性のレベルが異なる。
オウス(ヤマトタケ)の「名の授与」の思想性
ホツマでは、熊襲の長タケルが死の間際に「ヤマトタケ」の名を授ける場面が、言霊(タマ)と名の霊力を継承する儀礼として描かれる。一方、『日本書紀』にも名の授与はあるが、「強さを認めて名を譲る」という降伏の証として描かれ、思想的背景は説明されない。
地名の由来(名付け)の体系性
ホツマでは、景行天皇の巡幸ルートに沿って、地名がどのように生まれたか(名付けの理由)が連続的・体系的に説明される。一方、『日本書紀』にも地名起源説話はあるが、個別エピソードとして断片的に現れ、体系的な地理構造としては整理されない。
統治理念としての「祭祀・儀礼」の位置づけ
ホツマでは、戦勝祈願・神祭・社殿造営がアメノミチ(統治理念)と結びついた儀礼体系として描かれる。一方、『日本書紀』にも祭祀はあるが、政治的事件の中に挿入される形で、理念体系としての説明は行われない。
『古事記』との主な違い(AI分析)
皇子誕生の描写の密度
ホツマでは、后妃の出自・懐胎期間・出生儀礼が詳細に描かれ、双子(ヲウス・オウス)の出生事情も具体的に語られる。一方、『古事記』では景行天皇の皇子誕生は簡潔で、懐胎期間・出生儀礼・后妃の心理などはほとんど描かれない。
皇子の序列・役割の体系化
ホツマでは、皇子たちの序列・役割・分立が体系的に整理され、どの皇子がどの地域を治めるかが明確に示される。一方、『古事記』では皇子の列挙はあるが、役割分担や体系的な序列構造はほとんど語られない。
景行天皇の西征の扱い
ホツマでは、景行天皇自らが九州を巡幸し、土蜘蛛・熊襲の平定、神々との対話、社殿造営、地名の由来などが連続的に描かれる。一方、『古事記』では景行天皇の九州巡幸は極めて簡略で、土蜘蛛討伐も短い記述に留まり、地名起源や祭祀の詳細はほとんど語られない。
オウス(ヤマトタケ)の位置づけ
ホツマでは、オウスの熊襲討伐は景行天皇の命を受けた“限定的な西征”として描かれ、名の授与が言霊(タマ)と名の霊力の継承儀礼として扱われる。一方、『古事記』ではヤマトタケの物語が大幅に拡張され、英雄譚として中心的に描かれ、熊襲討伐も劇的な物語として強調される。
名の授与の思想性
ホツマでは、熊襲の長タケルが「タケ(武)の心」をオウスに授けるという、名の霊力の継承儀礼として描かれる。一方、『古事記』では、熊襲タケルが「汝は勇ましいからヤマトタケルと名乗れ」と述べるのみで、言霊的・儀礼的背景は語られない。
地名の由来(名付け)の体系性
ホツマでは、景行天皇の巡幸ルートに沿って地名の由来が連続的・体系的に説明される。一方、『古事記』では地名起源説話はほとんど登場せず、景行天皇紀における地名の体系的説明は見られない。
東国(蝦夷)の扱い
ホツマでは、タケウチの東国調査を通じて蝦夷の風俗・髪型・刺青・生活様式・地勢が具体的に描かれる。一方、『古事記』では蝦夷はほとんど登場せず、東国の風俗・文化・地勢に関する記述はほぼ存在しない。
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