【意訳版現代語訳】人の巻 ホツマツタヱ33文 神崇め穢病治す文

ホツマツタヱ33文の現代語訳を「読みやすさ」と「まとまり」を重視して意訳しました。

詳細な逐語訳や原文を確認したい方は、冒頭のリンクから個別ページを参照してください。




ホツマツタヱ33文のあらすじ


ミマキイリヒコ(崇神天皇)の即位から、疫病の平定、神々の遷座、大神神社の創始、四道将軍の派遣に至るまで、国家祭祀の再編と王権の再構築が描かれた文(あや)です。

1. ミマキイリヒコの即位と后妃の整備

ミマキイリヒコは52歳で即位し、三種宝の儀礼を整えて民に拝ませた。母のイカシコメと大母のウツシコメを高位に据え、后妃の体系を整え、多くの皇子皇女が誕生する。この時代に宮廷制度がさらに細分化され、后妃の昇格も明確に記録される。

2. 三種の神器の分離と神遷し

疫病が蔓延したことを受け、アマテル神(八咫鏡)とオオクニタマ(八重垣剣)を宮中から離し、それぞれ笠縫と山辺の里に遷して別に祀らせた。鏡と剣は新たに造られ、これを皇位継承の神宝と定めた。宮中から神宝を分離する大改革が行われた文脈である。

3. 祟りの鎮静と大神神社の創始

疫病の原因を探るため、八百万の神を招いて祭祀を行い、オオモノヌシ神が祟りの原因であることが示される。神意に従い、オオタタネコを斎主としてオオミワノカミを祀らせ、大神神社(大物主信仰)の起源が語られる。これにより疫病は鎮まり、国は豊かに治まった。

4. 四道将軍の派遣と反逆の予兆

国の秩序を広く整えるため、オオヒコ・タケヌナガワ・キビツヒコ・タニハチヌシの四人を四方の治人として派遣する。出立の際、オオヒコの前に現れた少女が反逆の予兆を歌で告げる神秘的場面が描かれ、国家統治の緊張感が示される。

意訳文


ミマキイリヒコ(崇神天皇)の治世


上鈴621年キナヱ春、1月のネシヱから13日後のキシヱの間に、ヰソニヱの皇子は齢52歳でアマツヒツキ(帝位)を受け継ぎ、ミマキイリヒコのアマツキミとなった。君はミクサツカヒ(三種使ひ=三種宝を使いの定め)もアメタメシ(上代の例)も成して民に拝ませた。

また、齢121歳になる母のイカシコメを上げて御上后とし、齢162歳となる大母のウツシコメをオオンキサキ(大御后)とした。

初年の2月サウトから16日後のツミヱの間に、オオヒコの娘のミマキヒメを召して内宮とした。姫は齢11歳であった。また、紀の国造のアラカトベの娘のトオツアヒメクハシヒメを内侍とし、近江国造の娘のヤサカフリイロネを大スケ后とし、尾張国造の娘のオオアマヒメを仮スケとして内侍に据え、長橋のヲシテを執る守(ココタヘ)とした。

これ以前のこと、局の后らが次々に御子を生んだ。

内侍のトオツアヒメクハシヒメは、トヨスキヒメを生んだ。

内侍(仮スケ)のオオアマヒメは、ヌナギヒメを生んだ。

内侍のトオツアヒメクハシヒメがヤマトヒコを生んだ。斎名をヰソキネという。

大スケ后のヤサカフリイロネがヤサカイリヒコを生んだ。斎名をオオキネという。

これゆえに、御子生んだ母のそれぞれの位は昇格した。

崇神3年(上鈴623年)9月、シギミヅガキ(磯城端籬=奈良県桜井市金屋)を新都とし、そこに遷都した。

三種の神器を改める(アマテル神とオオクニタマ神を皇室から離す)

崇神4年(上鈴624年)10月23日、君が次のように詔した。

「上祖より授かったミクサモノ(三種の神器)はこれである。クニトコタチよりカンヲシテ(文)、アマテル神よりヤタカガミ(鏡)、オオクニタマ(クシヒコ)よりヤヱガキノツルギ(剣)。今まではこれらを常に祀って身と神との際を離さず、殿も床も器(三種の神器)と共に住んできた。しかし、これは畏れ多いことであり、いつも安心することが出来ない。

ゆえにアマテル神(八咫鏡)はカサヌヒ(笠縫)に遷してトヨスキヒメに祀らせることにし、オオクニタマ(八重垣剣)はヤマベノサトに遷してヌナギヒメに祀らせることにする。鏡はイシコリトメの子孫に、剣はアメヒトカミ(アマメヒトツ)の子孫に新たに造らせることにする。

そして、これらをアマテラスカミノヲシテと併せ、この三種をアマツヒツキノカンタカラ(皇位継承の神宝)とする」

※つまり、鏡と剣のレプリカを造り、それを宮中に安置していわゆる三種の神器とした

神の祟りと神遷し


崇神5年(上鈴625年)、ヱヤミス(疫病)によって民の半数が罷った。

崇神6年(上鈴626年)、疫病の影響でさらに民が罷ったので、君は「この事態は治め難い…ゆえに原点に回帰して罪を神に請う」と詔し、神のために二宮を新造した。

同年6年の秋、オオクニタマのカミウツシ(神霊の居社の移転)を行った。

同年9月16日の夜と翌夜に、アマテル神のミヤウツシ(遷宮)を行った。

こうしてトヨノアカリ(祭のかがり火)の色も好い中、二神は新社宮に遷された。この際には、イロノツスウタ(十九歌)が『いざ遠し、幸の喜(ユキノヨロシ)も 栄よ優らも』と歌われた。

祟りを鎮める神祭を行う(神社神道の開始)


崇神7年(上鈴627年)2月3日、君は次のように詔した。

「我が上祖が開いた基は栄んである。我が代に当たって衰え荒れるのは、祭が届かぬことへの咎めである。ゆえに徹底的に直す必要がある」

この詔により、君はアサヒハラに御幸してヤヲヨロ(八百万の神)を招いた。そして、モモソヒメにユノハナ(湯立神楽)をさせて『散る民も 連に服らで 衰えに惨るさ』という「サツサツスウタ」を歌わせた。

そこで君は「この原因を教えてくれた神は誰でしょうか?」と問うと、神は「我はクニツカミ(地域の守り神)のオオモノヌシである」と答えた。しかし、君は神を祀るためのシルシ(証明)が無かったので、湯浴をして身を清め、祈りながら「私は神を敬っています、これを受けてくださいますか?」と申し上げた。

すると、その夜に君の夢に神が現れて次のように告げた。

「我はオオモノヌシの神であるが、君の憂いが直らない理由は我が心にある。我が後裔のオオタタネコに祀らせるのならば、均しく平らげ、遠い地も真に服従するだろう」

8月7日、トハヤがチハラメクハシヒメ、オオミナクチ、イセヲウミの三人を連れて君に次のように告げた。

「夢に神が出て来て、タタネコをオオモノヌシ神のイワイヌシ(斎主)とせよと申されました。また、シナカオイチをヤマトヲヲコノミタマカミの斎主とすれば平穏に治まるそうです」

この告げを受けた君はユメアワセをして、神が求めたオオタタネコを探すことにした。

すると、茅渟県の陶村にそのような者が居るとの報告があった。これにより、君は八十の従者を添えて茅渟県に御幸し、そこに居たタタネコに「汝は誰の子だ?」と素性を尋ねたと、タタネコは次のように答えた。

「私は、昔のモノヌシ(コモリ)が、スヱツミの娘のイクタマヨリヒメとの間に生んだモノヌシのオオミワカミの裔です」

これに君は「これで栄えるだろう」と楽しんで述べ、イキシコヲを召し、タタネコを斎主とすることを占わせると吉と出た。なお、他守を斎主とすることをフトマニで占うと悪い結果が出た。

これにより、10月初日にイキシコヲにヤソヒラカ(八十枚の平瓮)を造らせ、オオタタネコを斎主としてオオミワノカミを祀らせた(大神神社)。

また、ナカオイチを斎主としてオオクニタマを祀らせた(大和神社)。

その後、これをあまねく告げて神を崇め、カミナフミ(神名記)も作った。また、カンヘ(神部)を定めてヤモヨロカミ(八百万の神)を祀らせた。

このように定めると、民のヱヤミ(疫病)も平癒し、稲が実って豊かに治まった。

イクヒがうま酒を奉る


【本文】

崇神8年(上鈴628年)4月4日、タカハシイクヒが酒を造りミワオオカミに奉った。その味は美味であった。

12月8日、これによりミワオオカミを祀らせた。

【異文】

崇神8年(上鈴628年)サミト4月4日、高橋邑のタカハシイクヒがウマササ(美酒)を造りミワオオカミに奉った。その味は美味であった。

12月8日、タタネコを派遣した。

これにより、ミワオオカミ(大神神社)への御幸が成り、イクヒが酒をもって御饗した。君は酒を飲みながら次のような御歌を歌った。

『この酒は 我が酒ならず ヤマトなる オホモノヌシの 神の御酒 イクヒ授くる 繁は幾久』

御饗を終えると、臣らも歌い始めた。

『うま酒や 身はミワの殿 朝方にも 出でて行かなん 三輪の殿戸を』

これに君が返歌した。

『うま酒に 身はミワの殿 朝方にも 押し開かねよ 三輪の殿戸を』

こうして三輪の殿戸(三輪鳥居)を押し開いて帰って行った。

疫病の原因を排除する


崇神9年(上鈴629年)3月15日、この夜に君の夢に次のような神託があった。

「カシキホコを奉って神を祀れ。宇陀も隅坂も大坂も、残り無くサカミ(邪霊)を還せ。邪霊は罪人のシヰ(魄)に留まる。これがヱヤミをなす原因である」

4月22日、大臣のカシマとタタネコにタマカエシの祈りをさせて祀らせると、政も明るくなった。

四道将軍の派遣と、反逆者の予言


崇神10年(上鈴630年)ネヤト7月24日、君が次のように詔した。

「民を治める教えは『カミマツリ(神霊を祀ること)』である。やや汚穢は去ったが、遠い国ではアラヒト(粗人)が法を受け入れていない。これゆえ、四方にヲシ(治人)を派遣して、法を教えることにする」

9月9日、四方に派遣する治人を決めた。

オオヒコは「コシ(北陸地方)」の治人となった。
タケヌナガワは「ホツマ(関東・東海地方)」の治人となった。
キビツヒコは「ツサ(山陽地方)」の治人となった。
タニハチヌシは「タニハ(山陰地方)」の治人となった。

そして、四人に「教えを受けない者は排除せよ」と命じ、璽を与えてイクサタチ(出兵)させた。

各々が出発すると、望の日(同年9月15日)にオオヒコが奈良坂に到り、そこで少女が次のような歌を歌った。

『見よ、ミマキイリヒコ(崇神天皇)の哀れな姿を、己の副が反逆しようとしているぞ。裏門から侵入するが、四人と行き違いに出立する。表門から謀反を窺う反逆者が居ることを知らぬミマキイリヒコは哀れである』

オオヒコは怪しんで戻り、少女に歌の意味を尋ねると、少女は「私は歌を歌うのみ」といって消え失せたので、オオヒコは胸騒ぎを感じて都に帰ることにした。

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注釈


登場人物


・ミマキイリヒコ:『記紀』の御間城入彦五十瓊殖天皇に比定。開化天皇とイカシコメの子。十代崇神天皇
・イカシコメ:『記紀』の伊香色謎命に比定。孝元天皇の内后。オシマコトの母
・ウツシコメ:『記紀』の欝色謎命に比定。孝元天皇の内后。オオヒコと開化天皇の母
・ミマキヒメ:『日本書紀』の御間城姫に比定。オオヒコの娘。ミマキイリヒコの内宮
・アラカトベ:『記紀』の荒河戸畔に比定。紀の国造。トオツアヒメクハシ姫の父
・トオツアヒメクハシヒメ:『記紀』の遠津年魚眼眼妙媛に比定。崇神天皇の内侍
・ヤサカフリイロネ:『日本書紀』の八坂振天某辺に比定。崇神天皇の大典侍
・オオアマヒメ:『記紀』の尾張大海媛に比定。崇神天皇の内侍
・トヨスキヒメ:『記紀』の豊鍬入姫命に比定。崇神天皇とトオツアヒメクハシ姫の娘。天照大神の斎宮
・ヌナギヒメ:『記紀』の渟名城入姫命に比定。崇神天皇とオオアマ姫の娘。倭大国魂神の斎宮
・ヤマトヒコ:『記紀』の倭彦命に比定。崇神天皇とトオツアヒメクハシ姫の子
・ヤサカイリヒコ:『記紀』の八坂入彦命に比定。崇神天皇とヤサカフリイロネ姫の子
・アマテル神:『記紀』の天照大神に比定。八代君主の男尊。現在は神霊
・オオクニタマ神:『日本書紀』の倭大国魂神に比定。オホナムチの子のクシヒコのこと。現在は神霊
・イシコリトメ:『記紀』の石凝姥命に比定。様々な宝物となる鏡を造って献上した
・アメヒトカミ:『記紀』の天目一箇神に比定。八振の八重垣の剣を造って献上した
・モモソヒメ:『記紀』の倭迹迹日百襲姫命に比定。孝霊天皇とヤマトクニカ姫の子
・オオモノヌシ神:『記紀』の大物主神に比定。オオモノヌシの神霊を指す
・オオタタネコ:『記紀』の大田田根子に比定。神託でオオモノヌシ神の斎主となる
・トハヤ:チハラメクハシ姫の父
・チハラメクハシヒメ:トハヤの娘。天皇に見た夢を告げた
・オオミナクチ:『記紀』の大水口宿禰に比定。孝霊天皇の宿禰。天皇に見た夢を告げた
・イセヲウミ:『旧事紀』の伊勢麻績に比定。天皇に見た夢を告げた
・イキシコヲ:『旧事紀』の伊香色雄に比定。ヘソギネの子。イカシコメの弟
・オオカシマ:『記紀』の国摩大鹿島命に比定。アメノコヤネの後裔
・オオヒコ:『記紀』の大彦命に比定。孝元天皇とウツシコメの御子。四方の治人の越の治人となる
・タケヌナガワ:『記紀』の武渟川別に比定。オオヒコの子。四方の治人のホツマ治人とされる
・キビツヒコ:『記紀』の吉備津彦命に比定。オトワカタケヒコの子。四方の治人の西南の治人となる
・タニハチヌシ:『記紀』の丹波道主命に比定。ヒコヰマスの子。四方の治人の丹波の治人になる

関連社


・志貴御県坐神社:ホツマにおける「シギミヅガキ」に比定
 ・創建年:不明
 ・主祭神:大己貴神
 ・所在地:奈良県桜井市金屋896
・大和神社:ホツマにおける「八重垣の剣を祀った社」に比定
 ・創建年:崇神天皇6年
 ・主祭神:日本大国魂大神、八千戈大神、御年大神
 ・所在地:奈良県天理市新泉町星山306
・大神神社:ホツマにおける「オオミワノカミを祀った社」に比定
 ・別 名:三輪明神
 ・創建年:不詳(有史以前)
 ・主祭神:大物主大神
 ・所在地:奈良県桜井市三輪1422

※ホツマツタヱの記述との対応関係に基づく解釈

関連知識


三種の神器のレプリカについて

『記紀』では「剣・玉・鏡」の三種の神器が明確に定義されており、天孫降臨の段で天照大神が瓊々杵尊に三種の神器を授ける場面があります。現在でも天皇即位の際に三種の神器が継承されるといわれていますが、この記述が後代の儀式の裏付けになっていると考えられます。

一方で、三種の神器については歴史の中で失われたとされる話や、複数存在した可能性を示唆する矛盾した伝承が残されており、記紀の記述だけでは整合性が取れない部分が多くあります。たとえば、源平合戦の壇ノ浦で草薙剣が海に沈んだとされるにもかかわらず、現在も宮中と熱田神宮の双方に草薙剣が存在しているという状況は、各種の神器が一つだけであるという前提では説明がつきません。

これに対してホツマでは、宮中に置かれる神器は本物ではなく、本物は神として祀るために外へ遷し、宮中には新造されたレプリカを置いたと明確に記されています。この記述を採用するのであれば、歴史上に見られる「神器が失われた」「複数あった」という矛盾は、ある程度説明可能になると考えられます。

『記紀』との主な違い(AI分析)


三種の神器の扱い

ホツマでは、崇神天皇が疫病を理由に八咫鏡と八重垣剣を宮中から分離し、笠縫と山辺の里に遷して別に祀らせるという大きな制度改革が描かれる。また、宮中には新造した鏡と剣を安置し、これを皇位継承の神宝として定める。一方、『記紀』では神器を宮中から分離して祀るという描写はなく、神器の再造や制度的再編も語られない。

疫病の原因とオオモノヌシ神の顕現

ホツマでは、疫病の蔓延を受けて八百万の神を招き、オオモノヌシ神が自ら名乗って祟りの原因を告げるという具体的な神託が描かれる。さらに、オオタタネコを斎主として大神神社を創始する過程が詳細に語られる。一方、『記紀』でもオオタタネコの登場はあるが、神託の内容や祭祀の手順は簡略で、ホツマほど体系的には描かれない。

神社神道の成立過程の具体性

ホツマでは、湯立神楽、祓い歌、斎主の選定、占い、神名記の作成、神部の設置など、神社神道の制度化が極めて具体的に描かれる。一方、『記紀』では崇神期の祭祀再編は語られるものの、儀礼の細部や制度化の過程はほとんど記されない。

后妃制度と宮廷構造の細分化

ホツマでは、内宮、大スケ后、仮スケ、内侍、ココタヘなど、后妃の階層が詳細に記録され、各后妃の出自や昇格、皇子の誕生まで体系的に描かれる。一方、『記紀』では后妃の記述は簡略で、宮廷の女性官制がここまで細分化されることはない。

四道将軍派遣の動機と神託の関与

ホツマでは、四道将軍の派遣は「神祭を受け入れない遠国を教化するため」とされ、神託や祓いが派遣の根拠として描かれる。また、出立時に少女が歌で反逆を予告するという神秘的な場面が付される。一方、『記紀』では四道将軍の派遣は政治的・軍事的理由が中心で、神託や予兆の歌は登場しない。

酒造と大神神社の関係

ホツマでは、タカハシイクヒが造った酒をミワオオカミに奉り、崇神天皇が神前で歌を詠む場面が詳細に描かれる。これは三輪神と酒造の結びつきを強調する独自の描写である。一方、『記紀』では酒造と大神神社の関係はここまで具体的には語られない。