【意訳版現代語訳】人の巻 ホツマツタヱ34文 ミマキの代 任那の文
ホツマツタヱ34文の現代語訳を「読みやすさ」と「まとまり」を重視して意訳しました。
詳細な逐語訳や原文を確認したい方は、冒頭のリンクから個別ページを参照してください。
ホツマツタヱ34文のあらすじ
ミマキイリヒコ(崇神天皇)の治世後半に起こった反乱鎮圧、祭祀の再整備、箸墓の成立、任那との関係など、国家統治が外部へ広がりつつ安定へ向かう過程がまとめられた文(あや)です。
1. タケハニヤスの反乱とその平定
奈良坂での不吉な歌をきっかけに、タケハニヤスとアタヒメの反乱が発覚する。モモソヒメの進言により諸臣が動き、イサセリヒコ・オオヒコ・ヒコクニフクらが出陣して反乱軍を討伐した。タケハニヤスは戦いの中で討たれ、国内の動乱は収束する。
2. モモソヒメとオオモノヌシの悲劇(箸墓の成立)
モモソヒメはオオモノヌシ神の妻となるが、神の姿を見てしまったことで神は恥じて去り、モモソヒメは心を乱して自害する。その亡骸は箸塚(箸墓)に葬られ、昼は人、夜は神が石を運んで築いたと語られる。この説話は『日本書紀』の箸墓伝承と対応する。
3. 任那との関係とツノガアラシトの来訪
加羅国の王子ツノガアラシトが日本に来て崇神に仕え、のちに任那国を建てたとされる。さらに任那と新羅の争いが起こり、日本はシホノリヒコを派遣して任那を支援する。この文では、日本と朝鮮半島の関係が初めて体系的に語られる。
4. 出雲の神宝とフリネの暗殺事件
出雲の神宝をめぐり、神主フリネが弟ヰイリネを欺いて殺害する事件が起こる。これを受けて崇神はフリネを討たせ、出雲の祭祀を改めて整えるよう命じる。出雲臣が神を祀らなくなったことを歌が告げ、再び祭祀が復興される。
5. 果つ国治らすミマキの代と晩年
四道将軍の遠征が成功し、蝦夷も平定されて国が安らぐ。崇神は民の負担を減らすため貢を軽減し、治世は「果つ国治らすミマキの代」と称される。晩年には治水事業を命じ、やがて崩御し、山辺に葬られた。
意訳文
タケハニヤスの反乱
崇神10年(上鈴630年)9月17日、越の治人のオオヒコはミヅガキの君(崇神天皇)の元に帰り、次のように報告した。
「山背の奈良坂で出会った少女が次のような歌を歌っていました。
『見よ、ミマキイリヒコ(崇神天皇)の哀れな姿を、己の副が反逆しようとしているぞ。裏門から侵入するが、四人と行き違いに出立する。表門から謀反を窺う反逆者が居ることを知らぬミマキイリヒコは哀れである』」
君が凶兆かと心配すると、生まれ付き聡明だったモモソヒメが歌の意について次のように語った。
「この歌はタケハニヤスの謀反の兆しでしょう。私は"タケハニヤスの妻のアタヒメが、香具山の埴を領巾(ひれ)に入れて祈っている"と聞いています。これはモノサネ(それを象徴する物や行為)に違いないでしょう。ゆえに早く手を打ってください」
モモソヒメの進言によって諸臣を集めて対策を練った。
しかし、その頃には既にタケハニヤスとアタヒメが軍を起こしており、タケハニヤスは山城から、アタヒメは大坂から道を分けて攻め入ってきた。これに対し、君はイサセリヒコを大坂に派遣すると、攻防の末にアタヒメは誅殺された。
君はオオヒコとヒコクニフクにも詔して、タケハニヤスの軍を攻撃させた。その際、ヒコクニフクは山背のワニタケスキ(和珥武鐰)にインヘ(斎瓮=土器)を据え、兵を率いて軍を起こした。そして、木茅を踏み平らげて進み、テカシワ(手を組み合わせて)をして戦勝祈願し、奈良坂に到った。また、オオヒコはシモミチ(下つ道)に到った際に、敵方のワカラアクラと対峙した。
そこで、ハニヤスヒコ(タケハニヤス)は川北にいるヒコクニフクを見て「汝は何故 我々を拒むのだ?」と問うと、ヒコクニフクは「汝は天に逆らった。私は反逆者を討つために来たのだ」と答え、両軍ともに激しく争った。
激しい乱戦となったが、ハニヤスヒコの射る矢は当たらず、ヒコクニフクの射る矢は当たった。そのうち、矢がハニヤスヒコの胸に当たり、それが元でハニヤスヒコは絶命した。ハニヤスヒコを失った敵軍は逃げて散り散りになったが、これを官軍が追討すると、敵軍の残党は「我君、我君」と言いながら、次々と帰順していった。
こうしてヒコクニフクは敵軍との戦を治めて引き上げた。
四道将軍の詔
同年10月初日、君が次のように詔した。
「内は平定したが、外はまだ荒れている。そこでヨミチノイクサ(四道の軍)を発つべし」
この詔を以って、22日にヨモノヲシヱト(四方の教え人)を出発させた。
モモソヒメとオオモノヌシ(箸墓古墳の造成)
モモソヒメがオオモノヌシ神の妻となった。大神(オオモノヌシ神)は、夜には見えるが、昼には見えない存在であったため、結婚していても会うのはいつも夜であった。そこで、モモソヒメは「そこで明るいところで君の御姿を拝見したいと思います」と引き留めると、大神は「その言葉は顕著である、ならば我は朝方に櫛笥(クシケ)に入っていることにしよう。だが、我の姿に決して驚くことなかれ」と述べた。
モモソヒメは複雑な思いで翌朝に櫛笥を見ると、その中に小蛇が入っていた。これにモモソヒメが驚いて叫び泣くと、大神は恥じて人の姿となって「汝が耐えられないとは、我が恥である」と言い、大空を踏んでミモロヤマ(三輪山)に帰って行った。モモソヒメは空を仰いで自らを恥じ、ツキオル(心神喪失)となって箸をミホト(女陰)に突き刺して罷った。
その後、モモソヒメは大市の箸塚に埋葬された。
箸塚の造営に際し、昼は人の手で、夜は神の手によって大坂山から石が運ばれた。諸人が相次いで手輿を担い、やがて墓が完成すると、次のような「墓成るの歌」が歌われた。
『大坂も 月の明を添え 石群を 手輿に遣さば、遣し勝てんかも』
(大坂山からでも、月の明かりの添えがあれば、石群を手輿に乗せて運び尽くせるかも)
※箸墓古墳の築造を歌っていると思われる(『日本書紀』にも同様の説話が載せられる)
果つ国治らすミマキの代
崇神11年(上鈴631年)4月16日、四道のエビス(蝦夷)を平定したと君に報告が入り、国が安らいだ。
秋、タタネコにオレカレ(タマノヲが乱れた状態で罷った者)の緒を解く祭を命じ、箸塚(箸墓古墳)にて催行した。ここで祭が行われると、ノリノイチ(調和の区域)が輝いた。
崇神12年(上鈴632年)3月11日、君が次のように詔した。
「私がアマツヒツキ(帝位)を継いでから、アメノオフヒ(陽陰の調和する日)は安定することはなかった。メヲアヤマル(陰陽の調和が乱れて不調和となる)ことに対処しなかったために疫病が発生し、民の統治がままならなくなった。
この罪を祓うため、改めて神を敬い、教えを垂れ、八方の荒人(蝦夷)と平定し、今やっと諸共に楽しめるようになった。これから先のことを考えれば"オサとイトケ(幼と稚=湧き出たばかり)"の貢を無くして民の負担を減らし、暇を与えることにしよう。
ゆえにユハス(弓弭=獣肉・皮革等の狩猟生産物の貢)、タスエ(手末の貢=手工業生産物の貢)の貢ぎを止めて、民を賑わせるソロノトキ(繁栄の加速)としよう」
このように定めると国が直って安らいだので、君の御代は「ハツクニシラスミマキノヨ(果つ国治らすミマキの代)」と呼ばれるようになった。これによって民も楽しむと、君も安らぎ、后も栄えた。
この後、スケ后のヤサカフリイロネは十市に詣でて、御子のトチニイリヒメを生んだ。
※ホツマにおける「果つ国治らすミマキの代」は"枯れた国が直った回帰・改革の時代"という意味になると推測される
ミマキイリヒコの御子
崇神26年(上鈴646年)11月初日、磯城にて内宮のミマキヒメが御子のトヨキヒコを生んだ。斎名をシギヒトという。
崇神29年(上鈴649年)初日(1月1日)ヲウト、ミマキヒメが御子のイクメイリヒコを生んだ。斎名をヰソサチという。
崇神38年(上鈴658年)秋8月5日、ミマキヒメの妹で内侍のクニカタヒメが御子のチチツクワヒメを生んだ。
崇神40年(上鈴660年)1月28日、クニカタヒメが御子のイカツルを生んだ。斎名をチヨキネという。
ミマキイリヒコの代嗣を決める
崇神48年(上鈴668年)1月10日ヲアヱ、君はトヨキヒコとイクメイリヒコに次のように詔した。
「汝らは恵みに等しい。ゆえに代嗣となることは夢の内容に委ねるべし」
こうして共に湯浴している時に夢を語っていると、トヨキヒコが次のように申し上げた。
「私はミモロヤマ(三輪山)の上で、東向きに八度 ホコユケ(矛を振り回す)する夢を見ました」
また、イクメイリヒコは次のように申し上げた。
「私はミモロヤマ(三輪山)の上で、四方に縄張りを張って雀を追う夢を見ました」
君は御子らの夢を聞き、しばし考えた後に次のように述べた。
「兄の夢はただ東向き、ならばホツマ(東方)を治めるべし。弟は四方の民を治める代嗣に相応しいであろう」
同年4月19日ツミヱ、君は代嗣を決める次のような詔を発した。
「ヰソサチ(イクメイリヒコ)を立てて代嗣御子とし、トヨキイリヒコ(トヨキヒコ)はホツマツカサ(東方司令)とする」
ツノガアラシトとの出会い
【任那の文(みまなのあや)】
崇神58年(上鈴678年)8月、瑞籬の君(崇神天皇)は御幸して契大神(ヒコホオテミ)を詣でた。そこで諸人が祝っている際、角が一つ有る人が付近を漂っていたが、その言葉は聞き慣れないものだった。ハラ宮の臣のソロリヨシタケが言葉を知っていたため、この者を問い質させると、その者は次のように答えた。
「私はカラクニ(加羅国)の君の御子のツノガアラシトです。我が父の名前はウシキアリシトです。伝え聞く聖の君に服従しようとアナト(穴門=関門海峡)に到ったのですが、そこで会ったヰツツヒコなる者が私にこう言いました。
『この国の君は私である。ゆえに此処に居るがよい』
しかし、そのヒトナリ(様相)を見ると、どうも君には見えませんでした。そのため、帰ろうと思って都路と浦・島を訪ねて、出雲を経てやっとここまで辿り着きました。そして、この神祭に君が来ていることと知ったのです」
このように申したので、君はツノガアラシトを召して仕えさせると、忠を尽くして五年に至った。そこで君はツノガアラシトに「ミマナ(任那)の名」と「カゾミネニシキ(最高級の錦織り)」をクニツト(土産物)として与えた。
こうしてツノガアラシトは国に帰り、任那国を建国した。
ツノガアラシトと白石の乙女
これより以前のこと、ツノガアラシトはアメウシ(飴色の牛)に物を背負わせて遣いに出ていた。しかし、牛が居なくなったので、付近の翁に尋ねてみたところ、翁は次のように答えた。
「その牛を持って行こうとする者が、こう言っていました。
『この牛は先に貰って食うことにする、もし主が来れば対価を渡そう』
ゆえに、この先でその者を見つけて対価を問うのが良いでしょう。
また、その時は対価に相手の『祀る神』を得たいと答えるのです」
これを聞いたツノガアラシトは直ちに牛を探し向かうと、やがて牛を持って行った村君(村長)を見つけた。そこでツノガアラシトは村君と対話し、牛の対価を問われた際に「汝らが"祀る神"が欲しい」と言った。すると「神の白石」を渡されたので、ツノガアラシトはこれを持ち帰った。
ツノガアラシトが寝室に白石を置いていると、白石はやがて乙女に化成した。ツノガアラシトはその乙女と結婚(性交の意)しようと考えていると、乙女はつかの間に消え失せてしまった。
帰ったツノガアラシトは乙女が消えたことに驚き、妻に行方を問うと「乙女は東南に去りました」と答えた。そこでツノガアラシトは、乙女の跡を探して追って出で行き、船を浮かべて進むと、やがて大和の浪速に到った。
なお、乙女はカラクニ(加羅国)からトヨクニ(豊前と豊後)のヒメコソ宮に到り、ここで神になったという。
任那と新羅の戦争(日本は任那に加担する)
ツノガアラシトが本国(加羅国)に帰った時、土産を奪われてしまったため、新羅の国との戦争になったという。その際、任那の遣いが日本にやって来て次のように告げた。
「我が国の東北には、栄えた処が三箇所あります。その上・中・下の地は広く、四方に三百延の土が肥えて、民も豊かであるといいます。しかし、今は新羅によって治めることができず、矛(武器・武力)を求めた生活を余儀なくされています。そのため、臣が願うのは国平けの御使を請うことのみであります」
この報告に君と臣らが会議をした結果、「クニフクの孫のシホノリヒコを遣わすのが良い」という結論に至った。なお、シホノリヒコは頭の三つのコブがあるためマツノキミと呼ばれており、背は一丈五尺で八十人力を持ち、勇み激しい性格であった。そして君は「シホノリヒコをミマナヲシ(任那への使い)とし、外国を平定するミチツカサ(海軍大将)に任命する」と詔した。
その後、シホノリヒコが これを成して帰って来たので、君は「吉」という姓を与えた。
フリネによるヰイリネの暗殺
崇神60年(上鈴680年)7月14日、君(崇神天皇)は「昔、タケヒテルが捧げた神宝が見たいと思う。出雲にあるはずだから持って参れ」と詔し、タケモロズミを出雲に遣わせた。
タケモロズミが出雲に到着すると、神主のフリネがコトホキ(神祝)のために筑紫に行っているという。そのため、フリネの弟のヰイリネが宮(杵築宮)より出て詔に対応した。その際、ヰイリネの弟のウマシカラヒサの子のウカツクヌを添えて神宝を捧げた。
この後、フリネが帰ると、ヰイリネを責めて次のように言い放った。
「私が帰るまで大した日数がかかるわけでも無いというのに、君を畏れて神宝を渡すとは何事か!この八百万文は、出雲の上代の道の基となる神宝であるぞ!これを隠しておいたというのに、後の栄えも考えずに容易く出すとは愚かである!」
こうしてフリネはヰイリネを恨み、暗殺を考えるようになった。
その後、兄のフリネが弟のヰイリネを欺いて「ヤミヤ(神門郡塩冶郷)に行って玉藻(水中に沈む藻)のハナカヨミ(花が巡り咲く様)を見ようではないか」と誘った。これに弟は頷いて共に向かうと、兄は木太刀を置き、弟を水浴びに誘った。
弟もそれについて行くと、兄が水から上がって弟の太刀を帯びた。弟は驚き、すかさず兄の木太刀を帯びて抜こうと構えたが木太刀は抜けず、太刀を抜いた兄に斬られて呆気なく淵へと消え失せてしまった。
この出来事は世に歌う歌として『八雲立つ イツモタケルが佩ける太刀、葛多巻き あわれ錆び無し』と歌われた。
※『日本書紀』にも同様の説話があり、『古事記』ではヤマトタケルが行ったとされる(人物が異なる)
出雲の祭
ヰイリネの一件を以ってカラヒサは甥のウカツクヌを連れて都に上がり、これを君に報告した。これに君はキビヒコとタケヌナカワを召して出雲に派遣し、フリネを討たせた。この件で出雲臣(出雲を治める役人)は怖れて神を祀らなくなった。
ある日、ヒトカベ(ヒカワの臣)が、若宮(イクメイリヒコ)に自分が子供が歌い出したという次の歌を報告した。
『玉藻垂づ 出雲祭らば まくさまじ 日夜見治人 フリネ御明暗見 三十九宝の 神庫主 だに身屈り 神霊垂づが 和し厳み 神庫主やも』
(出雲の神を祀れば病気なし、カヨミオシのフリネはミカガミやミソコタカラのミカラヌシ、我が身を滅ぼすは神の業か、ウマシミカミはミカラヌシか)
若宮(イクメイリヒコ)は歌を神託と捉えて君に報告すると、君は「出雲を祀れ」と詔した。
ミマキイリヒコの最期
崇神62年(上鈴682年)キナトの7月1日から2日に、君は次のような詔を発した。
「民業は基本である。すなわち、糧・財の土台であると言えよう。河内と狭山は水が足らないと聞くが、これによって業を怠れば生業は成立しない。ゆえにヨサミ(依網=大阪市住吉区庭井町)とカリサカ(苅坂)に反折の池を掘るべし」
このように命じ、クワマノミヤ(桑間宮)に御幸した。
崇神65年(上鈴685年)7月、任那国がソナカシチを派遣して朝貢した。その道のりは筑紫より北に二千延の海を隔てた新羅の西南である。
崇神68年(上鈴688年)12月1日から5日、君が事切れてものを言わなくなり、常に寝ているようになった。
崇神69年(上鈴689年)ネヤヱ1月2日、アメヒツキ(皇位継承)の後にミヨアラタマ(御代改め=改暦)をした。
8月11日、君(崇神天皇)が崩御したと世に告げて、君とウチトミ(内臣)が喪還に入り、外の臣が政を執った。
10月11日、君の遺骸を山辺(山辺道勾岡上陵)に送った。この君は、神を崇めて疫病を治し、三種宝を改めた。そのコトノリ(言宣)は大いなるものであった。
注釈
登場人物
・ミマキイリヒコ:『記紀』の御間城入彦五十瓊殖天皇に比定。開化天皇とイカシコメの子。十代崇神天皇
・オオヒコ:『記紀』の大彦命に比定。孝元天皇とウツシコメの御子。四方の治人の越の治人となる
・モモソヒメ:『記紀』の倭迹迹日百襲姫命に比定。孝霊天皇とヤマトクニカ姫の子
・タケハニヤス:『記紀』の武埴安彦命に比定。孝元天皇とハニヤス姫の子
・アタヒメ:『記紀』の吾田媛に比定。タケハニヤスの妻
・ヒコクニフク:『記紀』の彦国葺命に比定。チチハヤの孫。オケツの子
・オオモノヌシ神:『記紀』の大物主神に比定。オオモノヌシの神霊を指す
・ヤサカフリイロネ:『旧事紀』の八坂振天某辺に比定。崇神天皇の大典侍
・ミマキヒメ:『日本書紀』の御間城姫に比定。オオヒコの娘。ミマキイリヒコの内宮
・トヨキヒコ:『記紀』の豊城入彦命に比定。崇神天皇とミマキ姫の子
・イクメイリヒコ:『記紀』の活目入彦五十狭茅天皇に比定。崇神天皇とミマキ姫の子。十一代垂仁天皇
・クニカタヒメ:『記紀』の國方姬命に比定。オオヒコの娘。ミマキ姫の妹。崇神天皇の内侍
・チチツクワヒメ:『記紀』の千千衝倭姬命に比定。崇神天皇とクニカタ姫の娘
・イカツル:『記紀』の五十日鶴彦命に比定。崇神天皇とクニカタ姫の子
・ツノガアラシト:『記紀』の都怒我阿羅斯等に比定。角が一つある加羅国君の御子。任那建国の祖
・シホノリヒコ:『記紀』の塩乗津彦命に比定。ヒコクニフクの孫。吉田氏の祖
・タケヒテル(タケテル):ホノアカリとタマネ姫の子。ニギハヤヒの弟
・タケモロズミ:『記紀』の武諸隅に比定。タケヒテルの曾孫
・フリネ:『日本書紀』の出雲振根に比定。ヰイリネの兄。出雲杵築宮の主
・ヰイリネ:『日本書紀』の飯入根に比定。フリネの弟
・ウカツクヌ:『日本書紀』の鸕濡渟に比定。ヰイリネの子。ノミノスクネの父
・ソナカシチ:『日本書紀』の蘇那曷叱知に比定。任那の使者
関連社
・大神神社:ホツマにおける「ミモロヤマ」の関連社に比定
・別 名:三輪明神
・創建年:不詳(有史以前)
・主祭神:大物主大神
・所在地:奈良県桜井市三輪1422
・氣比神宮:ホツマにおける「契大神」の社に比定
・創建年:伝・仲哀天皇8年
・主祭神:伊奢沙別命
・所在地:福井県敦賀市曙町11-68
・比売語曽神社:ホツマにおける「ヒメコソ宮」に比定
・創建年:不明
・主祭神:比売語曽神
・所在地:大分県東国東郡姫島村5118
※ホツマツタヱの記述との対応関係に基づく解釈
関連地
・箸墓古墳:モモソヒメを埋葬した「オオイチのハシツカ」に比定
・箸墓の表札に「迹迹日百襲姫命、大市墓」とある
・山辺道勾岡上陵:第十代 崇神天皇を埋葬した「山辺」に比定
※ホツマツタヱの記述との対応関係に基づく解釈
関連知識
古墳について
ホツマ34文にはモモソヒメの墓の造営記録が記されており、それは現存する箸墓古墳であると宮内庁にも認められています。その形状は前方後円墳となっていますが、それ以前の墳墓は円墳が主流だったとされ、箸墓古墳が史上初の前方後円墳であると考えられています。
その造営については「箸塚の造営に際し、昼は人の手で、夜は神の手によって大坂山から石が運ばれた」と記されており、造営に神が関わっていることが明記されています。なお、『日本書紀』にも同様の説話が記されており、箸墓古墳だけが“神人協働”によって築かれたと説明されています。
しかし、これは『記紀』やその他の文献においても唯一の古墳造営の記述であり、後にも先にもこれ以外に存在していません。日本国内には数多くの古墳が点在し、その中でも前方後円墳は特に特徴的な形状を持っていますが、なぜその形が採用されたのか、どのように造られたのかといった点については一切言及されていません。
さらに、後代の大仙陵古墳(仁徳天皇陵)は日本最大の前方後円墳として知られ、中国や朝鮮の使者が大和に来る際にランドマークとして見せていたという話すらあります。しかし、『日本書紀』にはそのような巨大古墳の造営記録が全く残されていません。
前方後円墳という巨大建造物が突如として出現し、その後も全国に広がっていくにもかかわらず、造営の技術・理由・思想が一切記録されていない点は、個人的に不自然だと思っています。
『記紀』との主な違い(AI分析)
タケハニヤスの反乱
ホツマでは、タケハニヤスの反乱は奈良坂での不吉な歌をきっかけに発覚し、モモソヒメの神託的な洞察によって事前に察知されるという構図が描かれます。反乱の背景には象徴行為(モノサネ)や祈りの儀礼が関わり、討伐も複数の将による連携として語られます。一方、『記紀』では反乱はより簡潔に記され、神託的要素や象徴行為の意味づけはほとんど示されません。ホツマの方が反乱の兆し・占兆・儀礼的背景を重視する点が特徴的です。
モモソヒメとオオモノヌシの関係
ホツマでは、モモソヒメとオオモノヌシ神の関係が極めて詳細に描かれ、神の姿を見たことによる破局、モモソヒメの死、そして箸塚(箸墓)の造成までが連続した物語として語られます。昼は人、夜は神が石を運ぶという描写も含め、神と人の婚姻の破綻が国家祭祀の起源に結びつけられています。一方、『記紀』でも箸墓伝承はありますが、ホツマほど心理描写や儀礼的背景は語られず、物語の厚みは大きく異なります。
任那との関係とツノガアラシト
ホツマでは、ツノガアラシト(任那建国伝承)が崇神に仕えて帰国し、任那を建国したという物語が詳細に記されています。白石の乙女の説話や牛の逸話など、任那建国に至る背景が厚く語られる点が特徴です。一方、『記紀』でもツノガアラシトは崇神天皇紀に登場し、任那建国の祖として位置づけられていますが、その記述は簡潔で、物語的背景はほとんど示されません。また、任那と新羅の争いや日本の介入といった政治的関係は、後代の巻で本格的に語られるため、ホツマの方が崇神期における任那との関係をより広く、早い段階から描いている点が大きな違いです。
出雲の神宝とフリネの暗殺
ホツマでは、出雲の神宝をめぐるフリネとヰイリネの対立、そして暗殺事件が詳細に描かれます。神宝の扱い、神職の責務、裏切りと罰、そして歌による神託が連続して語られ、出雲祭祀の再建が政治的判断として位置づけられます。一方、『記紀』にも類似の説話はありますが、人物が異なり、物語の構造も簡略で、ホツマほどの儀礼的・制度的意味づけはありません。
果つ国治らすミマキの代
ホツマでは、崇神の治世が「果つ国治らすミマキの代」として、荒れた国を再び治め直す改革の時代として描かれます。貢の軽減、蝦夷平定、治水事業など、国家再建の具体的政策が語られ、治世の理念が明確です。一方、『記紀』では崇神天皇は「御肇国天皇」として国家の基礎を整えたとされますが、ホツマほど政策の細部や理念的背景は描かれません。ホツマの方が「改革者としての崇神像」を強く打ち出しています。
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