【意訳版現代語訳】地の巻 ホツマツタヱ25文 ヒコ尊 ちを得るの文
ホツマツタヱ25文の現代語訳を「読みやすさ」と「まとまり」を重視して意訳しました。
詳細な逐語訳や原文を確認したい方は、冒頭のリンクから個別ページを参照してください。
ホツマツタヱ25文のあらすじ
ニニキネの晩年と、皇統の継承・国政の整理・御子たちの配置がまとめられた文(あや)です。
1. ニニキネの老境と国政の整理
長年にわたり八州を巡幸し、治水・開拓・祭祀を整えてきたニニキネは、老境に入りつつも国の安定を第一とし、諸国の政務を再点検する。各地の宮や守の配置を見直し、後継のための基盤を固める姿が描かれる。
2. 三御子の役割と宮の再配置
ニニキネは三御子(ホノアカリ・ホノススミ・ヒコホオテミ)にそれぞれの宮を与え、役割を明確にする。ホノアカリはハラアサマ宮を守り、コヤネ・コモリが政務を補佐する。ホノススミはニハリからスセリ宮へ遷る。ヒコホオテミはウツ宮からオオツシノ宮へ遷る。三御子の宮遷りは、後の「海幸山幸」物語の前提となる配置として描かれる。
3. ニニキネの巡幸と西国・筑紫の開拓
ニニキネは自ら西国(山陽・山陰)を巡り、井堰や堤を築いて新田を開く。安芸のハゲ山の再生や、山陰の高田開拓など、国土造成の具体的な事績が語られる。さらに筑紫の乱れを鎮めるため、ヒコホオテミをツクシヲキミに任じ、自らも巡幸して九州の治水・農政を整える。
4. 海幸山幸の争いと和解
敦賀に居たホノススミ(海幸)とヒコホオテミ(山幸)は、互いの「サチ(漁具・狩具)」を交換したことから争いを生じる。釣針紛失の一件をきっかけに対立が深まるが、ヤマサチヒコはシホツツの助けを得て釣針を取り戻し、最終的に兄弟は和解する。この過程で「ミチヒノタマ」などの神宝の働きが示される。
5. ヤマサチヒコの婚姻と筑紫の繁栄
ヤマサチヒコはソヲ国のハテツミの娘・トヨタマヒメを后に迎え、筑紫三十二県の守を従えて国政を整える。春祝(御田植祭)や門松の起源など、農耕儀礼の成立が語られ、筑紫の国が豊かに発展していく。
6. 肥国・阿蘇の開拓と晩年の巡幸
ヤマサチヒコは肥国(熊本)や阿蘇を開拓し、土壌改良によって国を豊かにする。さらに糟屋(シガノカミ)を肥やすなど、九州全域の造成を進める。長い治世ののち、子が授からぬことを憂い、ウド(鵜戸)へ移って静養する姿が描かれる。
意訳文
ニニキネの遷宮
32鈴900枝23穂4月の初めのこと。
ワケイカツチノアマキミ(ニニキネ)には深い思いがあり、オオシマを召してアワウミ(近江)にミツホ宮を造らせた。宮が完成すると、フトマニで吉日を選んで遷宮することを決めた。
以前、父・オシホミミが果ててハコネ(箱根)の洞に入る前、母のチチヒメに「イセに居るアマテルに朝夕仕えて奉ること」という遺言があった。それにより、チチヒメはアマテルに仕えて10万年を経た頃に、ニニキネは久しぶりにハコネを参詣して幣を捧げた。
また、イセに御幸した際にアマテルとチチヒメを拝み、その後にアワのミツホ国へと遷宮したのである。
ニニキネの御子のそれぞれ
長男のムメヒト(ホノアカリ)はハラアサマ宮に留まった。ここではコヤネが代わって国政を執り、コモリはニニキネの御伴であったために、ミゾクイを副モノヌシとしてハラを守らせた。
二男のサクラギ(ホノススミ)はニハリに居たが、仮屋の跡地にスセリ宮を新造し、完成するとそこへ移った。これをウカワ宮とも呼ぶ。
三男のウツキネ(ヒコホオテミ)はフタアレ(宇都宮)の裾野にあるウツ宮に居たが、新造されたオオツシノ宮を与えられて遷宮した。この遷宮の際、斎名である「ウツキネ」が「卯の木」に因むものであったため、父にウカワ(卯の木の郷)を請うたが許されなかった。
そのためウツキネは常に狩りをして楽しむようになったため「ヤマサチヒコ(弓矢を駆使する者)」と呼ばれるようになり、スセリは釣りに興じていたことから「サチヒコ(釣針を駆使する者)」とも呼ばれるようになった。
ニニキネによる西中国の開拓
ニニキネは自ら巡幸し、ニシナカクニ(本州西部)のヤマオモテ(山陽地方)に井堰や堤を築いて新田を成した。西に到ってハゲ山の有無を尋ねると、その地の長が「それはアキ(安芸)です」と答えて、次のように事情を説明した。
「安芸と聞けば木々が茂るような名に聞こえますが、実際には木はありません。それには理由があり、以前ここに棲んでいたオロチが国守の姫を飲み込んで行ったので、オロチを追い出そうと山の木々を焼いてしまったのです。すると、オロチはヒカワに逃げ、そこで斬られたと聞いております。ですので、山は今もハゲ山のままであり、きこりたちは斬るべき木が無いため、暇に飽きていると嘆いおります」
これを聞いたニニキネは笑って「まあ、嘆くでない」と言い、アカツチ守にこのことを教えた。すると、アカツチが檜(ひのき)や杉の種を植えていったので
、十年経過した頃には峰中に木々が茂り、田水も絶えることが無くなって国は豊かになった。
また、ニニキネはヤマカケ(山陰)も巡幸して所々に井堰を築き、高田を開拓して帰った。すると、豊かな年が続いて三万年が過ぎた。
ニニキネによる九州開拓
ある時、筑紫が治まらなくなったため「ミコノミクダリ」を請うているという報告があった。「ミコノミクダリ」とは、すなわち天君(今はニニキネ)の御子が地方を治めるために地方に下ることの要請である。
これを聞いたニニキネは、シノ宮のホオテミを「ツクシヲキミ(筑紫を統べる君)」とする詔を発した。その後、ホオテミはハラアサマ宮にて休暇を請おうと、ホノアカリと共にミツホに居る天君(ニニキネ)の元に向かった。
そのとき、ニニキネはこのように詔した。
「筑紫は食糧が足りないようだから、巡幸して田を増やさねばならぬ。ゆえに、ムメヒト(ホノアカリ)を『ミツホのヲキミ(ニニキネの代行)』とする。コヤネとコモリは諸共に政を聞くべし(すなわち御子に代わって執政するべし)。また、ホオテミとホノススミはキタノツ(敦賀)に行って治めよ。此処に居る時は皆と馴染むように」
この後、ニニキネは西宮よりカメ(船)に乗ってツクシウマシノウト(九州の南端の端)に向かった。到着すると、筑紫をあまねく恵み巡って井堰と堤を造り、新田を成していった。
さらに後に筑紫に法が定まると、スミヨシ(カナサキ)の孫であるホタカミやシガノカミが筑紫への御幸を請うた。これに伴い、ソヲ(今の宮崎県と鹿児島県を合わせた地域)の国守のハテツミもカゴ(鹿児島)への御幸を請うた。
ニニキネは筑紫にて日々夜が更けるまで身を尽くし、三ヵ年の計画はほぼ完成した。これにより、筑紫の開拓を終えて無事に統治するに至ったのである。よって、ニニキネはシワカミのホツマの宮(ハラアサマ宮)に帰ることになった。
海幸山幸
兄弟(ホノススミ・ヒコホオテミ)の宮はキタツ(敦賀)にあった。
そこで、ウミサチヒコ(ホノススミ)が「互いの『サチ(獲物を捕らえるための道具)』を交換してみようではないか」と提案すると、ヤマサチヒコ(ヒコホオテミ)も頷き、サチの交換が成立した。兄のウミサチヒコは早速弓矢を取って山へ狩りに出かけ、弟のヤマサチヒコは海に向かって釣りをした。しかし、互いに成果は無く、サチを交換した甲斐は無かった。
そのため、ウミサチヒコは弓矢を返して釣針の返還を求めたが、ヤマサチヒコは釣針を獲物に取られて失くしてしまったため、新しい針を調達して返した。しかし、ウミサチヒコは怒ってこれを受け取らなかった。そこで、ヤマサチヒコは太刀を潰して針に造り、釣針を沢山盛って渡すと、ウミサチヒコはさらに怒って「多ければ良いというものではなく、元の針が必要なのだ!」とこだわって譲らなかった。
これにヤマサチヒコは落ち込み、浜にうなだれて憂いていると、雁(かり)が罠に捕らえられる姿を見かけた。ヤマサチヒコは、この雁に自分の姿を重ねて哀れに思い、その罠を解いてやると、それを見ていたシホツツの老翁が落ち込むわけを聞いてきた。ヤマサチヒコがシホツツにありのままを伝えると、シホツツは「君の憂いを晴らす方法を考えねば」と言って、その方法を考えることにした。
その後、シホツツは考えた方法を実践しようと、メナシカタアミ(目無し交網)をカモ(船)に入れ、その網に歌札を付けてヤマサチヒコを乗せた。そして、帆を上げてトモツナ(艫綱)を解き、カモを走らせてツクシウマシの浜(鵜戸)に向かった。
到着すると、船と網を置いて先に進んだ。すると、夕暮れ時にソヲのハテカミの瑞垣や、輝くウテナ(大殿)が見えてきたので、ヤマサチヒコはハヱバやユツリハの生い茂る野原で、日々寝そべりながら作戦の時を待っていた。
その時、海女(あま)の連中が年が明けて群れ出る頃だった。若姫が椀(わん)に若水(年明けの水)を汲もうと釣瓶(つるべ)を上げたところ、そこに影が映ったことに驚き、若姫は帰って父に「ソラツカミ(世間離れした高位者)かマレヒト(貴人)を見ました」と告げた。話を聞いた父が現場へ行くと、ミハモ(御衣装)を纏った貴人(ヤマサチヒコ)が目に入ったため、屋敷に八重の畳を敷いて中に招くことにした。
そこで、当地に来た動機を問われたヤマサチヒコは「失くした釣針を探していること」を語った。それを聞いた父はハテ守(曽於の国守)に尋ねると、ウド守(海岸の守人)がやって来て次のように言った。
「交網の乗った誰かのカモ(船)がやって来た元旦の朝のことですが、カモに添えられた札を見てみると和歌が記されていました。それには『シホツツが 目無し交網を 張るべらや ミチヒノタマは ハテの神風』と書いてありました」
これを聞いたハテ守は、諸々の海女(あま)を呼び集めて釣針を探す方法を問うた。これにヒキメは「アラコアミ(目の粗い網)で引いて見つけましょう」と答え、クチメは「釣りをして見つけましょう」と答え、アカメは「目無し網で探すのが良いでしょう」と答えた。
各々の意見を聞いたハテ守は、アカメを筆頭に諸々の海女を添えて釣針を探させた。海女たちは目無し網を四方に張り巡らせると、大きな鯛(タイ)が現れてクチ(イシモチと思われる)を噛み裂きながら近くまで寄って来た。アカメが大鯛の口を見ると、その中に探しているの釣針を見つけたので、鯛を生簀(いけす)に入れて「そこで待つべし」と告げた。
なお、これ以前にハテ守の夢にも鯛が現れており、その際に鯛が「私は魚であるがゆえに釣針を奪ったクチを捧げます。また、私のことは食物としてください」と申し出ていたという。その後、無事に元の釣針を見つけ出したヤマサチヒコは、皆に向けて次のような詔を発した。
「鯛は『魚の君』である。よって『魚の中でも尊いもの』とする。また、鯛の鱗には三つの山がある。この『ミツウロコ』を鯛の印とせよ。『三つ山の鯛』とはこれである。また、鉤を奪ったクチは忌むことにする」
さらにヤマサチヒコは釣針を見つけたアカメを褒め称えて「ヨドヒメ」の名を与えた。
その後、ヤマサチヒコはシガノカミ(志賀を治める国守)を召して元の釣針をウミサチヒコに返すよう命じた。そこでシガノカミは早速ワニ(船)に乗って向かい、道中のシノ宮でヤマクイを乗せて、共にウカワ宮に到った。
ウカワ宮にてウミサチヒコが事の次第を問うと、これにヤマクイが次のように答えた。
「これは昔、弟君(ヤマサチヒコ)が借りたまま失くしてしまった釣針であります。今になってようやく見つけたため、弟宮からシガノカミを通じて返却に参ったのです」
そのように説明してシガノカミが釣針を奉ると、ウミサチヒコはそれを手に取って「私の釣針である」と言いながらも「いや待てよ」と疑念を抱き始めた。そして段々と怒りはじめて「道理なく私を呪うのは何故だ!返したくば弟が自ら来るはずであろう!」と言い放った。
これに対し、ヤマクイは毅然と答えた。
「いえ、それは違います。もし逆の立場であれば、弟君の弓の朽ちた糸に代わる新しい糸を渡すはずでしょう?ここで弟君の功績を認めれば一件落着となりますが、もし認めぬのであれば『兄君を釣針のように這わせて詫び言を言わせよ』と言付かっております」
これを聞いたウミサチヒコは激昂し、船を漕ぎ出してヤマサチヒコの元に向かった。そこでシガノカミは『ミチヒノタマ』を投げてアワ海(琵琶湖)を乾かし、ウミサチヒコを追って船に乗り込んだ。ウミサチヒコが船を飛び降りるとヤマクイも追い、その手を引いた。
そこにシガノカミが水を封じた珠を投げ込むと、珠に封じられていた水が一気に溢れ出したのである。水に沈みかけたウミサチヒコは「汝らは我を助けよ。そうすれば私は末永く弟の駒となり、糧を捧げよう」と命乞いをした。そこで二人はウミサチヒコを許して船を渡し、諸共にウカワ宮に帰って仲直りをしたのであった。
ヤマサチヒコの結婚
ソヲの国守のハテツミが、弟君(ヤマサチヒコ)に自らの子の紹介した。それはトヨツミヒコ、トヨタマヒメ、タケツミヒコ、オトタマヒメの四人であり、皆してヤマサチヒコを拝んだ。
また、弟君は筑紫の三十二県の守を集めて「私は妻を迎えたいと思うが、皆はどう思うか?」と尋ねると、ホタカミが次のように答えた。
「以前、御子下りを請うた時、弟君の名もツクシヲキミとなりました。すなわち、弟君は筑紫のアマツカミ(中央政府の総帥)であります。昔、母君(コノハナサクヤヒメ)は天君(ニニキネ)と一夜契り、一悶着あった後に内宮に召されました。ゆえに、まずは計画を立てることが賢明でしょう」
この進言により、一行はカゴシマ宮へ遷ることになった。
その後、トヨタマヒメを御后とし、他にもスケ・ウチ・シモメを二人ずつ娶り、六局を成した。このように后が調うと、その翌3日後にトヨツミヒコが玉笠を揃え、玉椀を六人に持たせて水を捧げた。そして、皆に声を揃えて次のように歌わせた。
『モモヒナキ 交ぐ合い後の 三日の日の 川水浴びて ウチヒニの 上から下へ 花婿に水 参らせふ 参らせふ』
(モモヒナキは性交の後 三日以内に川水を浴びウチヒニとなった、なれば花婿の上から下に水を捧げましょう)
このように三十二県の守らも歌い、この場を存分に楽しんだ。
この後、かつてのニニキネの巡幸によって築かれた井堰を用い、皆が実心を込めて新田を成した。また、弟君は筑紫の三十二県を巡り、カゴシマ宮に座した。
春祝と門松の起源
その後、年を追うごとに田の実りは増え、国は豊かになった。なお、この年の田植えは少雨であったが、それでも実りは豊かであった。そのため、この実りをウサの県にも流行らせて、五月十五日の梅雨の頃に春祝(御田植祭)を行った。
春祝ではモチヰ(餅飯)を用意してハヱを敷き、ウケカミ(活かしの神霊)に祝のホツマアソビ(田遊)を神に捧げた。このホツマアソビとは、穂長とユツリ葉を用いた稲の育成の真似事をするミツホウタ(実りを祝う歌)である。
この春祝は楽しく賑わい、トヨノクニ(豊前と豊後=大分県)の三十二県の間で流行した。これが、門松やハヱ葉、ユツリ葉を敷き飾る起源となったのである。
ヤマサチヒコによる九州開拓
トヨノクニ(豊前と豊後=大分県)が賑わって六万年が過ぎたが、アソ国(熊本県)は土地が肥えなかった。そこで弟君(ヤマサチヒコ)はアソ宮を造らせて、そちらに遷った。アソでは土壌を改良しようと考え、数々の峰の土や魚を入れて田を肥やしたため、そこを陽炎の火(カゲロフノヒ)のコエクニ(肥国)と改称した。
肥国のタケイワタツはこの成果に仰天し、娘のアソヒメを弟君に献上した。弟君はアソヒメを召し上げてウチ后とし、ここで六万年を過ごした。しかし、シガノカミの県はまだ満ち足りていなかったため、弟君はツクシ宮へと遷った。ここでも土壌を良くしようと考えて、土に油粕を入れ、糟屋(シガノカミ)の土地を豊かにした。
すると、他の三十県も弟君の巡幸を請うたため、各地を巡って土地を満たし、ツクシ宮に帰った。これにより土地は豊かに肥え、民も安定した日々を送れるようになった。
弟君が筑紫に座して六万年、合わせて三鈴(18万年)の間、休むことなく民を治めたが、それゆえに御子が授からなかった。そのため、ツクシ宮を棄てて、ウド(鵜戸)へと向かった。
ウドに滞在している際、ハテ守(ハテツミ)が鹿児島に招いたが弟君は応じず、この返答はトヨタマヒメから父のハテ守に告げられた。すると、ハテ守はウドにて「君(ヤマサチヒコ)は決して楽しんでいるわけではないのだろう。それゆえ局の誰もが子を産まないのだ。ゆえに局を捨て置き、トヨタマヒメ一人を連れてしばらくここに留まっているのである。これはツクシの民を思っての計画に違いない」と告げたという。
注釈
登場人物
・アマテル:『記紀』の天照大神に比定。八代君主の男尊。創造神アメミヲヤの顕現
・ニニキネ:『記紀』の瓊瓊杵尊に比定。オシホミミの二男。アマテルの孫
・オシホミミ:『記紀』の天忍穂耳尊に比定。九代君主の男尊。アマテルの日嗣の御子
・チチヒメ:『記紀』の栲幡千千姫命に比定。タカキネ(タカギ)の娘で、オシホミミの内宮
・ホノアカリ:『日本書紀』の火明命に比定。ニニキネとアシツ姫の長男。斎名はムメヒト
・ホノススミ:『古事記』の火須勢理命に比定。ニニキネとアシツ姫の二男。斎名はサクラギ
・ホオテミ:『日本書紀』の彦火火出見尊に比定。ニニキネとアシツ姫の三男。斎名はウツキネ
・コヤネ:『記紀』の天児屋命に比定。カスガカミ。アマノコヤネとも
・コモリ:神社祭神の子守神に比定。クシヒコの子。今のオオモノヌシ
・ミゾクイ:『記紀』の三島溝橛耳に比定。コモリの第十一男であるミシマの別名
・アカツチ:『日本書紀』の赤土命に比定。ホツマではハヤスフヒメの父。アシナツチの兄
・ホタカミ:『古事記』の穂高見命に比定。カナサキの孫。筑紫三十二県の県主の一人
・シガノカミ:カナサキの孫。ホオテミがツクシに居た頃のツクシの国守
・ハテツミ:『記紀』の海神(豊玉彦)に比定。スミヨシの孫。トヨタマヒメらの父
・ヤマサチヒコ:『記紀』の山幸彦に比定。ホオテミの別名
・ウミサチヒコ:『記紀』の海幸彦に比定。ホノススミの別名
・シホツツ:『記紀』の塩土老翁に比定。シホカマとは別人とされる
・ヨドヒメ:神社祭神の與止日女命に比定。海女のアカメ
・ヤマクイ:『古事記』の大山咋神に比定。オオトシクラムスビの子
・トヨツミヒコ:ハテツミの長男。トヨタマヒメの兄
・トヨタマヒメ:『記紀』の豊玉姫に比定。ハテツミの長女。ホオテミの内宮
・タケツミヒコ:神社祭神の賀茂建角身命に比定。ハテツミの二男。トヨタマヒメの弟
・オトタマヒメ:ハテスミの次女。トヨタマヒメの妹
・タケイワタツ:阿蘇神社祭神の健磐龍命に比定。アソヒメの父
・アソヒメ:阿蘇神社祭神の阿蘇都媛命に比定。タケイワタツの娘。ホオテミのウチキサキ
関連社
・白鬚神社:ホツマにおける「スセリ宮(ウカワ宮)」に比定
・別 名:白鬚大明神、比良明神
・創建年:伝・第11代垂仁天皇25年
・主祭神:猿田彦命
・所在地:滋賀県高島市鵜川215番地
・宇都宮二荒山神社:ホツマにおける「ウツ宮」に比定
・創建年:伝・仁徳天皇41年
・主祭神:豊城入彦命(相殿:大物主命、事代主命)
・所在地:栃木県宇都宮市馬場通り一丁目1番1号
・天孫神社:ホツマにおける「オオツシノ宮」に比定
・創建年:伝・延暦年間(782~806年)
・主祭神:彦火々出見命、大名牟遅命、国常立命、帯中津日子命
・所在地:滋賀県大津市京町3丁目3-36
・鹿児島神宮:ホツマにおける「カゴシマ宮」に比定
・別 名:大隅正八幡宮、国分八幡宮
・創建年:伝・神代
・主祭神:天津日高彦火火出見尊、豊玉比売命
・所在地:鹿児島県霧島市隼人町内2496
・阿蘇神社:ホツマにおける「アソ宮」に比定
・創建年:伝・孝霊天皇9年
・主祭神:健磐龍命、阿蘇都比咩命
・所在地:熊本県阿蘇市一の宮町宮地3083-1
・鵜戸神宮:ホツマにおける海幸山幸の関連地に比定
・創建年:伝・崇神天皇朝
・主祭神:日子波瀲武葺不合尊、大日貴尊、天忍穂耳尊、彦火瓊々杵尊、彦火々出見尊、神日本磐余彦尊
・所在地:宮崎県日南市大字宮浦3232
※ホツマツタヱの記述との対応関係に基づく解釈
関連知識
鯛について
ホツマ25文によれば、海幸山幸の争いにおいて原因となった「釣針」を見つける際に「鯛(タイ)」が発見に寄与したとされます。この際、ハテツミ(海神)の夢に現れて「釣針を奪ったクチから奪い返したので弟君に献上したい。私のことは食物にしていただいて良い」と述べたこともあって、ヤマサチヒコは釣針を取り戻した鯛を讃えて「魚の中で尊いもの」とするという決まりを作ったとされます。
一方、日本文化において鯛が珍重される理由は、通説では「赤い体色が吉兆であること」「名前が『めでたい』に通じること」「古代から高級魚として朝廷への貢納品であったこと」など、複数の文化的要因が重なって特別視されるようになったとされています。
なお、『記紀』における海幸山幸神話では「鯛の説話」は見られませんが、石川県加賀市にある菅生石部神社には「御祭神日子穂々出見命の故事により古來鯛を神饌とせず」というホツマの記述と一致する礼法が伝えられているそうです。
『記紀』との主な違い(AI分析)
ニニキネ晩年の統治像
ホツマでは、ニニキネは老境に至るまで自ら巡幸し、井堰や堤の建設、新田造成など具体的な治水・農政を行う統治者として描かれる。一方、『記紀』では、ニニギの国土経営はほとんど語られず、天孫降臨後の政治的実務は簡略に済まされる。
三御子の配置と役割
ホツマでは、ホノアカリ・ホノススミ・ヒコホオテミにそれぞれ宮と役割が与えられ、どの地を治め、誰が補佐するかまで具体的に配置が語られる。一方、『記紀』では、三御子の政治的役割や宮の配置はほとんど説明されず、系譜上の存在として扱われるに留まる。
海幸山幸の争いの構造
ホツマでは、サチ(道具)の交換から釣針紛失に至る経緯、海女たちの探索、鯛とミツウロコの由来、ミチヒノタマの使用まで、争いの過程が細かく描かれる。一方、『記紀』では、釣針紛失と海神宮訪問は語られるものの、探索の具体や象徴体系は簡略化され、物語はより神話的な筋だけが強調される。
トヨタマヒメとの婚姻と儀礼
ホツマでは、トヨタマヒメとの婚姻は三十二県の守を集めた正式な儀礼として描かれ、水を捧げる歌や六局の成立、春祝との連動など、婚姻と農耕儀礼が密接に結びつく。一方、『記紀』では、トヨタマヒメとの婚姻は神話的な出会いとして描かれ、儀礼的・政治的な構造はほとんど示されない。
九州開拓と国土造成
ホツマでは、筑紫・肥国・阿蘇など九州各地での井堰・堤の建設、土壌改良、国名の由来まで含めて開拓の過程が具体的に語られる。一方、『記紀』では、山幸の物語の後に九州開拓の詳細はほとんど描かれず、国土造成の実務的側面は前面に出てこない。
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