【意訳版現代語訳】人の巻 ホツマツタヱ39文 ホツマ打ち 連歌の文
ホツマツタヱ39文の現代語訳を「読みやすさ」と「まとまり」を重視して意訳しました。
詳細な逐語訳や原文を確認したい方は、冒頭のリンクから個別ページを参照してください。
ホツマツタヱ39文のあらすじ
ヤマトタケの東征決定から伊勢参拝、東国諸勢力との交渉、蝦夷平定、そして連歌(ツヅウタ)の由来までを一連の流れとして描いた文(あや)です。
1. 東国の反乱とヤマトタケの東征決定
景行40年、東国(ホツマ)が騒乱し、諏訪のオオトモタケヒが巡幸を乞うたことで朝廷は対応を協議する。諸臣が答えない中、ヤマトタケが兄ヲウスを推挙するが、ヲウスは恐れて逃亡していたため美濃に封じられる。そこでヤマトタケが東征を引き受け、景行天皇は蝦夷の性質と乱れを説き、ヤマトタケに御矛(征夷の璽)を授けて出征を命じる。
2. 伊勢参拝と錦袋・叢雲剣の授与
東征に向かう途上、ヤマトタケは伊勢に詣でてヤマトヒメと会い、戦勝祈願を行う。ヤマトヒメは火水の祓いを授ける錦袋と、出雲平定に由来するムラクモツルギ(叢雲剣)を授与し、東国平定の使命を託す。
3. 東国諸勢力との交渉と蝦夷平定
タジマモリの遺言に基づき、タチバナモトヒコを味方につける策が進められ、相模の城を拠点に東国諸勢力との交渉が行われる。蝦夷の火攻めや野焼きの策略を受けるが、ヤマトタケは火水の祓いと向かい火でこれを制し、草薙剣の名の由来となる戦いを制する。さらに相模の城を救援し、タチバナモトヒコらと連携して東国の諸国造・県主を服属させ、津軽・陸奥・常陸・上総・安房などを統治体系に組み込んでいく。
4. ツヅウタ(連歌)の由来とヤマトタケの威徳
重い靫を運ぶ従者たちの言い争いをきっかけに、ヤマトタケはツヅウタ(連歌)を詠み、従者ヨスナが返歌したことで歌の功を賞する。ここでオオトモタケヒがツヅウタの由来、十九音の構造、忠と操を表す歌の理法を語り、歌が国を治める力であることを示す。これにより人々はヤマトタケの神性を称え、東国平定の正統性が強調される。
5. 武蔵・相模の国造りとオトタチバナヒメの鎮魂
ヤマトタケは武蔵・相模を定め、タチバナモトヒコを国守に任じる。途中、オトタチバナヒメの訃報が届き、形見をもって塚とする「連り天引きの祭」が行われ、大磯にアヅマモリの社が建てられる。また氷川神社の創祀が語られ、ヤマトタケの祖霊祭祀が確立される。
6. 木曽路での苦難とヒタカミへの道
木曽路の難所で白鹿の邪気に苦しめられるが、蒜を用いて退け、火水の祓いで霧を払い、神の白狗に導かれて美濃へ抜ける。ここでキビタケヒコと合流し、東国平定の旅が大きな節目を迎える。
意訳文
ヤマトタケの東征が決まる
景行40年(上鈴827年サウヱ)6月、ホツマ(東方)が騒ぎ出せば、諏訪酒折宮のオオトモタケヒが都に上って巡幸を乞うた。
君(景行天皇)は諸臣を集めて「ホツマのヱミシ(蝦夷)が反乱を起こしたが、誰を遣わすのが良いか?」と問うた。すると、諸臣が答えない中、ヤマトタケが「以前、私が西方を討ちました、なれば東方を討つのは兄のヲウスが良いでしょう」と言った。
この時、ヲウスは恐れ震えて都を逃れ、美濃に到ってそこに隠れていたが、都に呼び戻されることになった。そこで君はヲウスを責めて「お前を持ち上げてやろうと言うのに、恐れるとは情けない」と言い、美濃を守らせることにした。
この時、ヤマトタケは雄叫んで次のように言った。
「西を平定して間もないというのに、また東で反乱とは一体いつまで続くのか!たとえ臣を労わったとしても平定の目処が立つまい!」
すると、皇(景行天皇)は矛を持って次のように詔した。
「私が聞いているヱミシ(蝦夷)とは、法を軽視しており、粗長も立てず、村君らは各々が侵略して争っているという。また、ヤマアラシ(山賊)、カタマシモノ(詐欺師)、チマタカミ(地域の支配者)も混ざっているという。
このように、蝦夷は陰と陽を混同しており、シムミチ(神道=アメミヲヤの分け神霊が下生する道)が欠けているのだ。また、穴に住み、ケシシ(穢肉)を食べて毛衣を着ているという。このような者たちであるがゆえ、天の恵みを忘れて仇を為すだろう。
蝦夷らは、弓の達者な者たちを集めて隠れ住み、野山を走る技を得たことで、アメナルミチに服従しない。私が思うに、汝(ヤマトタケ)は姿もきらめかしく百人力である。行けば障害も無く、攻めれば勝つだろう。
すなわち、その身は我が子であるが、その真は神であるということを知っているのだ。暗く平定し難い私の代を、絶えずに継続させてこられたのも、汝(ヤマトタケ)があってこそなのである。ゆえに汝(ヤマトタケ)は天下を領す位なのだ。
よって、深く謀って蝦夷らを稜威に伏せ、恵みを以って手懐けてホツマ(調和)を為すべし。カタマシモノ(偽りの者)をカンツヨ(上位の統治形態)に服従させるのだ」
そして、皇はヤマトタケに御矛(征夷大将軍の璽)を授けると、これにヤマトタケが答えて言った。
「昔、私はミタマノフユ(霊魂の恵み)によってクマソを平定しました。今もまた、ミタマ(霊魂)によってフユ(恵み)を借りることになるでしょう。そして、敵地との境界に行き、敵が服従しなければ討ちましょう」
こうして皇を拝み、キビタケヒコとオオトモタケヒを従え、ナナツカハギを膳出(兵站)として出立した。
伊勢に詣でて錦袋と叢雲剣を授かる
景行40年(上鈴827年)10月2日、ヤマトタケ一行は門出して、道(東海道)を横切って進んだ。
10月7日、イセノカミに戦勝祈願し、磯宮に立ち寄ってヤマトヒメと会った。ヤマトタケは「君の仰せにより、仇討ちに行って参ります、そこで死ぬかもしれません」と言うと、ヤマトヒメは錦袋と剣を差しだして次のように言った。
「天御孫(ニニキネ)が染めたヒミツノヲンハラヒ(火水の御祓)によって、火水の障害を祓いなさい。また、この剣は昔 出雲国を開いた時のムラクモツルギです。謹み受けて敵を平定しなさい。怠けてはなりませんよ」
このように言うと、ヤマトタケに錦袋と剣を授けた。
タジマモリの遺言とタチバナモトヒコとの同盟
なお、以前にタジマモリが残した遺言は次のようなものであった。
「国(東国)は馴染みが無いので、橘の木を得るためにタチバナモトヒコの家に数年世話になった。そこから周辺を馴染み巡って、ヒタカミ(陸奥)のシマツミチヒコと出会った。そして、橘を多少得たが、それを届ける間もなく君は神となった(垂仁天皇の崩御)。
私は君に届けられなかったことを散々悔やんでいるがゆえ、これを若宮(景行天皇)に奉る。君よ、僕(やつかれ)がタチバナモトヒコと同盟を持った理由を思い出してホツマ(東方)を領すべし」
この遺言を以って、皇(景行天皇)とタケウチは話し合った。
その結果、ホツマ国のタチバナモトヒコを味方につけることになった。そのため、オトタチバナヒメ、ホツミテシ、サクラネマシを先に派遣しておき、この後に都からヤマトタケの軍勢が下るという計画となった。
その際、ヒタカミの蝦夷がタチバナモトヒコに寝返りを誘ったが、頷かずに拒否した。そのため、相模の小野に城を構えてホツミテシとサクラネマシに守らせた。
クサナギノツルギ
ヱミシ(蝦夷)の族が攻め上ってくると、裾野にてヤマトタケの軍勢と対峙した。
そこでヱゾ(蝦夷)らが欺いて「野の鹿が激しく興奮して地を踏みしだいたので、獣道が出来ています。この道を望んで回り込んで敵を狩りましょう」と言ったので、ヤマトタケは「それは良い提案だ」と言って、言われる通りに回り込んだ。
すると、蝦夷は野を焼き始めたが、ヤマトタケは欺きに気付いていたため、すぐに鑽火(キリヒ=清い火)を焚き、向かい火を放って対処した。そして、ヒミツノハラヒ(火水の祓い)を催行し、そこで三度宣(のたま)った。
これにより風向きが変わると、西に流れた煙が敵軍を覆い、薙ぎ払った草から引火して敵軍を焼き滅ぼした。ゆえにこの地をヤケツノ(焼つ野)と言い、剣の名を「クサナギ(草薙)」と呼ぶようになった。
この後、ヤマトタケ一行は足柄山へと攻めいった。
ヤマトタケが相模の城に入る
一方、相模の小野では蝦夷による城攻めが行われていた。そのため、城の守備を堅めたが、敵軍は四方に焚木を積み上げて火攻めを為した。なお、この時は七十日続いた日照りによって乾燥しており、火がよく燃える状態だった。
この頃、ヤマトタケは矢倉岳に登って周囲を一望した。そこでキビタケヒコを大磯(神奈川県大磯町)へ、オオトモタケヒを大山(雨降山)の北に回らせて城に向かわせた。これにより、城の南北から分かれて挟み討ちにする形が整った。
それから、ヤマトタケは髪を梳いて清めて「シラカシノタチ(白樫の太刀)」と「ハラミの御柱(御神体)」を以ってヒミツノキヨハラヒ(火水の清祓い)を行った。すると、タツタノカミが現れて子代池のタツ(竜)が雨を降らせて火を消した。これによってミヤイクサ(皇軍)は士気を取り戻し、勇んで敵軍の半数を討った。
敵が逃げて散り散りになると、城を開門してヤマトタケ一行を迎え入れた。そこでオトタチバナヒメがヤマトタケを手を取って「私は始めから各々が焼けないように祈りました、今それが叶って幸せです」と言うと、嬉し涙に袖を浸した。
ヤマトタケによる津軽・陸奥・北関東の平定
城内にて、タチバナモトヒコは諸人に「蝦夷は服従せずに人民を殺すゆえ、大御宝(国民)が巡幸を乞うている」と告げた。そこで、これを契機に「コトハジメ(改革の開始)」とし、12月8日にカグカゴ(橘籠=ミカンを入れる籠)を立ててシルシ(標)とした。
この時、ヤマトタケは皇軍をカンフサ(上総)に渡そうとした。しかし、軍船を漂わせる風が止まなかったので、これを鎮めるためにオトタチバナヒメは船の舳に上り、次のように天地に祈った。
「我が君のイツ(稜威)をヤマトに立てるため、私は君のためにタツ(竜)となって船を守ります」
このように祈ると、姫は海に入ってしまった。諸人は驚いて、姫を救い出そうとしたが結局叶わなかった。だが、波の凪は無くなって御船は岸へと着くことが出来た。
こうしてヤマトタケが上総に入ると、カトリトキヒコ、カシマヒデヒコ、イキスオトヒコが榊の枝に鏡を掛けて出迎えた。そして、かねてより待っていたオオカシマの元で御饗した。
その後、ヤマトタケはアシウラを越えて勿来浜に仮宮を設け、そこを拠点とした。この際、ヒタカミミチノク、シマツミチヒコ、ほか国造5人、県主174人と万輩がタケノミナト(竹水門)に集結して進軍を拒んだ。
そこで、ヤマトタケはオオトモタケヒを派遣して交渉させた。この際、シマツミチヒコは皇軍の威勢を恐れたため、弓矢を棄てて御前に伏し、ヤマトタケに服従を誓った。
また、オオトモタケヒがヒタカミミチノクとの交渉に出向くと、ヒタカミミチノクは門前で出迎えて次のように言った。
「今の汝らの皇は『天の皇』では無く『人の皇』である。それを君として仕える汝らは、愚かにも我が国を奪おうとするのか」
これにオオトモタケヒは答えて言った。
「これは上の御子(天皇)が汝を召したにもかかわらず、服従しなかった結果である。ゆえに討つのだ」
さらにミチノクは答えて言った。
「上の御子(天皇)というが、どんないわれがあってのことか。我が国は大御祖のタカミムスビ(キノトコタチ)が建国して七代にわたってこれを継承している。日の神(アマテル)は当地にて道を学んだゆえにヒタカミという。
陽陰の皇子(オシホミミ)はチチヒメとの間に二人の皇子を生み、兄(テルヒコ)はアスカを治め、弟(ニニキネ)はハラミを治めた。その時、国を賜って十四代の裔を経て、我までは他所の治めを受けなかった。
しかし、それの君(タケヒト)がアスカ(ニギハヤヒ)を討って国を盗った。ゆえに汝らと上代は違い、和合することなどできるわけがない。今もこうしてやって来て、国を盗ろうとする。これが上に立つ者のすることか?皇君(すへきみ)よ」
これにオオトモタケヒは微笑んで次のように諭した。
「これは汝がヰナカ(井中)に住んで沢を見なかったゆえに得た誤解である。正しき伝えとよく似ているが見当違いであるぞ。これを説くゆえ、確と聞くべし。
昔、アスカのナガスネが代嗣文を盗む罪を犯したが、アスカ君(ニギハヤヒ)はこれを正さなかった。これゆえに『乗り下せ ホツマ方平む 天下斎船(東方を平らげる宣を下せば天地も祝う)』の歌が世に歌われたのである。そこでシホツチ翁が君(タケヒト)に平定を勧め、大和が正されることに決まった。
その際、大御神(アマテル)もカシマの神(タケミカツチ)に東方平定の詔をしたが、カシマの神は自ら出向かなくても事足りると国平けの剣を下した。この剣はタカクラシタによって君に捧げられたのだ。そして、大和を平定したタケヒト(神武)は、日月の君たる稜威があるゆえに天より続く上の御子となった。
以来、こうして上の御子が代々和して天下を照らすのである」
続いて、オオトモタケヒは「汝らは君(天皇)に従わずに治まったと言うが、暦は何であるか?」と尋ねると、ヒタカミミチノクは「イセ(ヒヨミの宮)」と答えた。
これを聞いたタケヒは話を続けた。
「アマテラスカミ(和して照らす上位者)は、暦を成し、ソロ(稲)を植えさせて糧を増やし、身を保たせる。アマテル神は、地上に現れてから179万3000年もの間 この世を見て、今はヒノワチ(太陽の内)に御座しておられる。その御孫が代々民を治めており、これを和して照らす日に擬えて『アマキミ』というのである。
汝は代々実りを受けて命を繋いできたにも関わらず、君に返言を申さぬとはとても罪が深い。その罪が積り積もって、今は幾らになっていることだろうか。だが、抜け道はある。我が君は上の御子ではないのだから」
この後、ヒタカミミチノク以下の軍勢はことごとく平伏し、ヤマトタケに服従を誓ったので、ヤマトタケはヒタカミミチノクらを許した。それから、ヒタカミミチノクを国守とし、勿来から北を統治させると、ヒタカミミチノクは100県の果穂を捧げるようになった。
また、ツガルヱミシ(津軽の蝦夷)はシマツミチヒコに統括させると、シマツミチヒコは70県の果穂を捧げるようになった。
また、南の常陸・上総・安房はミカサカシマ(オオカシマ)に与えた。
また、カシマヒデヒコ、カトリトキヒコ、イキスオトヒコの三人には御衣を与えた。
ヱミシの貢物と力を出すための歌
ヤマトタケは、津軽・陸奥の国造五人に神の道(陽陰の道)を敷いて従わせ、それらを引き連れて新治に到った。そして津軽蝦夷からカソニシキ(上等な錦織)を10機、鷲の羽のトカリヤ(尖矢)100手を奉じられた。また、陸奥(旧ヒタカミ)からは黄金10重、クマソヤ(熊襲矢)100手が奉じられた。
この時の靫は重く通常の200倍あったので、背負い手を求めた。そこで、オオトモタケヒの侍の四人が替わりながら背負って筑波に上り、その西南の経路を進んで諏訪酒折宮に到った。
この時、既に日が暮れて旅の予定に遅れが出ていたので、これを叱りつけると、四人は次のように答えて互いに言い争った。
「この靫が重く疲れれば眠むたくなる、日暮れなど考えている余裕は無いのだ」
「合い持ちであるのに汝ばかりが疲れるわけが無いだろう」
「力を合せれられるように歌を詠め」
「上の御代は歌、今は力が必要なのだ」
このやり取りを聞いていたヤマトタケは、ツヅウタ(連歌)を歌見に染めて「返歌せよ」といって詠い始めた。
『新治出 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる』
(新治を発ち、筑波を過ぎて幾夜日は寝てる)
この返歌に困った諸人が返せずにいると、火灯しのヨスナが君の歌に返歌した。
『かがなえて 夜には九の夜 日には十日を』
(考えてみれば夜が9回あったのだから、日にすれば10日です)
ヤマトタケは火灯しを褒めてタケタ村を与え、他の従者にはハナフリ(花降=通貨)を与えた。また、オオトモタケヒを褒めてユキベ(靫負部)とし、兼ねて甲斐・駿河の二国の守と定めた。
ツヅウタのいわれと理屈
なお、君(ヤマトタケ)が山に行く日は靫負を休みとした。
その際、オオトモタケヒがヤマトタケに申し上げた。
「統君(ヤマトタケ)よ、僕(やつかれ)らにはハナフリ(花降=通貨)を与えたのに、ソロリ(ヨスナ)にタケタ邑を与えたのはなぜですか?」
これにヤマトタケが「歌の殊である」と答えると、オオトモタケヒは「あの歌はアワウタではありませんね。何の歌でしょうか?」と問うた。
これにヤマトタケは次のように答えた。
「ツヅウタは、昔 サユリヒメが19歳の時にタギシミミが慕い恋に落ちてしまったことに因む。その父(タケヒト)がサユリヒメを呼びだした時、姫はこれを悟って、これを除くツヅウタ(連歌)を歌ったのだ。
『天つ地 娶ります君と 何ど割ける 止め』
そのツヅス(十九素)を数え、その中心をツボカナメ(10音目のキ)という。また、この歌は続くカゾエモノ(連ね続けるもの)であり、折り合わせ目に"ツツ"と"ケリ"もある。ゆえに君と我(天と地)とは"続きけり(継続するもの)"を指す。
それを"ヨコカメトル(やっかむ)"ことはサカシマ(背徳)である。よって、"るとめ"に止めて絶ち切れば、忠も操も表わせるのである。ゆえに、これはソコモツス(19音の歌で操を伝える)とモノモツス(19音の歌で忠を伝える)続き歌なのである」
その時、傍にいたナツカハギが「継ぎはございますか?」と問うと、オオトモタケヒが答えて言った。
「八十あって、最初は"起り(起)"、次に"受け(承)"、三は"転た(転)"、四は"合せ"、五は"直言"、六は"連れ"、七は"尽き詰め"、八は"尽き"。表を四つ連ねて忠操を成し、両方に通われば、裏の四連で終わる。
果てれば頭の五つのヲシテへ還し連ねて、その継ぎは"ウチコシ(打越)"、"心"、"転た"、"更り"と元に群がる一連ねとなる。十六(句)を一織、全部で五織、八十を百とすれば織は二十(1織は20句)となる。
ゆえにオリドメ(織止め=各織の第20句)のツズ(連)は"ハタチ"となる。なお、オリハツ(織初)のツズは"アヒカナメ(合要)"という。また、オリヅメ(織詰)のツズは三十九を"ハナ"、三の詰は五十九でツズは"サツメ"となる。さらに、四の詰は七十九でツズは"フツメ"、五の詰は九十九でツズは"ツクモ"となる。
五節の匂いの花はユリ、本歌は君に擬えられ、枝を裔として八十まで続くのである。この深い旨を習い受けるべし」
そこでナツカハギは「八十を百とすれば数はどうなるのでしょうか?」と問うと、オオトモタケヒは「それはカナメ(連歌の本歌)である、百句あれば本歌が20回巡り来るのである」と答えた。
ナツカハギが「ユリヒメが最初ですか?」と問うと、オオトモタケヒは次のように答えた。
「上代にも例があり、御祖神(ウガヤ)のツヅノヲシテがこれに当たる。また、アメミコ(タケヒト)が日向に座している時のヤマト地方の流行り歌にもこうある。
『乗り下せ ホツマ方平む 天下斎船』
(東方を平らげる宣を下せば天地も祝う)
シホツチが君に勧めてヤマト(アスカ政権)は討たれた。これのオリカエ(折返)に"アヒツ(天日西)"とあるゆえ、討ち取ることを好しとする。ユリヒメも19歳で歌も19音、忠と操とを表せば、ツツキウタ(連歌)を詠む法となる。
そして今、遂にホツマ(東国)の政が天(中央政府)に通り、ことごとく治まる時がやってきた。そこで、ウタハクニ(歌は地)、力は値(力業にはハナフリ)を賜った」
このようにオオトモタケヒがまとめると、皆は「君(ヤマトタケ)は神か」と賛美した。
武蔵国と相模国を定める
去年より続いていた陽陰が晴れる(陽陰の調和が成される)と、1月28日に雪が降った。この時、ヤマトタケはソリを用いて進み、やがてサカムノタチ(相模の館)へと到った。その際、野の片隅でヤマトタケの鐙(あぶみ)を拾っていたトラガシハが、その鐙を使って造ったヤマトタケの肖像を奉った。
すると、ヤマトタケはトラガシハを褒めて玉飾りを与え、さらにタマカワアフミ(多摩川青梅)と名付けた村を与えた。また、この地方をミサシクニ(身挿し国 → 武蔵国)とサカムノクニ(相模国)と名付けた。
そして、タチバナモトヒコをクニツカミ(国つ守)に任じて統治を命じた。
連り天引きの祭(遺品を以って墓と成す)
ヤマトタケが相模館に居る時、サクラネマシとホツミテシの両臣はオトタチバナヒメの訃報を聞いた。そして、姫の形見の櫛と帯が届けられると、嘆いて姫のためにツカリアビキノマツリ(連り天引の祭=形見を当人として鎮魂する祭)を催行した。
この祭はソサノヲに殺されたハヤオロチが、後にヤスカタカミとして祀られたことに倣っている。なお、ハヤスフヒメもアシナツチの七姫も同様の例によって祀られた。そのため、遺骸の代わりに形見を納めて塚(墓)と成す。
オトタチバナヒメにおいては、塚の名も"アヅマモリ(吾妻守)"とし、大磯(神奈川県大磯町)に社を建てて神祭をした。
氷川神社の創祀
ヤマトタケは、川間の野(汚穢の野)にオホミヤ(大宮の氷川神社)を建てた。そして、これを「我がサキミタマ(先祖霊)」と知らしめて「ヒカワカミ(ソサノヲ)」を祀った。なお、戦に用いたイクサウツワ(兵器)は秩父山に納めた。
※大宮の氷川神社の創始と思われる
国中にマツロウシルシを捧げさせる
2月8日、国中でマツロウシルシ(服従の証)であるカグカゴ(橘籠)を屋棟に捧げさせ、"コトヲサメ(改革の終了)"とした。そして、これはホツマ(東国)の代々の慣習になった。
木曽路の白鹿
その後、ヤマトタケは碓氷の坂(碓氷峠)に到った。この時、別れたオトタチバナヒメを思って、東南を望んで思いやり、形見の歌見(姫の歌)を取り出して見た。
『真々し 相模の小野に 燃ゆる日の 火中に立ちて 問ひし君はも』
これを三度読むと「吾妻あわや(嗚呼妻よ)」と嘆き悲しんだ。これは吾妻(群馬県吾妻郡)という地名の基になった。
一方、キビタケヒコはオヒワケ(追分)から越路を進み、クニサカシラ(国の盛衰)を見て回った。また、オオトモタケヒは先に相模より蝦夷の土産を持ち帰り、これを帝(景行天皇)に捧げて服従させたことを報告した。
ヤマトタケは一人で御幸し、信濃・木曽路に到ると、そこは山高く、谷が微かに見えるような場所であった。その道を進むと、懸橋を幾度も伝って行くような難所であり、とうとう馬も進まなくなった。そのため、雲を分けるように歩いて進むと、飢えや疲れに参ってしまった。
その時、目の前にシラカ(白鹿)が現れて、息を吐いて苦しめた。ヤマトタケは咄嗟に一本の蒜(ヒル)を弾き、これでシラカの目を撃って殺した。すると、雲が覆い始めて道を絶ったので、ヒミツノハラヒ(火水の祓い)を三度宣り、シナトノカゼを呼んで吹き払った。
その後、神のシライヌ(白狗)が現れてヤマトタケを導いたので、美濃に出ることが出来た。その際、越より帰ってきたキビタケヒコと合流した。なお、以前より「木曽路にて衰え臥す者は、祓いを以って免れよ」との伝承が広まっており、それによれば「鹿の道を通る時は蒜を噛み、それを塗ってから渡れ。また、邪息には当たってはならない」と語られていたのであった。
注釈
登場人物
・ヲシロワケ:『記紀』の大足彦忍代別天皇に比定。垂仁天皇とヒハス姫の子。十二代景行天皇
・ヲウス:『記紀』の大碓皇子に比定。景行天皇とイナヒヲイラツヒメの双子の兄
・オウス(コウス):『記紀』の小碓尊に比定。景行天皇とイナヒヲイラツヒメの双子の弟
・ヤマトタケ:『記紀』の日本武尊に比定。オウスが熊襲の首領のトリイシカヤから授けられた名
・ヤマトヒメ:『記紀』の倭姫命に比定。垂仁天皇とカバヰツキ姫の子。アマテル神の斎宮となる
・タケウチ:『記紀』の武内宿禰に比定。ウマシウチとヤマトカゲ姫の子。孝元天皇の曾孫
・タジマモリ:『記紀』の田道間守に比定。キヨヒコの子。ヒボコの子孫
・タチバナモトヒコ:東国のタチバナノキミ。オオヤマズミのマウラ(橘の君)の後裔と考えられる
・オトタチバナヒメ:『記紀』の弟橘媛に比定。タジマモリとハナタチバナ姫の娘
・ホツミテシ:タチバナモトヒコの臣
・サクラネマシ:タチバナモトヒコの臣
・キビタケヒコ:『記紀』の吉備武彦に比定。おそらくキビツヒコの子
・オオトモタケヒ:『日本書紀』の大伴武日に比定。垂仁朝からの重臣
・カトリトキヒコ:カトリ宮の主
・カシマヒデヒコ:カシマ宮の主
・イキスオトヒコ:イキス宮の主
・ヒタカミミチノク:タカキネ(タカギ)の七代孫。十四代タカミムスビ。ヒタカミ国主
・シマツミチヒコ:ツガル国の国主
・タカミムスビ:『記紀』の高御産巣日神に比定。『ヒタカミ国を統べる者』という役職名を指す
・アマテル:『記紀』の天照大神に比定。八代君主の男尊。現在は神霊
・オシホミミ:『記紀』の天忍穂耳尊に比定。アマテルの日嗣の御子
・チチヒメ:『記紀』の栲幡千千姫命に比定。タカキネ(タカギ)の娘。オシホミミの内宮
・テルヒコ:『記紀』の天火明命に比定。オシホミミの長男。アマテルの孫
・ニニキネ:『記紀』の瓊瓊杵尊に比定。アマテルの孫。現在は神霊
・タケヒト:『記紀』の神日本磐余彦に比定。初代神武天皇
・ニギハヤヒ:『記紀』の饒速日命に比定。ホノアカリの長男。テルヒコの後任となる
・タケミカツチ:『記紀』の武甕槌神に比定。天の武官だった
・タカクラシタ:『記紀』の高倉下、『旧事紀』の天香語山命に比定。タクリ(カゴヤマ)の子
・ミカサカシマ:『記紀』の国摩大鹿島命に比定。アメノコヤネの後裔
・タギシミミ:『記紀』の手研耳命に比定。タケヒトとアヒラヒメの御子
・サユリヒメ:クメの娘。イワレヒコの乙下侍だったが、タカクラシタの妻となる
・ナツカハギ:『記紀』の七掬脛に比定。ヤマトタケの東征の際の膳出。久米直の祖
・トラガシハ:ヤマトタケの鐙の片方を野で拾った人物。多摩川青梅を賜る(虎柏神社がある)
・ソサノヲ:『記紀』の素戔嗚尊に比定。アマテルの弟
・ハヤオロチ:『記紀』の八岐大蛇に比定。ハヤコが化成した大蛇の化物
・ハヤスフヒメ:アカツチの娘。ソサノヲとの因縁からヤマタノオロチの犠牲となる
・アシナツチ:『記紀』の脚摩乳に比定。ソサノヲの妻・イナタヒメの父
関連社
・吾妻神社:ホツマにおける「オトタチバナヒメの社」に比定
・創建年:不明
・主祭神:弟橘樹媛命
・所在地:神奈川県中郡二宮町山西1117
・氷川神社:ホツマにおける「オホミヤ」に比定
・創建年:伝・孝昭天皇3年
・主祭神:須佐之男命、奇稲田姫命、大己貴命
・所在地:埼玉県さいたま市大宮区高鼻町一丁目407番地
・虎柏神社:ホツマにおける「トラガシハ」にまつわる社に比定
・創建年:不明
・主祭神:大歳御祖神、惶根神
・所在地:東京都青梅市根ヶ布1-316
※ホツマツタヱの記述との対応関係に基づく解釈
関連知識
ムラクモノツルギについて
ホツマにおけるムラクモノツルギは、『記紀』における天叢雲剣とは異なった存在となっています。
『記紀』における天叢雲剣は、スサノオがヤマタノオロチを退治した際に尾から出てきた剣であり、それがアマテラスに献上されたことで三種の神器の一つに据えられました。その後、ヤマトタケルの東征で用いられることになり、『古事記』においては駿河での敵の火攻めの際に草を薙ぎ払うのに使用したことから、草薙剣と呼ばれるようになったとされています。
ホツマにおけるムラクモノツルギは文中に4回登場しており、以下のような場面で登場しています。
1. ソサノヲがヤマタノオロチを斬った剣がハハムラクモノツルギと名付けられた(9文)
2. アマテルからクシタマホノアカリに授けた十種の宝の中の一つ(20文)
3. 四代目オオモノヌシのフキネが死の間際にクシミカタマに渡した(27文)
4. ヤマトタケが東征に向かう折に、ヤマトヒメから渡された(39文)
この内、1,3,4がヤマトタケに渡ったムラクモノツルギであると解釈されています(※2は別系統)。なお、ホツマで三種の宝として定められている剣はヤヱガキノツルギであり、これはアマメヒトツがアマテルに献上した剣であるため、『記紀』における三種の神器の剣とは全く別物とされています。
また、ホツマ39文ではヤマトタケが川間の野に到った際に「我がサキミタマ(過去世の霊)」と述べてヒカワカミ(ソサノヲ)を祀ったと記されることから、ヤマトタケはソサノヲの生まれ変わりであることを自覚し、ソサノヲを祀ったと読むことが出来ます。そのため、ムラクモノツルギは長い年月を経て、元の持ち主の手に戻ったというわけです。なお、クサナギの由来は駿河で敵の火攻めを防いで勝利したことから名付けられたとされています。
記紀の東征とホツマの記述について
ヤマトタケルの東征は、古代日本の統治拡大を語るうえで重要な位置を占めていますが、『日本書紀』と『古事記』ではその描写が大きく異なっています。特に、東征の動機、ヤマトタケルの人物像、東国諸勢力との関係性において、両書は対照的な物語構造を持っています。
『古事記』では、東征は景行天皇とヤマトタケルの父子関係の断絶を背景とした「悲劇の旅路」として描かれます。兄・ヲウスを惨殺した事件によって景行天皇はヤマトタケルを恐れ、九州から帰還した直後に休む間もなく東国の荒ぶる者を討つよう命じます。伊勢で叔母ヤマトヒメに「父は私に死ねと言っている」と泣き崩れる場面は象徴的で、東征は父に拒絶された孤独な少年が死地へ向かう物語として始まります。駿河では敵の火攻めに遭い、草薙剣で草を刈り、火打石で向かい火を放って逆転するという危機が描かれ、走水では妻オトタチバナヒメが身代わりとなって海に入水する悲劇が続きます。さらに、足柄山や碓氷峠で亡き妻を想って「あづまはや」と嘆き、伊吹山では傲慢を戒める神の祟りによって命を落とすという、感情と悲劇性を軸とした英雄譚となっています。
『日本書紀』では、東征は大和朝廷の国家事業としての「正史的軍事遠征」として描かれます。景行天皇はヤマトタケルの智勇を高く評価し、東国平定の総大将に任じます。兄・ヲウスの逃亡と美濃への封じ込めは書紀にも描かれますが、東征の中心はあくまでヤマトタケルの軍事指揮と統治の正統性に置かれています。駿河では敵の欺きによって包囲されるものの、自ら火を放って退路を開くという知略が強調され、東国の蝦夷はヤマトタケルの威勢を恐れて戦わずに降伏する場面が続きます。走水でのオトタチバナヒメの入水は描かれますが、国家のために身を捧げる殉愛として語られ、物語全体は「国家に殉じた将軍の遠征記」というトーンで統一されています。
つまり、『記紀』の段階で既に「東征の動機」と「ヤマトタケル像の性格付け」に極端な違いが存在しているわけです。
ホツマツタヱ39文は、この二つのうち『日本書紀』に近い構造を持ちながらも、独自の思想的体系を付与しています。東国の騒乱を受けて朝廷で議論が行われ、ヤマトタケが兄ヲウスを推挙するという政治的やり取りが描かれ、ヲウスの逃亡と美濃封じも語られます。
伊勢参拝では、ヤマトヒメから錦袋とムラクモツルギを授かり、その意味が「火水の祓い」として体系的に説明されます。駿河の戦いでは、敵の欺きによる野焼きに対し、ヤマトタケが火水の祓い(呪術)と向かい火を用いて逆転し、これが「クサナギ(草薙)」の名の由来として語られています。
また、ヒタカミとの関係が良好だったアマテル時代の歴史が踏襲されており、東国側にタチバナモトヒコという同盟者が存在していることが記されています。反目する勢力との争いにおいては、完全に武力闘争で決着をつけようとするのではなく、互いに話し合いで認識のズレを修正し、最終的に和解をするという、まさに『記紀』でいう「言向け和す(反乱勢力を説得して服属させる)」を体現した流れで収まっています。
また、登場人物の系譜なども『古事記』『日本書紀』『旧事紀』を包括するような内容となっているため、矛盾点が少ないことも特徴的です。さらに、連歌(ツヅウタ)の理法や、武蔵・相模の国造り、氷川神社の創祀、オトタチバナヒメの鎮魂祭など、東征と祭祀・統治が密接に結びついて描かれる点は、ホツマ独自の特徴だと言えます。
ここからは私見になりますが、六国史の最初である『日本書紀』を読んでみると、編纂過程で複数の古伝・地方史料を取捨選択した形跡が見られます。また、『日本書紀』が成立した奈良時代には、東日本の多くが蝦夷勢力の影響下にあり、大和政権とは緊張関係にありました。こうした状況を踏まえると、対外向けの国家的歴史書としての体裁を整えるために"東国と大和政権を結びつける伝承"が意図的に省かれた可能性があるのではないかと考えています。
この見方は個人的な推測にとどまるものの、記紀編纂の政治性を指摘する研究者の中には、同様に「東国の伝承が正史から十分に取り上げられなかった可能性」を論じる立場も存在します。定説とは意見が異なりますが、一つの見解として紹介しておきます。
『日本書紀』との主な違い(AI分析)
東征決定の経緯
ホツマでは、東国の騒乱を受けて諏訪のオオトモタケヒが巡幸を乞い、朝廷で議論が行われる中、ヤマトタケが兄ヲウスを推挙するという兄弟間の政治的やり取りが描かれる。その後、ヲウスが恐れて逃亡し、美濃に封じられるという展開が続く。一方、『日本書紀』でもヲウスの逃亡と美濃への封じ込めは明確に描かれるが、兄を推挙するという兄弟間の直接的な会話は存在せず、東征決定は天皇の判断を中心に進む。
蝦夷(えみし)の性質と統治理念の説明
ホツマでは、景行天皇が蝦夷の乱れを「陰陽の混乱」「シムミチ(神道)の欠如」「ケシシ(穢肉)を食す生活」など、宇宙観・統治理念に基づいて体系的に説明する。一方、『日本書紀』でも蝦夷の生活様式(穴居、毛衣、血を飲む、鳥獣のような動き)は詳細に描かれるが、それを陰陽論や神道の欠如といった思想体系に結びつけて説明することはなく、文化描写に留まる。
伊勢参拝と授与品の扱い
ホツマでは、ヤマトタケが伊勢に詣で、ヤマトヒメから錦袋とムラクモツルギを授かり、その由来や祓いの意味が丁寧に説明される。一方、『日本書紀』では東征の途上で伊勢参拝は描かれず、草薙剣を誰から授かったかの描写も存在しない。出発時に天皇から授かるのは八握矛であり、伊勢での授与儀礼はホツマ独自の構成である。
東国諸勢力との交渉と服属の過程
ホツマでは、タチバナモトヒコやヒタカミミチノクとの交渉が詳細に描かれ、国造・県主の服属が言葉の説得と統治理念の提示によって進む。ヒタカミ側の系譜や建国神話まで語られ、双方の正統性が議論される。一方、『日本書紀』では蝦夷の服属は軍勢の威圧による降伏として描かれ、交渉の思想的背景や国造層の系譜説明はほとんど語られない。
駿河の戦いとクサナギの名の由来
ホツマでは、蝦夷の欺きによる野焼きに対し、ヤマトタケが火水の祓いと向かい火を用いて逆転し、その戦いが「クサナギ(草薙)」の名の由来として語られる。一方、『日本書紀』では敵が火を放つ描写はなく、鹿狩りに誘い出して包囲する罠が中心で、ヤマトタケル自身が草を焼いて退路を開く展開となる。火攻めの危機と祓いの呪術を結びつける構造はホツマ独自である。
ツヅウタ(連歌)の由来と歌の理法
ホツマでは、ヤマトタケが連歌(ツヅウタ)を詠み、オオトモタケヒが十九音の構造、忠と操を表す歌の理法、八十句の体系などを詳しく説明し、歌が国を治める力として扱われる。一方、『日本書紀』では東征における歌の理論的説明は存在せず、連歌の思想体系は見られない。
国造りと祭祀の扱い
ホツマでは、武蔵・相模の国造り、氷川神社の創祀、オトタチバナヒメの鎮魂祭(連り天引きの祭)など、東征と祭祀が密接に結びついて描かれる。一方、『日本書紀』では東征と祭祀の体系的連動は描かれず、神社創祀や鎮魂儀礼の思想的説明は見られない。
『古事記』との主な違い(AI分析)
東征決定の背景と兄の扱い
ホツマでは、東国の騒乱を受けて朝廷で議論が行われ、ヤマトタケが兄ヲウスを推挙するという兄弟間の政治的やり取りが描かれる。その後、ヲウスが恐れて逃亡し、美濃に封じられるという展開が続く。一方、『古事記』では兄ヲウスは物語冒頭でヤマトタケに惨殺されており、東征時にはすでに生存していない。そのため、ホツマのような「生きている兄を東征候補として推挙する」という政治的構図は成立せず、東征は父への恐怖と絶望から始まる個人的物語として描かれる。
伊勢参拝と授与品の意味づけ
ホツマでは、ヤマトタケが伊勢に詣で、ヤマトヒメから錦袋とムラクモツルギを授かり、その由来や「火水の祓い」の意味が体系的に説明される。一方、『古事記』でも伊勢で草薙剣と袋を授かるが、授与品の思想的背景や祓いの体系は語られず、物語的な助力として扱われる。ホツマは同じモチーフをより儀礼的・思想的に再構成している。
火攻めとクサナギの名の由来
ホツマでは、蝦夷の欺きによる野焼きに対し、ヤマトタケが火水の祓いと向かい火を用いて逆転し、その戦いが「クサナギ(草薙)」の名の由来として語られる。一方、『古事記』でも草を刈り、叔母の袋から取り出した火打石で向かい火を放って敵を焼き滅ぼす展開は共通しているが、ホツマのように祓いの儀式として体系化されず、危機を脱する機転として描かれる。剣名の由来もホツマほど思想的には扱われない。
東国諸勢力との交渉と服属の描写
ホツマでは、タチバナモトヒコやヒタカミミチノクとの交渉が詳細に描かれ、国造・県主の服属が言葉の説得と統治理念の提示によって進む。ヒタカミ側の系譜や建国神話まで語られ、双方の正統性が議論される。一方、『古事記』では東国平定は比較的簡潔で、諸勢力との交渉や系譜説明はほとんど描かれず、物語の焦点はヤマトタケの個人的苦難に置かれる。
オトタチバナヒメの扱いと鎮魂
ホツマでは、オトタチバナヒメの死後、形見をもって塚とする「連り天引きの祭」が行われ、鎮魂儀礼が体系的に説明される。一方、『古事記』では走水での入水が悲劇として描かれるのみで、死後の祭祀や鎮魂の思想的背景は語られない。
歌(ツヅウタ)の理法と統治思想
ホツマでは、ヤマトタケが連歌(ツヅウタ)を詠み、オオトモタケヒが十九音の構造、忠と操を表す歌の理法、八十句の体系などを詳しく説明し、歌が国を治める力として扱われる。一方、『古事記』では歌はヤマトタケの感情表現(嘆き・望郷)として描かれ、歌の理論的説明や統治思想への接続は存在しない。
国造りと神社創祀の描写
ホツマでは、武蔵・相模の国造り、氷川神社の創祀、国中にマツロウシルシを掲げる改革など、東征と祭祀・国造りが密接に結びついて描かれる。一方、『古事記』では東征と神社創祀の体系的連動は描かれず、国造りの詳細も語られない。
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