【意訳版現代語訳】人の巻 ホツマツタヱ40文 アツタ神 世を辞む文

ホツマツタヱ40文の現代語訳を「読みやすさ」と「まとまり」を重視して意訳しました。

詳細な逐語訳や原文を確認したい方は、冒頭のリンクから個別ページを参照してください。




ホツマツタヱ40文のあらすじ


ヤマトタケの最期、白鳥伝説、熱田神宮の成立、景行天皇の国巡り、そしてホツマツタヱとミカサフミの編纂という、物語全体の締めくくりを担う文(あや)です。

1. 伊吹山の祟りと衰弱の始まり

ヤマトタケは伊吹山の荒ぶる神を軽んじて向かい、氷の祟りを受けて衰弱する。醒井で身を冷やしながらも回復せず、尾張にも戻れないまま能褒野へ向かう。

2. 能褒野で死期を悟り、最期の言葉を残す

能褒野で痛みが極まり、死期を悟ったヤマトタケは、東征の成果と心残りを文に託す。アメノノリ(陰陽の法則)を受け入れ、熱治宣(アツタノリ)を歌いながら神となる。

3. 白鳥となって飛び立つ伝説

遺骸は白鳥となり、大和・河内・尾張に羽を落とす。各地に御陵が営まれ、白鳥の昇天は「人は神、神は人なり」というホツマの神観を象徴する出来事として語られる。

4. ミヤツヒメの奉仕と熱田神宮の起源

ミヤツヒメは生前に待ち続けた昼飯(チリヒルメシ)を供え、白鳥がこれを受けて歌を返す。この出来事が熱田神宮の祭祀の起源となり、ヤマトタケは「オホマノカミ」として祀られる。

5. 景行天皇の国巡りと各地の伝承

景行天皇はヤマトタケの足跡を辿って国巡りを行い、相模・上総・伊勢などで人々と交流する。オトタチバナヒメの死、鹿島神楽の由来、猿田彦の芸能など、各地の伝承が語られ、ヤマトタケの功績が再確認される。

6. ホツマツタヱとミカサフミの編纂

かつてクシミカタマが編纂していた歴史書を三輪のタタネコが引き継いでミヨノフミ(皇代記)を編纂し、クニナツがミカサフミを編纂した。両者は文を照合し、訂正を加えて新たな年代記を三輪(タタネコ)と鹿島(クニナツ)の二家が献上した。これは後世の神道の基礎文献として位置づけられる。

意訳文


ハラの宮の絵を描かせる


景行41年(上鈴828年)春、ヤマトタケが木曽路より尾張に到り、タケトメの孫の連(オトヨ)の家に入った。この時、妻のミヤスヒメが都より送られており、その父(オトヨ)の家で待っていた。そして、ヤマトタケはここで月を越した。

この時、ヤマトタケは次のように言った

「『酒折宮』は古くは『ハラの宮』と呼ばれており、それは今でも永らえている。私の願いはこの宮の絵を写して、姫と共に楽しむことである」

すると、連(オトヨ)が「臣(自分)が行って絵を描き写しましょう」と言ったので、それを聞いたヤマトタケは笑んで悦んだ。そこで、連は直ちに下って宮を詳しく絵に写し、返言した。

イフキカミの祟り


ヤマトタケとイフキカミ

景行41年(上鈴828年)、ヤマトタケは荒ぶる神(イフキカミ)が荒れているとの話を聞いた。そこでムラクモノツルギを持ち、和幣(ニギテ)も持たずに軽々と神方(伊吹山)に向かった。

伊吹山に到着すると、道道にイフキカミが大蛇の姿となって横たわっていた。これを見たヤマトタケは、神とは知らずに大蛇に「汝は荒ぶる神の使いか?だが、へりくだるには値せぬな」と言った。そしてオロチを踏み越えて進むと、イフキカミは氷を降らせてヤマトタケの活力を奪った。

ヤマトタケはなんとか凌ぎながら押し進み、氷の中から僅かに進み出た。この際、心が折れて身体も燃えるように熱くなったので泉にて冷ました。此処をサメガヰ(醒井=滋賀県米原町醒井)という。

その後、ヤマトタケは足が傷付いたことを悟った。そのため、尾張に帰ってもミヤスヒメの家に入らず、伊勢街道を通ってオヅノヒトマツ(尾津の一松)に到った。

ここは昔、ホツマ(東国)から下った際の御饗の時に、解き置いた剣を松の根元に置き忘れた場所であった。それが今でも残っていたので、これを褒める次のようなアケウタを歌った。

『置忘れど 直に迎える 一つ松 あはれヒトマツ 人にせば 衣着せましょう 太刀佩けましょう』
(置き忘れてもそのまま迎える一つ松、この健気なヒトマツを人にして、衣を着せて、太刀を佩かせてやりたいものだ)

ヤマトタケの最期


ヤマトタケは足の傷を慰めながらイササカ(伊坂)に到ったが、痛みが酷くなったので村に入った。この村はヤマトタケの足の痛みが妙(ミヱ)に酷くなった場所なのでミヱムラ(見え村 → 三重村)と名付けられた。

その後、ツヱツキサカ(杖衝坂)も越えてノボノ(能褒野)に到ったが、この時に痛みが重くなったことで死期を悟った。そこで、虜の五人(津軽・陸奥の国造五人)を宇治(伊勢)に派遣して、オオカシマの添人とした。

一方、キビタケヒコは都方に向かわせることにし、そこでヤマトタケの言葉を文に留めさせた。

「ハナヒコ(ヤマトタケ)が申します。臣(ヤマトタケ)は御言を受けてホツマ(東国)を討ち、天の恵みと稜威によって荒ぶる守も服従させました。これらをことごとく治めて帰ってきましたが、命が尽きる日もやってこようとしています。願わくば、いつの日にか御言を返したく思っております。

私は野に臥す身で、誰と語っているでもなく文を残すということは、きっと心残りがあるのでしょう。ですが、これが実現できないこともまた、アメノノリ(陽陰の法則)なのでしょう」

キビタケヒコが文を届けると、ヤマトタケは次のように言った。

「私は東西を平定して事を成したが、身を滅ぼして僕らを安心させる日も無かった」

そして、ナツカハギを召してハナフリ(花降=通貨)を皆に分け与えさせた時に、ヤマトタケは次のように言った。

「歌を読んだら、アツタノカミ(熱田の神)と早くなれるだろう」

こうして湯を浴びて衣を替え、南(伊勢)に向って"人の身を辞した(人から神になることを覚悟した)"。

そして最期に「熱治宣(アツタノリ)」という歌を残した。

「辞む時、東西の使人として父母に仕えて満たなかったが、サコクシロカミノヤ(サコクシロに座す神の八つのヲシテ)により導かれて人生を楽しんだ。帰ろうにも天より誘いが来たならば、懸梯(かけはし)を渡って昇り、カスミ(あの世)の楽しみをクモヰ(雲のある大空)にて待つと人に答えよう」

ヤマトタケは、この熱治宣を百回歌いながら、眼を閉じて神となった。ヤマトタケの死に関してはどうしようもなかったので、後も営みをして歌(熱治宣)は尾張のミヤスヒメに預けた。

ヤマトタケの白鳥伝説


キビタケヒコは都に帰って、皇(景行天皇)にヤマトタケの文を捧げた。すると、皇は気が抜けて味も感じなくなり、終日嘆いて次のように詔した。

「昔、クマソが背いた時も、ヤマトタケはまだアゲマキ(総角)にしてままならないのに平定を成功させた。これを以って、左右の臣に代わりに侍らせて補助をさせ、適役が居ないことを忍んで敵を討ちに向かった。それにより、明けても暮れても帰る日を待ったが、これは何に対する禍なのか。縁も無く、寿命を全うしないまま天に召されるとは、誰の御業として治めればよいのか」

皇は詔した後、ヤマトタケのカミオクリ(神送り)をした。その時、オモムロ(遺骸)がイトリ(斎鳥)となって出て行った。そこで、諸人が御陵の御棺を見に行くと、ヤマトタケの冠と櫛と御衣裳に所に留まった。

このムナシキカラ(空しき殻=空の棺・亡骸)のシライトリ(白霊鳥)を追っていくと、大和国の琴弾原に尾羽が四枚落ちていた。また、河内の古市(大阪府羽曳野市古市)には羽が四枚落ちていたので、あちらこちらを御陵と成した。

すると、シラトリ(白鳥)も終いには曇に向かって飛び上がって行った。この尾羽はあたかもカミノヨ(天皇の代)のヨハキシ(世掃きし=穢れを祓うもの)のようであった。ゆえにキツ(東西・起尽)も皆、満ちれば欠けるアメノリ(陽陰の法則)なのである。

ヤマトタケの略歴(出生)


この君(ヤマトタケ)は、日代皇(景行天皇)の第二皇子である。

母はイナヒヒメで、12月15日に餅を搗いてモチハナを成した時に双子を生んだ。

兄はヲウスで斎名をモチヒトといい、弟はコウス(オウス)で斎名をハナヒコと名付けられた。

ヤマトタケの略歴(西征)

コウスが成人した後、クマソが再び背いた。これに一人で立ち向かったコウスは、乙女の姿に扮装して敵中に入り、肌身に隠した剣で敵の胸を刺した。するとクマソタケル(トリイシカヤ)が「しばし待て」と止めてコウスに素性を尋ねた。

コウスが「我は皇の子のコウスである」と答えると、タケルは次のように言った。

「ヤマトには我より長けた御子ばかり居るようだ、ゆえに御子に名を付けてやろうと思うが聞いてくれるか」

コウスがこれを許すと「ヤマトタケ」の名を賜った。以来、名を改めて敵を討ち治めた。よって、これは天(中央政府)の誉れとして称賛された。

ヤマトタケの略歴(妻子)


その後、ヤマトタケは姫を娶った。

まず、ヒコヰマスの孫のオオタンヤワケの娘のフタヂイリヒメを娶った。この姫が生む御子は、イナヨリワケ(タケヒコ)、タリナカヒコ(カシキネ)、ヌノオリヒメ、ワカタケである。

次にキビタケヒコの娘のアナトタケヒメを娶って内妻に定めた。この姫が生む御子は、タケミコとトキワケである。

次にオシヤマスクネの娘のオトタチバナヒメを娶ってスケ妻に定めた。この姫が生む御子は、ワカタケヒコ、イナリワケ、アシカミカマミ、タケコカヒ、イキナカタワケ、ヰソメヒコ、イカヒコらである。

そして、尾張連(オトヨ)の娘のミヤスヒメを娶って後妻とした。この姫が生む子は、タケダとサエキの二人である。

ヤマトタケには、十四男一女の子が居る。なお、ミヤスヒメを娶った頃には、以前の妻は皆枯れてしまっていた。ゆえに晩年の妻はミヤスヒメ一人であった。

ヤマトタケがミヤスヒメに会いに行く


ヤマトタケは一人残ったミヤスヒメに会おうと、ハラミより尾張に向かった。この際、心細くも木曽路の懸梯を凌ぎ上ると、ミヤスヒメは寝巻のまま出て来てヤマトタケを迎えた。そこで姫の裳裾に月穢(月経)の染みを見つけたヤマトタケは、これを短歌にして歌った。

『久方の 天の橘山 遠離方より 岨渡り来る日 細嫋 腕を巻かん とはすれど 添ねんと吾は 思えども 汝が着ける襲の 月立ちにけり』
(久々に天の橘山の遠方より岨を渡ってやって来た日に、細くてしなやかな腕を巻いて添寝したいと思ったが、汝の裳裾に月経の後を見つけてしまった)

これに姫も返歌した。

『高光る 和の日の御子 和みせし 我が大君の 新玉の 年が来ふれば 宜な宜な 君待ち難に 我が着ける 襲の裾に 月たなんよ』
(大君の新たな年が来ることを嬉し嬉しと心待ちにしていたため、君を待ち切れずに月が裳裾に立ったのでしょう)

ヤマトタケの遺歌(熱田神宮の創始)


その後、ヤマトタケは叔母のヤマトヒメより賜ったムラクモノツルギを姫の家に置き、伊吹山に向かった。

【本文】

その帰りの伊勢路で身体を労わって、都を思って歌を歌った。


【異文

その帰りの伊勢路で身体が痛む時に、館を思って歌を歌った。

『愛しきやし 我が家の方ゆ 雲出立ち来も』
(嗚呼、麗しき我が家の方から、雲(汚穢隈)が空に立ち上って行く)
(嗚呼、麗しき我が家の方から、雲(汚穢隈)の中の館に立ち上って行くのだなあ)


このノコシウタ(遺歌)は、御子や親族の間で伝えられた。また、館を出て旅屋で会った客人との未練を残さないための諭し歌にもなり、深い心の導きとなった。

ヤマトタケは能褒野にて神になる時には、ミヤスヒメに宛てた遺し歌を詠んだ。

『アイチタの 乙女が床に 我が置きし イセノツルキの 断ち別れるやわ』
(愛知多の乙女が床に置いた我が伊勢の剣(妹背の連き)と、断ち別れることになるのだろうな)

この和歌は「妹背の道は連なっており、たとえ一時は別れようとも二人を結ぶ縁は切れはしない」を指す歌である。ゆえに妹背の道を導きを立てるアメノリ(陽陰の法則)となった。なお、これを聞いたミヤスヒメは悶えて気絶したが、それでも生きていた。

また、その父(オトヨ)はハラミサカオリ宮の絵を写して都に上り、若宮(ヤマトタケ)の望みをそのまま申し上げた。これにより、アイチタ(愛知多=名古屋市・東海市・知多市の海岸部)に宮が建てられたので移転を乞うた。すると、大君(景行天皇)は「タタネコをイハフサヲシカト(天皇の直接の代理としての斎主)とし、連(オトヨ)を代殿として、御子達を神逝の御供とせよ」と詔した。

こうして、厳かに琴弾原の御陵にてヤマトタケが祀られ。なお、ミタマケ(神霊笥)には、白鳥が落とした尾羽四枚、古市の尾羽四枚、また能褒野の冠・笏・御衣裳を納められた。そして、これらをシラミコシ(白神輿)に納めてミユキ(神逝)が成ったのである。

ヤマトタケの葬儀


景行44年(上鈴831年)3月11日、黄昏時に神輿が出て能褒野から東へ向かった。その際に諸司は松明を掲げ、サキカリ(先行者)の二十人は榊を持った。ソエカフト(副代人)はサルタヒコ神のミカホアテ(御顔当)とされた。

カフト(代人)の八人はヤモトハタ(八元幡)を持った。オオカフトノ(大代殿≒ミヤスヒメの父)は臣八人を率いて、冠・御衣・御柱(ミタケバシラ)を持った。オシヤマスクネ(オトタチバナヒメの父)は臣六人を率いて、冠・御衣・世掃し(ヨハキシ=白斎鳥の尾羽)を持った。キビタケヒコ(アナトタケヒメの父)もこれと同様である。

オオタンヤワケ(フタヂイリヒメの父)は臣十人を率いて、冠・御衣・剣(叢雲剣)を捧げ持った。ヲサノトミ(重臣)は家侍人(イエバト)三十人を率いて、神輿・天覆い(アオホヒ)を司った。ミヲスエ(行列の最後尾)には御子が付き、四丈八尺の二つの流れの絹にすがって進んで行った。なお、このミヲスエはアマテル神のノコルノリ(モスソオクメ)に倣っている。

そして、イワヒサヲシカ(タタネコ)と臣十二人がミユキモリ(神逝守)に付くと、諸人が神輿を継ぎ渡す。その後、皆を送って夜中から六夜に到るまでハラ宮(ニイハラ)のオホマ殿(熱田神宮の御田神社)に神輿を座す。

この際、ミヤスヒメはヤマトタケが世に座す如く扱って、キリヒ(鑽り火)で炊いた粥を平瓮に盛って奉った。なお、これは頂くより先に入り待ち、神前に供えて姫は次のように言った。

「この御供は、昔 ヤマトタケが伊吹山から帰る時に捧げようと思っていたものです。あの時、昼飯を自ら炊いて待っていましたが、君は寄らずに行ってしまいました。散々悔やみましたが、君は神となって今また来てくださいました。今度こそ、どうかアリツヨ(生前)のアヒチタ(愛知多=名古屋市・東海市・知多市の海岸部)で待っていた時の昼飯をお受けください」

このように姫が三度宣った。

すると、十六夜月の朗らかな光の中から白斎鳥がやって来て、粥を食べて行った。そして、白鳥が現れた白雲から神の声が聞こえ、これに応えるツヅウタ(連歌)を歌った。

『ありつ代の 腹満つ欲しき 塵を放る飯(生前に腹を満たして欲しかった、この汚穢隈を祓う飯)』

諸人は、このクシヒル(尊い神霊)を真に畏れて拝むと、白鳥は飛び去ってしまった。以後、ヤマトタケはオホマノミヤ(熱田神宮)から宮を遷し、差使に和幣と御言を上げられた。この時の御使はタタネコと尾張連(オトヨ)であった。

そして、ヤマトタケは遷宮の後にニイハラ(新たなハラミサカオリ宮に相当する)の「オホマノカミ」と名付けられた。なお、この逸話は"神送る時の世を辞む御供のチリヒルメシ(塵放る飯=心の穢れを祓う昼飯)"として遺された。

東国の蝦夷を山陽と四国に送り、佐伯部とする


ある時、伊勢に添えられた蝦夷五人(津軽・陸奥の国造五人)が神を敬わなかった。そのため、ヤマトヒメはこれを咎めて帝(景行天皇)の元に送った。

君(景行天皇)はその五人を今度はミモロ(大神神社)に置いたが、来て早々に木を伐って民を妨げた。これに君は「ヱミシらはヒトココロ(人間の心)が無いため、神社に置いてはおけない。ゆえに地方に分けて置くことにする」と詔した。

そして、播磨・安芸・阿波・伊予・讃岐に分け置かれ、サエキベ(佐伯部)となった。

代嗣御子と宿禰が決まる


景行46年(上鈴833年)春、ナナクサノミアエ(七草の御饗)で歌ってから数日を経た。その際、ワカタリヒコとタケウチがウオチ(内裏)に参らなかった。そのため、これらを召して理由を問うと次のように答えた。

「エラクヒ(娯楽日)に遊び戯れると、普段を忘れたクルエト(狂人)が出てくるかもしれません。そのため、これを監視するために御垣を守っていたのです」

これを聞いた君は「イヤチコ(その通りである)」と言い、両人を篤く恵んだ。これにより、8月4日にワカタリヒコは代嗣御子となり、タケウチはムネノトミ(最高位の臣)であるスクネ(宿禰)となった。なお、ワカタリヒコとタケウチは同い年である。

内宮の交代


景行52年(上鈴839年)5月28日、后(内宮)のイラツヒメが神となった。この葬儀のミオクリノリ(神送り法)はアツタノリ(熱治宣)であった。オホタンヤワケは御食を炊き、チリヒルメシ(塵放る飯=心の穢れを祓う昼飯)としてヒラテ(平らな器)に盛り、ヌノオシヒメに頂かせた。

神逝では、オホタンヤワケを先駆に姫御子・スケ・内侍・乙下・青侍ら総勢三十人が付き添った。次に元元明の八色幡を奉らせ、神宣四十八(アワウタ)を分けて書き留めさせた。

また、タテモノ(奉物=奉納する物)として「クモニカケハシ(雲に懸橋)」と「カスミニチドリ(霞に千鳥)」を吉備の家臣が持ち並んだ。また、吉備・播磨の兄弟のタケヒコは、ヨハキシ(白斎鳥の尾羽)を持って左右に並んだ。また、御柱は内宮の臣が神輿の前で持ち、御子らはミヲスエ(神尾末)を担った。

そして、御使人は現し日の臣(天皇の代行)であるがゆえに輿に乗り、諸人に送られた。

7月7日、ヤサカイリヒメが内宮となった。

景行天皇の国巡り(尾張の熱田)


景行53年(上鈴840年)8月、君は「過去を思い返してみてもキリが無い。コウス(ヤマトタケ)が平定した国巡りをしよう」と詔した。

そこで、まず伊勢に御幸することになった。尾張津島に到ると、尾張連(オトヨ)が出迎えた。尾張連もコウスを子の如く思っていたため、二人は共にオホマノミヤ(熱田神宮)に入って自ら作った和幣を奉った。その時に君は「親子も交わりも無く別れてしまったために汝を忘れられない、そこで自ら来て和幣を捧げる」と述べて、久しく悼んだ。

オホマノミヤ(熱田神宮)を参拝した夜、君の夢にツシマモリ(津島社)から白斎鳥になったヤマトタケが現れて次のように語った。

「大神(アマテル)はソサノヲに次のように教えました。

"どのように国を望んでも、アメノリを成せばこその国の守である。教え歌にも『天が下 和して巡る 日月こそ 晴れて明るき 民の父母』とあるだろう。ソサノヲはこれを解けずに罪に落ちたが、後に反省してイフキカミに従って功を立て、遂に国守となった。

ニニキネは この心を以ってホツマを得てアマキミとなった。ソサノヲはニニキネをうらやんで、汝(景行天皇)の御子(オウス)となって生まれたのだ。そして、御言を受けて東西を平定し、今こうして天に還る。

カミシツ(上下=君とオウス)が調和してこそのアツサタス(熱さを治す)親の恵み、ゆえに倦(う)むことはないのだ"」

一連の流れを語った白鳥は、オリカソエウタ(折返の詞を数える歌)を歌った。

『我が光る 晴見つ錦 アツタ神 元つ粗衣に 復れるか ヒカワ』
(今は錦を纏う英雄のアツタ神、昔は汚穢隈と言われたヒカワ神、英雄となった今、再び粗衣を着る下民の戻れるか?)

このように三度宣ると、賤民の姿になって雲の中に隠れて行った。

この夢から目覚めた君は次のように言った。

「神(ヤマトタケ)の告げに"我は元々賤しいヒカワ神であり、今 再び元に返る"とあった。これは恵みを片寄らせる迷いを諭す啓示であろう。昔は"人は神、神は人なり"と言われ、その名は尊ばれ、人としての道の模範を示す。神は人から始まり、人として素直でホツマ(調和の道)を行くのが真の神である」

このように述べると、オウスに「アツタカミ」の名を与えた。また、ミヤスヒメを伊勢の斎宮に比し、神主も伊勢の宮司と同格とした。

景行天皇の国巡り(東方の相模)


景行53年(上鈴840年)、君は東方へ向かい、相模にて御饗を成した。そこで、サクラネマシとホツミテシが君を拝むと、泣きながら「オトタチバナヒメは亡くなってしまったので、もう会うことはできません」と言った。

これに君も涙すると、トラガシハがヤマトタケのサカキミスカタ(肖像)を奉った。君はこれを見てヤマトタケの生前の姿に会うが如く振る舞い「良く似ている」と評した。

これゆえに この里は"ハメクロ(嵌比)"と名付けられた。そして、この肖像はカミスカタ(神像)として大山峰(オオヤマ)に造られた社に納められた。

景行天皇の国巡り(東方の上総)


景行53年(上鈴840年)、御船は上総へと向かい、アホノハマ(阿呆の浜)に到着した。そこでミサゴ(カモメ)が餌を食べているのを見て、これを民に問うと、民は「あれはウムギ(蛤)と言って賤民が食べる貝です。膾(ナマス)にするのも好いです」と答えた。

すると、ムツカリがガマタスキ(蒲襷=蒲の葉を襷とする事)をして蛤を獲り、直ちに膾にして君に進上した。これゆえにムツカリはカシハトモベ(膳品部)の名を賜った。なお、ムツカリとはオオヒコの孫のイワカのことである。

また、カシマカグラ(鹿島神楽)のシシマヒ(猿回し)について聞けば、カトリトキヒコがこれに答えた。

「これは昔、妙技と呼ぶべきほどに跳ね踊る獣らを辻君(サルタヒコ)が統べて仕込み、完成させたものです」

君が楽しんだカグラシシは鹿島の島々に伝えられてきた芸で、君は「障り無かれ」と言って獣をもてあそんだ。これゆえに猿治の尊(サルタノカミ)のナニシアフ(名に釣り合う)と評された。

景行天皇の国巡り(伊勢の磯宮)


景行53年(上鈴840年)12月、君は伊勢の国のイロト(愛妹)の宮(ヤマトヒメが隠居した磯宮)に滞在した。

景行54年(上鈴841年)9月30日、日代の宮(マキムキヒシロミヤ)に帰ることになった。

ホツマツタヱ、ミカサフミの編纂


景行54年(上鈴841年)、君が伊勢から帰って来る頃、三輪のタタネコはミヨノフミ(御代の文=皇代記)を編纂していた。この文は、上代のホツマチ(秀真道)を以って40文を成したものであった。

これをクニナツ(オオカシマ)に示すと、クニナツも同様のミカサフミを編纂した。これらを互いに示し合い、その見映えを話し合いながら訂正して、新たに改めた文を この二家から上げ奉った。

この文は昔、モノヌシ(クシミカタマ)が(ウガヤかタケヒトの)詔を承って作り始めたものである。そして、これは阿波宮(琴平宮)に入れ置かれていた。その目的は、後の代々の文(皇代記)の内容がまちまちとなったり、見ない者が反目することを予見していたからであった。

ゆえにこれを得て、まさに百千年の試みとして遥かなる奥の神道に入るべし。

この時、上鈴843年(景行56年)秋天日、これ(ホツマツタヱ)を奉る。三輪の臣のスヱトシ(オオタタネコ)が畏れ多くも謹んで編纂する。

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注釈


登場人物


・ヲシロワケ:『記紀』の大足彦忍代別天皇に比定。垂仁天皇とヒハス姫の子。十二代景行天皇
・ヲウス:『記紀』の大碓皇子に比定。景行天皇とイナヒヲイラツヒメの双子の兄
・オウス(コウス):『記紀』の小碓尊に比定。景行天皇とイナヒヲイラツヒメの双子の弟
・ヤマトタケ:『記紀』の日本武尊に比定。オウスが熊襲の首領のトリイシカヤから授けられた名
・ミヤスヒメ:『記紀』の宮簀媛に比定。オトヨの娘。ヤマトタケの妻
・オトヨ:『旧事紀』の乎止與命に比定。ミヤズ姫の父
・イフキカミ:祓戸四神の気吹戸主に比定。ツキヨミの子
・キビタケヒコ:『記紀』の吉備武彦に比定。おそらくキビツヒコの子
・ナツカハギ:『記紀』の七掬脛に比定。ヤマトタケの東征の際の膳出。久米直の祖
・イナヒヒメ(イラツヒメ):『記紀』の播磨稲日大郎姫に比定。キビツヒコの娘。景行天皇の内宮
・クマソタケル:『日本書紀』の取石鹿文・川上梟帥に比定。襲の国造になるが、謀反を起こす
・ヒコヰマス:『記紀』の彦坐王に比定。開化天皇とオケツ姫の子
・オオタンヤワケ:『古事記』の意富多牟和氣に比定。アフミの子。フタヂイリ姫の父
・フタヂイリヒメ:『記紀』の兩道入姬命に比定。タンヤの娘。ヤマトタケの妻
・イナヨリワケ:『記紀』の稻依別王に比定。ヤマトタケとフタヂイリ姫の子
・タリナカヒコ:『記紀』の足仲彥尊に比定。ヤマトタケとフタヂイリ姫の子。十四代仲哀天皇
・ヌノオリヒメ:『日本書紀』の布忍入姬命に比定。ヤマトタケとフタヂイリ姫の子
・アナトタケヒメ:『記紀』の吉備穴戸武媛に比定。キビタケヒコの娘。ヤマトタケの妻
・タケミコ:『記紀』の武卵王に比定。ヤマトタケとアナトタケ姫の子
・トキワケ:『日本書紀』の十城別王に比定。ヤマトタケとアナトタケ姫の子
・オトタチバナヒメ:『記紀』の弟橘媛に比定。タジマモリとハナタチバナ姫の娘
・ワカタケヒコ:『記紀』の稚武彥王に比定。ヤマトタケとオトタチバナ姫の子
・イナリワケ:『旧事紀』の稲入別命に比定。ヤマトタケとオトタチバナ姫の子
・アシカミカマミ:『記紀』の蘆髪蒲見別王に比定。ヤマトタケとオトタチバナ姫の子
・タケコカヒ:『旧事紀』の武養蠶命に比定。ヤマトタケとオトタチバナ姫の子
・イキナカタワケ:『古事記』の息長田別王に比定。ヤマトタケとオトタチバナ姫の子
・ヰソメヒコ:『旧事紀』の五十目彦王命に比定。ヤマトタケとオトタチバナ姫の子
・イカヒコ:『旧事紀』の伊賀彥王に比定。ヤマトタケとオトタチバナ姫の子
・タケダ:『旧事紀』の武田王に比定。ヤマトタケとミヤス姫の子
・サエキ:『旧事紀』の佐伯命に比定。ヤマトタケとミヤス姫の子
・ヤマトヒメ:『記紀』の倭姫命に比定。垂仁天皇とカバヰツキ姫の子。アマテル神の斎宮となる
・タタネコ:『記紀』の大田田根子に比定。神託でオオモノヌシ神の斎主となる
・サルタヒコ神:『記紀』の猿田彦命に比定。猿部の祖
・アマテル神:『記紀』の天照大神に比定。八代君主の男尊。現在は神霊
・オシヤマスクネ:『日本書紀』の忍山宿禰に比定。オトタチバナヒメの養父
・ワカタリヒコ:『記紀』の稚足彥尊に比定。景行天皇とヤサカイリ姫の第一子。十三代成務天皇
・タケウチ:『記紀』の武内宿禰に比定。ウマシウチとヤマトカゲ姫の子。孝元天皇の曾孫
・ヤサカイリヒメ:『記紀』の八坂入媛命に比定。景行天皇の内侍
・ソサノヲ:『記紀』の素戔嗚尊に比定。アマテルの弟
・ニニキネ:『記紀』の瓊瓊杵尊に比定。アマテルの孫。現在は神霊
・サクラネマシ:タチバナモトヒコの臣
・ホツミテシ:タチバナモトヒコの臣
・トラガシハ:ヤマトタケの鐙の片方を野で拾った人物。多摩川青梅を賜る(虎柏神社がある)
・ムツカリ(イワカ):『日本書紀』の磐鹿六雁に比定。オホヒコの孫のイワカ
・カトリトキヒコ:カトリ宮の主
・クニナツ(オオカシマ):『記紀』の国摩大鹿島命に比定。アメノコヤネの後裔
・クシミカタマ:大神神社祭神の倭大物主櫛甕魂命に比定。ツミハの子。五代目オオモノヌシ

関連社


・熱田神宮:ホツマにおける「オホマノミヤ」に比定
 ・創建年:伝・仲哀天皇元年
 ・主祭神:熱田大神
 ・所在地:愛知県名古屋市熱田区神宮一丁目1-1
・大山阿夫利神社:ホツマにおける「大山峰の社」に比定
 ・創建年:伝・崇神天皇の御代
 ・主祭神:大山祇神
 ・所在地:神奈川県伊勢原市大山355
・金刀比羅宮:ホツマにおける「ホツマツタヱを納めた社」に比定
 ・創建年:不明
 ・主祭神:大物主神、崇徳天皇
 ・所在地:香川県仲多度郡琴平町892-1

※ホツマツタヱの記述との対応関係に基づく解釈

関連地


・琴弾原白鳥陵:ヤマトタケが埋葬された「琴弾原」に比定
 ・奈良県御所市冨田にある日本武尊白鳥陵

※ホツマツタヱの記述との対応関係に基づく解釈

関連知識


ソサノヲとヤマトタケの関係性について

ホツマ38~40文にはヤマトタケを中心とした物語が記されますが、40文にてヤマトタケがソサノヲの転生体であったことが明かされます。38文からヤマトタケの行動を追っていくと、伏線のようにソサノヲと重複する点が見られるので、それについてまとめます。

クマソタケルと戦い(38文)

ヤマトタケがクマソタケルを倒す際に女装して奇襲する場面は、ソサノヲがヤマタノオロチを倒す際に女装して生贄を装ったというホツマ独自の説話と一致します。この戦法の重複は、両者が同一霊であることを示唆しています。なお、ソサノヲが女装するという説話は記紀には無く、ホツマ独自のものとなっています。

ムラクモノツルギを使う(39文)

ホツマにおけるムラクモノツルギは、ソサノヲがヤマタノオロチを倒した際の剣に当たります。これが巡り巡ってヤマトタケの手に渡ったことが記されており、本来の持ち主の元に返ってきたと読み取ることが出来ます。

和歌に精通している(39文)

ホツマにおいて「アワウタ」は森羅万象に密接に関連する要素として扱われています。このアワウタの真髄を紐解き、それを体系化して和歌としたのがヒルコ(ワカヒメ)です。ソサノヲはヒルコから和歌を習ったことが記されており、ヤマタノオロチ退治の後に和歌を残しています。39文にはヤマトタケも同じく和歌に精通している説話が記されています。

イフキカミとの関係(40文)

ソサノヲは天を追放された後、イフキヌシ(イフキカミ)に許されてムハタレ討伐に参加し、功を立てて国守に復帰します。一方、ヤマトタケは東征後に伊吹山の荒ぶる神(イフキカミ)を鎮めに向かい、そこで祟りを受けて死を迎えます。両者の転機にイフキカミが関わる点は、同一霊でありながら異なる帰結を辿っていると読み取ることができます。

ホツマツタヱとミカサフミについて

ホツマによれば、ホツマツタヱはかつてクシミカタマが当時の君主の命を受けて編纂し始めたもので、それを三輪のオオタタネコ(クシミカタマの後裔)が引き継いで完成させたものとされています。その過程で、鹿島のオオカシマ(コヤネの後裔)に見せると、オオカシマも同様にミカサフミの編纂を始め、それを互いに示し合わせながら完成させ、三輪と鹿島の二家が景行天皇に献上したとされます。

この二家がそれぞれ別の年代記を献上するということは、後の代々で内容がまちまちになったり、史を見ない者が反目することを避けるためであると記されています。また、年代記を編纂しておく理由は、歴史が廃れてきた際に再び謀反が起こることが予見されるためだとされています。

『日本書紀』との主な違い(AI分析)


ヤマトタケの死因の描写

ホツマでは、ヤマトタケが伊吹山の神(イフキカミ)を「へりくだるに値せぬ」と軽んじたことが祟りの原因とされ、氷の荒霊によって活力を奪われる。一方、『日本書紀』では大蛇を「荒ぶる神の心」と見て引き返そうとした際に祟りを受けるとされ、軽視・無視が原因として描かれる。ホツマは「神意を軽んじた倫理的過失」を強調し、日本書紀は「神を見誤った判断ミス」として描く点が異なる。

死の直前の言葉と心情の方向性

ホツマでは、ヤマトタケは能褒野で死期を悟り、アメノノリ(陰陽の法則)を受け入れつつ、東征の成果と心残りを文に託す。最期は熱治宣(アツタノリ)を百回唱えて神となるという、儀礼的・宗教的な死が描かれる。一方、『日本書紀』では、天皇への忠誠と任務未完の無念を述べる上表文が中心で、政治的・国家的な死として描かれる。ホツマは「霊的昇華」、日本書紀は「忠臣の最期」という性格付けが異なる。

死後の変化と白鳥伝説の意味づけ

ホツマでは、ヤマトタケは白鳥となって飛び立ち、落とした羽が御陵の地を定めるとされる。白鳥は「人は神、神は人なり」というホツマ神観の象徴であり、神格化の儀礼的プロセスとして描かれる。一方、『日本書紀』では白鳥化は奇跡的現象として扱われ、景行天皇の深い悲嘆が中心に置かれる。ホツマは「神化の必然性」、日本書紀は「死後の奇跡と父の後悔」という構図である。

ミヤツヒメと熱田神宮の成立

ホツマでは、ミヤツヒメが白鳥を迎えて昼飯(チリヒルメシ)を供え、白鳥が歌を返す場面が熱田神宮の起源として語られる。これは「生前の約束の成就」と「神と人の交流」を強調する儀礼的物語である。一方、『日本書紀』では熱田神宮の成立は簡略で、ヤマトタケの死後の祭祀体系は詳細に語られない。ホツマは「祭祀の由来」を物語として体系化し、日本書紀は制度的記述に留まる。

景行天皇の国巡りの意味づけ

ホツマでは、景行天皇の国巡りはヤマトタケの足跡を追体験し、各地の伝承・芸能・地名の由来を確認する「慰霊と文化継承」の旅として描かれる。一方、『日本書紀』では国巡りは政治的巡幸として扱われ、ヤマトタケの死を悼む描写はあるものの、文化的・祭祀的意味づけは弱い。ホツマは「追体験と鎮魂」、日本書紀は「巡幸と統治」という性格の違いがある。

ホツマツタヱとミカサフミの編纂

ホツマ40文では、三輪のタタネコがミヨノフミ(ホツマツタヱ)を、クニナツがミカサフミを編纂し、互いに照合して40文として完成させたと語られる。これは「文書成立の物語」を内部に含む自己言及的構造である。一方、『日本書紀』には編纂過程の物語はなく、成立背景は外部史料に委ねられる。ホツマは「文書の正統性」を物語内で保証し、日本書紀は「国家編纂の史書」として外部的権威を持つ点が異なる。

『古事記』との主な違い(AI分析)


死因の描写の性格

ホツマでは、ヤマトタケが伊吹山の神(イフキカミ)を軽んじたことが祟りの原因とされ、氷の荒霊によって活力を奪われるという「神意を無視した倫理的過失」が強調される。一方、『古事記』では「素手で捕まえてやる」と豪語し、白い猪(神の化身)を侮った傲慢さが原因とされる。ホツマは「神との関係性の破れ」、古事記は「英雄の慢心」という性格付けが異なる。

衰弱の過程と心理描写

ホツマでは、祟りによる衰弱は段階的に描かれ、醒井で身を冷やしながらも回復せず、能褒野へ向かうまでの心理が丁寧に語られる。一方、『古事記』では祟りを受けた後はほぼ一気に衰弱し、精神的混乱の描写が中心となる。ホツマは「死の過程の叙述」、古事記は「祟りの衝撃の強調」という違いがある。

最期の言葉の方向性

ホツマでは、ヤマトタケは東征の成果と心残りを文に託し、アメノノリ(陰陽の法則)を受け入れながら熱治宣(アツタノリ)を唱えて神となるという、儀礼的・宗教的な最期が描かれる。一方、『古事記』では「倭は国のまほろば……」の歌に象徴されるように、故郷・大和への郷愁と個人的な未練が中心で、英雄の孤独と哀感が強調される。ホツマは「神化の儀礼」、古事記は「個人の情感」が主題となる。

白鳥伝説の意味づけ

ホツマでは、白鳥化は「人は神、神は人なり」という神観の象徴であり、落とした羽が御陵の地を定めるなど、神格化の必然的プロセスとして描かれる。一方、『古事記』では白鳥化は超自然的現象として扱われ、后や子らが泥にまみれて追いすがる哀傷の場面が中心となる。ホツマは「神化の体系化」、古事記は「残された者の悲嘆」という構図である。

ミヤツヒメの位置づけ

ホツマでは、ミヤツヒメが白鳥を迎えて昼飯(チリヒルメシ)を供え、白鳥が歌を返す場面が熱田神宮の起源として語られ、彼女は「神と人をつなぐ巫女的存在」として描かれる。一方、『古事記』ではミヤツヒメ(ミヤスヒメ)は登場せず、熱田神宮の成立に関する物語的背景も語られない。ホツマは「祭祀の由来」を物語化し、古事記は「英雄譚の枠内」に留まる。

景行天皇の反応と物語の締めくくり

ホツマでは、景行天皇はヤマトタケの足跡を辿って国巡りを行い、各地の伝承や芸能の由来を確認する「追体験と慰霊」の旅が描かれる。一方、『古事記』では景行天皇の反応は簡潔で、国巡りは描かれず、物語は白鳥伝説の後にすぐ終わる。ホツマは「死後の文化的継承」を描き、古事記は「英雄の死」で物語を閉じる。

文書成立の扱い

ホツマ40文では、三輪のタタネコとクニナツがホツマツタヱとミカサフミを編纂し、文書成立の由来が物語内で語られる。一方、『古事記』には編纂過程の物語はなく、成立背景は序文に簡潔に述べられるのみである。ホツマは「文書の正統性」を物語内で保証し、古事記は「編纂者の宣言」によって正統性を示す点が異なる。