【意訳版現代語訳】天の巻 ホツマツタヱ10文 カシマ立ち 釣鯛の文
ホツマツタヱ10文の現代語訳を「読みやすさ」と「まとまり」を重視して意訳しました。
詳細な逐語訳や原文を確認したい方は、冒頭のリンクから個別ページを参照してください。
ホツマツタヱ10文のあらすじ
出雲のオホナムチによる専横と、それに対する天(中央政府)の使節派遣、そして最終的な国譲りと戦後の統治体制が描かれた文(あや)です。
1. 出雲の増長と使者の失敗
出雲のオホナムチが身分不相応な巨大な宮を築き、慢心しているとの報告が天に届く。事態を重く見たタカキネ(タカミムスビ)は、説得のためホヒ、次いでアメワカヒコを派遣するが、両者とも出雲の懐柔や私欲に溺れて任務を放棄し、天への報告を怠る。
2. アメワカヒコの最期と葬儀
天から様子を探るべく遣わされた雉(伝令)を、アメワカヒコは授かった矢で射殺する。その矢が天まで届き、タカキネが「返し矢」として射ち返すと、アメワカヒコに当たり彼は絶命する。出雲で行われた葬儀では、鳥たちが役目を分担する奇妙な儀式が執り行われ、容姿が酷似したタカヒコネが死者と間違われ激怒する騒動が起きる。
3. カシマ直ちと武力による国譲り
相次ぐ説得の失敗を受け、天はフツヌシとタケミカツチによる強硬な「カシマタチ(直ちの決起)」を決定する。出雲に降り立った二神は武威を示して国譲りを迫る。オホナムチの長男クシヒコは速やかに恭順の意を示すが、次男タケミナカタは抵抗し、力比べに敗れて諏訪へと逃れる。これによりオホナムチは降伏し、平和裏に国権が天へ返還される。
4. 戦後処理と新たな統治
平定の功によりタケミカツチは「カシマカミ」の称号を賜る。隠居したオホナムチは津軽へ移り、そこで教育を受け直して再起を図る。一方、国を譲ったクシヒコはミホツヒメは結婚し、その間に生まれたミホヒコは多くの子(三十六子)を養育した功績から「コモリカミ」として称えられた。
意訳文
裕福なイヅモとシチリの知らせ
25鈴93枝年のサアヱ(37穂)の夏のこと。
橘の枝の萎り(しちり=しおれること)を受け、フトマニによって占ったところ「シチリ」という凶事が浮かび上がった。そのため、このフトマニの結果をイヅモ(西北隅の国)に使者を送ってフトマニの結果を伝えることにした。
イヅモにこれを伝えたヨコベ(補佐・監査役)は、帰還した後に天(中央政府)に次のように報告した。
「出雲八重垣(オオモノヌシ)のオホナムチは、自らの宮に「タマガキウチミヤ(玉垣内宮)」という分不相応な額を掲げていました。さらに、ココノヱ(皇居)に匹敵する規模の巨大な宮を築いています。これは陽陰の道(基本法)が説く「満つれば欠ける」という理の現れ、すなわち慢心の兆しではないでしょうか?」
この報告を受け、天は謀反の芽を摘むべく、出雲の行き過ぎた態度を正すことを決定した。
ホヒによる出雲の説得
これより以前、ミコモリ(皇子守)のオモイカネは信濃のイナホラに入り、アチノカミとなっていた。そのため、七代目タカミムスビのタカキネがヤスカワの新宮にて、オシヒト(オシホミミ)に代わって大嘗事(大政)を執ることになった。
タカキネは諸守を集めて「イヅモの態度を正したいと思うが、その適任は居るか?」と問うた。すると、皆から「ホヒの尊が良いでしょう」との声が挙がったので、ホヒが出雲へ派遣されることとなった。
しかし、ホヒは出雲の(国家を守る者=公務員)であるオホナムチに媚びへつらい、三年が経過しても報告をしなかった。そこで、ホヒの子であるオオセイイミクマノを派遣したが、子もまた父と同様に出雲に留まり、帰ってくることはなかった。
アメワカヒコによる出雲の説得
ホヒの派遣が失敗に終わったため、再び守議が開かれ、出雲への次なる使者の選定が行われた。その結果、アマ国のアメワカヒコが選ばれることになり、タカミムスビはカゴ弓とハハ矢を授けて出雲へと送り出した。
しかし、アメワカヒコもまた忠義を尽くさず、出雲にてオホナムチの娘であるタカテルヒメを妻に娶った。また、アメワカヒコは出雲と葦原国の併合を企むようになり、八年経っても帰ろうとしなかった。
この事態に天(中央政府)は、名無しの雉(伝令)を遣わして様子を探らせることにした。雉はアメワカヒコの宮の門前で、天の使者でありながら堕落したアメワカヒコの姿を見て、ホロロホロロと鳴いた。その声を聞いた下侍が「名無しの雉が、天の使者を見て嘆いています」とアメワカヒコに告げた。
それを聞いたアメワカヒコは天から授かった弓矢を手に取り、雉に向けてハハ矢を放った。すると、ハハ矢は雉の胸を貫き、さらに天まで飛んでいってタカミムスビ(タカキネ)の前に落ちた。
ハハ矢に付いた雉の血を見たタカミムスビは、その「不咎む返し矢」を射ち返すと、それはアメワカヒコの胸に当たって絶命させた。この出来事が「返し矢は恐るべし」という言葉の由来となった。
アメワカヒコの葬儀
アメワカヒコの死を受け、妻のタカテルヒメの悲痛な泣き声は天(中央政府)にまで届いた。この知らせを受けたアメワカヒコの父母は、直ちに出雲へ向かって屍(しかばね)を引き取り、喪屋を建ててカリモカリ(仮殯)の儀式を行った。その様子は次の通りであった。
・川雁(かわかり)が、キサリモチ(遺体の搬送者)を担う
・雀(すずめ)が、飯役を担う
・鳩(はと)が、モノマサ(弔辞を述べる者)を担う
・鷦鷯(みそさざい)が、御衣役を担う
・鳶(とび)が、木綿を奉じる役を担う
・烏(からす)が、ツカ(埋葬する者)を担う
こうして八日八晩、死を悼む儀式が慎ましく執り行われた。
タカヒコネとシタテルヒメ
タカテルヒメの兄であるタカヒコネは天(中央政府)に上り、アメワカヒコの喪屋を訪れる許可を得た。
このタカヒコネの容姿は、亡きアメワカヒコと瓜二つであった。そのため、タカヒコネが喪屋を訪れた際には、アメワカヒコの身内の者たちに「主が蘇った」と勘違いされ、たちまち人だかりができた。そして「八年ぶりだな」と言われてまとわり付かれた。
タカヒコネは死者と間違われたことに激怒し、「友ゆえに遠路はるばる訪ねたというのに、私を死人と間違えるとは何と汚らわしいことか!腹が立つ!」と言い放って、怒りのままに喪屋を斬り伏せ、穢れを祓うように葬儀を去ろうとした。この時に用いられた剣を「アオハカリの剣」という。
この場には、かつて中山道を開いたカナヤマヒコの孫娘であるシタテルヒメ(オクラヒメ)がいた。
シタテルヒメはタカヒコネの怒りを諌めようと、次のような短歌を詠んだ。
『美なるや 復棚機の 促せる 珠のミスマル ミスマルの 穴珠逸み 誰に二輪 垂らすアチスキ タカヒコネぞや』
(麗しき、果てなき天の川の身を飾る珠(星)の集まりは貴方と私。貴方は怒り、私はときめきで沸き踊る。誰と御統を垂らしましょう。アチスキタカヒコネ殿)
タカヒコネは、この歌の続きが分かったため、怒りと太刀を収めた。そして、女男のミヤビ(和合)を諭そうと、次のような返歌を歌った。
『天下がる ヒナツメの意は ただ背訪ひ しかはかたふち 片淵に 網張り渡し 群寄しに 寄し選り好い しかはかたふち』
(都から遠くに下る鄙つ女(田舎娘)の意図は、ただ友を弔うこと(男に迫ること)。そなたは不公平。魚が集る片淵に網を張り渡せば群衆が寄せる、寄せて選り好むそなたは不公平)
このやり取りは、後に男女の縁を結ぶ「アフウス(合ふ失す)」のカモイト(離糸)を繋ぐ、ヒナフリ(歌のやりとり)となった。
カシマ直ちの決起
これまでの出雲への派遣がことごとく失敗に終わったことを踏まえて、タカミムスビはトミカレ(臣の堕落)を排除するための門出の「カシマタチ(カシマ直ち)」を敢行した。これは、すなわちハニスキマツル(地を直し調える)ための守議である。
このカシマタチにおいて、諸臣から評価の高いフツヌシの派遣が推奨された。その際、タケミカツチが進み出て「皆、フツヌシ殿ばかりを推すが、他に優れた者を忘れてはいまいか?」と問うた。これにタカキネ(タカミムスビ)は「それこそは、勇みのミカツチよ」と答えた。
こうしてフツヌシを正使、タケミカツチを副官として添えることになり、出雲を正すカシマタチが行われることになった。
出雲の国譲り
出雲に降り立ったフツヌシとタケミカツチは、キツキ(杵築宮)の前に「カフツチノツルキ(曲治の剣)」を植えてうずくまった。そして、宮に向けて「我らは、貴殿の驕り高ぶり、曲がった道を正しに来た。その心、未だ変わらぬか!」と大声で告げた。
これにオホナムチは即答できないと思い、ミホサキにいる息子のクシヒコ(コトシロヌシ)に雉(伝令)のイナセハギを遣わした。
イナセハギが天(中央政府)への対応を問うと、クシヒコは笑顔で次のように答えた。
「私はスズカ(真直ぐ)な気持ちです。父母にはこのように伝えてください。
臣たる我らは、針に掛けられた鯛のようなものです。主君の副たる臣という立場でありながら、これ以上の威勢を極めるのは愚かなことです。タカマは民のヱミスタヰ(えみすたい)、すなわち民は喜んでタカマの統治に従っているのです。
このように、大変恐れ多い詔には我らも従うのが道理なのです。ゆえに父が退くならば、私も共に出雲を去りましょう」
これを聞いたイナセハギは、直ちに出雲に帰ってオホナムチに伝えた。
クシヒコの意向に納得がいかなかったオホナムチは「私にはもう一人の子がいる」と言おうとすると、もう一人の子のタケミナカタが千引岩を捧げ持って現れ、「裏でコソコソと我が国を脅す者がいるようだな。出てこい!私と力比べをして決めようではないか!」と言い放った。
これにタケミカツチが応えて、タケミナカタの捧げた千引岩を易々と掴んで投げ捨ててしまった。これに驚愕したタケミナカタは恐れをなして逃げ出したが、タケミカツチはこれを追っていき、遂にシナノウミ(諏訪湖)まで追い詰められた。そこでタケミカツチが「すわ(さあどうする)」と迫ると、タケミナカタは「助けてくれ、そうすれば此処から外へは出ず、背かぬことを約束しよう」と言ったので、タケミカツチは許すことにして立ち去った。
そして、出雲に戻り再びオホナムチに問うと、とうとう諦めて子の言う通りにしようと思い、出雲を二守(フツヌシ・ミカヅチ)に差し出した。その際、オホナムチは二守に次のように言った。
「我が子が去るならば、私も去ろう。しかし、今後も逆らう者が出るかもしれぬ。その時はこの『クサナギの矛』で平らげるがよい」
こうしてオホナムチは「クサナギの矛」を譲り渡すと、出雲の地を去っていった。
カシマカミ
オホナムチが出雲を譲った後、二守は逆らう者を斬りつつ、従う者を褒めて出雲を平定し、諸守を率いて天に凱旋した。
二守が天に戻ると、タカキネは君(アマテル)に代わって次のように詔した。
「フツヌシの筋の通った導きは誠に優秀であった。
また、ミカツチは曲者を正し、逆らうモノノベを平らげた功により、カシマカミのカンヘ(称号)を与えよう」
こうしてタケミカツチは「カシマカミ」という名を授かることになった。
津軽のオホナムチ
一方、出雲を追われたオホナムチは、子孫の180人を率いてヤスカワに至った。その姿は惨めなものであり、人知れず涙を流すほどの苦労したという。後にタカミムスビの口添えもあり、オシホミミからオホナムチに対して詔が下された。
それにより、オホナムチは津軽のアソベの「アカルミヤ(辺境の宮)」を賜ることとなった。天(中央政府)の恵みによって、枯れたアソベの地を得たオホナムチは、直ちにアカルミヤの造営に取り掛かった。
アソベの領地には、千尋の掛橋や180縫の白立を造り、壮大で絢爛(けんらん)な都を新造した。これにより、ウツシクニタマオホナムチは「ツカルウモト(津軽の辺境)」の守となった。
なお、出雲の地はホヒの尊に引き継がれた。
クシヒコとミホツヒメの結婚
その後、タカミムスビはクシヒコに次のような大御言(命令)があった。
「モノヌシのクシヒコよ、この地の女を娶ればうとまれよう。そこで、我が娘のミホツヒメを娶り、80万守を司れ。そして御孫(ニニキネ)を守り奉るべし」
クシヒコは、この大御言に従ってミホツヒメと結婚し、ヨロギの地を賜った。そして、この地にナメコト(嘗事・医薬事)のチクサヨロキ(千草万木)の名を起こし、弱者のために病気を癒す道を開いた。
コモリカミ
クシヒコとミホツヒメは間に一人の代嗣を儲けた。その子は、幼名をヨロキマロ、斎名をミホヒコと言う。
ミホヒコは、二人の妻を娶って計36子を儲けた。
まず、スヱツミの娘のイクタマヨリヒメを娶って十八人の男子を儲けた。
次に、越国のアチハセの娘のシラタマヒメを儲けて十八人の女子を儲けた。
この多くの子らを養育したことから、詔によって「コモリカミ」のヲシテ(璽)を賜った。
セミノオガワで禊をし、チノワを立たす六月の行事は、民によって長らく祓えの儀式として伝えられた。
コモリが儲けた男児は、次の通りである。
一は、カンタチ
二は、ツミハ
三は、ヨシノミコモリ
四は、ヨテ
五は、チハヤヒ
六は、コセツヒコ
七は、ナラヒコ
八は、ヤサカヒコ
九は、タケフツ
十は、チシロ
十一は、ミノシマ
十二は、オオタ
十三は、イワクラ
十四は、ウタミワケ
十五は、ミコモリ
十六は、サキス
十七は、クワウチ
十八は、オトマロ
コモリが儲けた女児は、この通りである。
一は、モトメ
二は、タマネヒメ
三は、イソヨリヒメ
四は、ムレノヒメ
五は、ミハオリヒメ
六は、スセリヒメ
七は、ミタラシヒメ
八は、ヤヱコヒメ
九は、コユルキヒメ
十は、シモトヒメ
十一は、ミチツルヒメ
十二は、ハモミヒメ
十三は、ムメチルヒメ
十四は、アサヒメ
十五は、ハサクラヒメ
十六は、ワカネヒメ
十七は、アワナリヒメ
十八は、トヨリヒメ
すべて合せて36尊の子宝である。
カツテカミ 代継ぎ得る歌
カツラキのヒトコトヌシが、スヱツミの娘のヤスタマヒメとの間に生んだ子はカツキマロである。このカツキマロの斎名はヤスヒコといい、ミホヒコと共にココトムスビの教えを継承した。
なお、カツキマロがミウチ(御内)に居た時に大御神(アマテル)から「カツテカミ」のヲシテを賜った。これも代継ぎを得るための歌の道である。
注釈
登場人物
・オホナムチ:『記紀』の大己貴神に比定。ソサノヲの三男。出雲の統治を任されるが、私欲により天に背く
・オモイカネ:『記紀』の思兼神に比定。ワカヒルメ(ヒルコ)の夫
・タカキネ:『記紀』の高木神に比定。七代目タカミムスビ。アマテルの補佐として出雲平定の指揮を執る
・タカミムスビ:『記紀』の高皇産霊尊に比定。「ヒタカミ国を統べる」という意味の役職名
・ホヒ:『記紀』の天穂日命に比定。アマテルとモチコの御子。出雲に赴くが、オホナムチに媚びて三年復命せず
・オオセイイミクマノ:『記紀』の天夷鳥命に比定。ホヒの息子。父と共にオホナムチに仕えてしまう
・アメワカヒコ:『記紀』の天稚彦に比定。アメクニタマの子。タカテルヒメを娶り、出雲に住み着く
・タカテルヒメ:『古事記』の高姫に比定。オホナムチの娘。アメワカヒコの妻
・タカヒコネ:『記紀』の味耜高彦根神に比定。オホナムチの子。オクラヒメの夫となる
・シタテルヒメ:『日本書紀』の下照姫に比定。オクラヒメの称え名。タカヒコネの妻となる
・フツヌシ:『記紀』の経津主神に比定。カトリノカミ。タケミカツチと共に国譲りを迫る
・タケミカツチ:『記紀』の武甕槌神に比定。フツヌシと共に国譲りを成し、その功績でカシマカミの名を得る
・イナセハギ:『日本書紀』の稲背脛に比定。クシキネの使者。ミホサキにいるクシヒコへ天の意向を伝えに走る
・クシヒコ:『記紀』の事代主神に比定。オホナムチの長男。天の使者の問いに対し、速やかに国を譲ることを承諾する
・タケミナカタ:『記紀』の建御名方神に比定。オホナムチの次男。タケミカツチに敗れて信濃の諏訪へ逃れる
・カシマカミ:鹿島神宮の鹿島神に比定。タケミカツチの称え名
・ミホツヒメ:『日本書紀』の三穂津姫に比定。タカキネの娘。クシヒコの妻
・コモリカミ:神社祭神の子守神に比定。クシヒコとミホツヒメの子。十八男十八女を儲けて育てる
・カツテカミ:神社祭神の勝手神に比定。ヒトコトヌシの子。カツキマロの称え名
関連社
・出雲大社:ホツマにおける「キツキ宮」に比定できる
・別 名:杵築大社
・創建年:不明(神代とされる)
・主祭神:大国主大神
・所在地:島根県出雲市大社町杵築東195
・美保神社:ホツマにおけるクシヒコのいた「ミホサキ」に比定できる
・創建年:不明
・主祭神:事代主神、三穂津姫命
・所在地:島根県松江市美保関町美保関608
・御穂神社:ホツマにおけるクシヒコのいた「ミホサキ」に比定できる
・創建年:不明
・主祭神:大己貴命、三穂津姫命
・所在地:静岡県静岡市清水区三保1073
・諏訪大社:ホツマにおける「タケミナカタ」の鎮座地に比定できる
・別 名:お諏訪さま
・創建年:不明(日本最古の神社の一つ)
・主祭神:建御名方神、八坂刀売神
・所在地:長野県諏訪市中洲(上社)、諏訪郡下諏訪町(下社)
・鹿島神宮:ホツマにおける「タケミカツチ(カシマカミ)」の鎮座地に比定できる
・創建年:神武天皇元年(紀元前660年)
・主祭神:武甕槌大神
・所在地:茨城県鹿嶋市宮中2306-1
・岩木山神社:ホツマにおける「津軽アソベのウモト宮」に比定できる
・別 名:お岩木さま
・創建年:宝亀11年(780年)
・主祭神:顕国魂神(大国主神)、多都比姫神、宇賀能売神、大山祇神、坂上刈田麿命
・所在地:青森県弘前市百沢寺沢27
※ホツマツタヱの記述との対応関係に基づく解釈
『日本書紀』との主な違い(AI分析)
国譲りの動機と「シチリ」の査察
ホツマでは、オホナムチが中央権威に匹敵する巨大宮「タマガキウチミヤ」を築いたことが、フトマニ占いにおいて「シチリ(萎れ=衰退の兆し)」として示され、中央政府(天)が行政監察に乗り出すという“政治的危機管理”の文脈で物語が始まる。一方、『日本書紀』では、高天原の主宰神が「地上は我が子が治めるべきだ」と宣言する“統治権の正当化”が主軸であり、動機のスケールがより神話的・理念的である。
アメワカヒコの「返し矢」と汚職
ホツマでは、使者アメワカヒコが出雲の娘タカテルヒメを娶り、八年間も帰還せず、出雲の私的支配を企図するという“使者の汚職・背信”が明確に描かれる。『日本書紀』でも返し矢の事件は共通するが、アメワカヒコの堕落や政治的失敗は強調されず、単に「復命しなかった」という事実に留まる。ホツマの方が“官僚の腐敗と人事の失敗”としての色合いが濃い。
タケミナカタの抵抗と敗走
ホツマでは、国譲りに反対するタケミナカタがタケミカツチと力比べを行い、諏訪まで敗走する過程が詳細に記される。一方、『日本書紀』本文にはタケミナカタは登場せず、交渉は平和的・事務的に完了する。抵抗勢力の描写の有無は、両書の“現場感”の差を象徴している。
敗者への再任用と「アカルミヤ」
ホツマでは、国を譲ったオホナムチは出雲大社に鎮座するのではなく、津軽の「アカルミヤ(辺境の宮)」へ移封され、そこで“トの教え(統治倫理)”を学び直し、開拓に励むという再任用のプロセスが描かれる。『日本書紀』では、代償として壮麗な宮を新築してもらい、神事を司る立場に落ち着くという宗教的権威付与で決着する。
クシヒコ(事代主)の実務継承
ホツマでは、クシヒコは父を諫めて国譲りを主導した後、タカキネの娘ミホツヒメを娶り、ヨロギの地で医薬(ナメコト)の道を開くなど、次世代の実務を担う指導者として活躍し続ける。一方、『日本書紀』では、交渉成立後に“海に入って姿を隠した”などの神秘的な退場が描かれ、政治的役割はそこで終わる。
「カシマタチ」の武功評価
ホツマでは、平定後の官議において、フツヌシは“筋を通した外交”、タケミカツチは“武力による鎮圧”として個別に評価され、タケミカツチが「カシマカミ」の称号を賜る過程が行政手続きとして記録される。『日本書紀』では二神が一体として描かれ、個別の役職名や称号授与の手続きは限定的である。
コモリ(子守神)と次世代教育
ホツマでは、クシヒコの息子ミホヒコが三十六人の子を育て上げた功績から「コモリ(子守神)」のヲシテを賜り、育児や防疫(茅の輪)の制度を確立する描写がある。『日本書紀』には、これに相当する具体的な養育成功譚や福祉制度の起源に関する記述は見られない。
『古事記』との主な違い(AI分析)
国譲りにおける「手続き」と「威圧」の違い
『古事記』では、タケミカツチが稲佐の小濱に降り立ち、十握剣を波の上に逆さに突き立て、その鋒にあぐらをかいてオオクニヌシを威圧するという、神話的で劇的な演出が強調される。一方、ホツマでは「カフツチノツルキ(曲治の剣)」を地に植え、「曲がった道を正しに来た」と告げる場面が、法的な“是正勧告”として描かれる。ここでは威圧よりも、行政的な“手続きの通告”としての性格が強い。
アメワカヒコの死と「不咎む返し矢」
『古事記』では、天から返ってきた矢が寝所のアメワカヒコを貫くという、呪術的・因果応報的な描写が中心となる。一方、ホツマではタカミムスビ(タカキネ)が「不咎む(とがめない)返し矢」として、邪心があるなら当たれという“理”を込めて射返す過程が詳述される。これは奇跡ではなく、“理に背いた者が自滅する”というガバナンスの論理として構造化されている。
タケミナカタの「力」の定義
『古事記』では、タケミナカタが千引岩を差し上げて現れ、タケミカツチと互いの手を握りつぶす「力比べ(相撲の起源的描写)」が展開される。一方、ホツマでは、タケミナカタが投げようとした岩をタケミカツチが容易に掴んで投げ捨てる描写となり、個人の筋力ではなく、“天の軍事権(モノヌシ)”という格の違いによる制圧として描かれる。ここでは“権限の階層差”が力の本質として示される。
敗者の移住先と「アソベの森」
『古事記』では、国を譲ったオオクニヌシが「天の御子の宮殿のような立派な住居(出雲大社)」を建ててもらうことで物語が完結する。一方、ホツマではオホナムチが津軽の「アソベ(辺境)」へ移され、そこで自ら開拓に従事しつつ“トの教え(統治倫理)”を学び直すという、厳格な“敗者再生・更生プロセス”が続く。敗者を神格化して終える古事記とは異なり、ホツマは“再教育と再任用”を重視する。
「カモイト(離糸)」と歌の効能
『古事記』では、アメワカヒコの葬儀でタカヒコネが怒り、シタテルヒメが歌でその正体を明かすが、これは物語上の一挿話に留まる。一方、ホツマではこの歌の応酬を、男女の縁を繋ぎ直す「アフウス(合ふ失す)」の法や、怒りを鎮める「歌の道」の起源として位置づけ、社会秩序を円滑にするための“精神技法(メンタル・テクノロジー)”として制度化している。
コモリ(子守神)による社会的包摂
『古事記』には、クシヒコ(事代主)の後の世代であるミホヒコが「コモリ(子守神)」として三十六人の子を育て上げ、育児・防疫・福祉の基礎を築くという展開は存在しない。ホツマでは、出雲系譜の神々を“敗者”として終わらせず、天の組織の中で「教育・防疫」という新たな専門職を与えて活用する。これは、ホツマ独自の高度な“人材配置と社会的包摂”の思想を示している。
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