【意訳版現代語訳】人の巻 ホツマツタヱ31文 直り神 三輪神の文
ホツマツタヱ31文の現代語訳を「読みやすさ」と「まとまり」を重視して意訳しました。
詳細な逐語訳や原文を確認したい方は、冒頭のリンクから個別ページを参照してください。
ホツマツタヱ31文のあらすじ
タカクラシタ(ヤヒコ)の功績、神武天皇の後継問題、タギシミミの反逆、そして綏靖・安寧・懿徳・孝昭・孝安へと続く初期王権の継承がまとめられた文(あや)です。
1. タカクラシタ(ヤヒコ)の国鎮めと昇進
タカクラシタは遠国巡察の任を果たし、筑紫・山陰・四国・越後を治めた功績を報告する。これを受けて神武天皇は彼を紀州の国造「大連」とし、後には越後の「ヤヒコカミ」として任じる。タカクラシタは越後に定住し、その地の祖神としての位置づけが形成される。
2. 神武天皇の後継問題と宮中の葛藤
神武天皇には後継がなく、侍女イスキヨリヒメ(後のユリヒメ)を召すが、后のヰソスズヒメに咎められる。その後、カンヤヰミミとカヌナカワミミが誕生し、皇統が確立する。一方で、タギシミミがイスキヨリヒメに横恋慕し、宮中に不穏が生じる。
3. タギシミミの反逆とカヌナカワミミの即位
神武崩御後、タギシミミが政権を奪おうとするが、カヌナカワミミと弟カンヤヰミミがこれを討ち、皇統を守る。カヌナカワミミは葛城に新都を建てて即位し、綏靖天皇として治世を始める。
4. 綏靖天皇(カヌナカワミミ)の治世
タギシミミを討って皇統を守ったのち、葛城に新都を建てて即位する。三輪の神(クシヒコ・コモリ・クシミカタマ)の由来を詔して祭祀体系を整え、物部・中臣の役割を確立する。また、筑紫に規範を伝えるなど、地方統治の基準を整備した。
5. 安寧天皇(タマテミコ)の治世
吉野の神々の由来が語られ、コモリ・カツテの二神の創祀が示される。宮廷制度が整えられ、后妃・侍女・臣下の配置が体系化される。遺骸の葬送や喪還の儀礼が丁寧に記され、初期王権の葬制が明確に示される。
6. 懿徳天皇(スキトモ)の治世
新暦「マカリオコヨミ」を制定し、日嗣の儀礼を民に拝ませるなど、王権の時間制度を整える。住吉への御幸や海松の観覧など、祭祀と自然観が結びついた記述が多く、皇統の精神的基盤が語られる。后妃の制度も整い、皇子カヱシネが代嗣となる。
7. 孝昭天皇(カヱシネ)の治世
掖上の池心宮に遷都し、宮廷組織を刷新する。后妃・侍女・青侍の制度が整えられ、宮廷の実務体系が確立する。皇子オシヒト(後の孝安天皇)は朝日の輝きと共に生まれ、アマテルと同型の誕生として象徴的に描かれる。長寿の治世を保ち、皇統の安定を示す。
8. 孝安天皇(タリヒコクニ)の治世
室秋津島に遷都し、王権の中心地を再編する。叢雲や害虫の発生に際して自ら祓いを行い、「ホツミノマツリ(収穫祭)」を催行するなど、祓いと農耕を結びつけた治世が特徴となる。后妃制度を整え、皇子ネコヒコ(後の孝霊天皇)を代嗣とする。長寿の末に崩御し、殉死の風習が記録される。
意訳文
タカクラシタが大連となる
神武8年(上鈴65年)ヲヤヱ秋のこと。
スヘシカト(統使人=国家鎮定の大使)のタカクラシタが帰って来て次のように報告した。
「臣(タカクラシタ)は昔、御言を承って遠国(遠い地)より筑紫の三十二県も山陰も巡って治めました。また、越後の弥彦山の辺りにはツチグモが集まりました。これゆえに、矛を用いて五度戦って皆殺しにし、四国の二十四県も治めました」
タカクラシタは報告と共に「クニスヘヱ(国統絵=国々の鎮定の情勢を描いた図)」を捧げた。
これに君(タケヒト)は応えて、タカクラシタを紀州の国造の「オオムラジ(大連)」とした。
タカクラシタがヤヒコカミとなる
神武20年(上鈴77年)サミトのこと。
越後が初穂を納めなかったので、タカクラシタが再び越後に向かった。その際、タカクラシタは太刀を抜かずに皆を従わせた。君はタカクラシタを褒めて、詔によってクニモリ(国守)の役と「ヤヒコカミ」のヲシテを与えた。
これよりタカクラシタが越後に長く住むことになったことから、妹婿のアメノミチネを紀州の国造としてキノタチ(紀国の政庁舎)を与えた。
タケヒトの代嗣
神武24年(上鈴81年)、君には代嗣が無かった。
そこで、クメの子のイスキヨリヒメをオシモメ(乙下侍)に召したが、后のヰソスズヒメに咎められてしまった。そのため、乙下侍はユリヒメとなり、殿居(殿に住むこと)することはなかった。
后が懐妊すると、その翌夏に御子のカンヤヰミミが生まれた。斎名をイホヒトという。
神武26年(上鈴83年)、マツリミユキ(祭御幸)の際にはヤスタレ(近江)にて御子のカヌナカワミミを生んだ。斎名をヤスキネという。
タカクラシタの結婚
神武30年(上鈴87年)サミヱ夏、ヤヒコ(タカクラシタ)が宮に上って拝んだ際、ヤヒコの天の盃(飲酒数)の数が多かった。
皇(タケヒト)は「昔は盃の数が少なかったが、今 飲む数が増えているのはなぜだ?」と問うと、ヤヒコは「我が国は寒くて常に飲んでいるので、自然と酒が好きになってくるのです」と答えた。
君(タケヒト)は笑んで「ならば汝の酒に肴を与えよう。それは我が乙下侍だ。七十七歳の男に二十歳の女を与えよう」とタカクラシタに乙下侍のユリヒメを与えた。
その後、タカクラシタは越後に戻り、ユリヒメと結婚して男女の子を儲けた。
タギシミミの横恋慕
それより以前のこと、百合の花見に行った際、君(タケヒト)の御幸はサユカワに到り、クメの家にて一夜の宿を取った。その際、イスキヨリヒメが膳出(祝の膳)として御食を進めると、皇は召し上がる前に次の御歌を歌った。
『アシハラの 優雅き居屋に 菅畳 弥多敷きて 我が二人和ん』
この御歌と共にイスキヨリヒメを召し、後に局に据え置いた。
ある時、タギシミミは乙下侍(イスキヨリヒメ)に恋い焦がれて、父(タケヒト)に乞うと承諾が得られた。しかし、イスキヨリヒメは君がタギシミミを呼ぶ際の"不穏な含み"を悟り、操を伝える次の連歌を歌った。
『天つ地 娶ります君と など割ける 止』
(継句の拒否、すなわち、君に操を立ててタギシミミに嫁ぐことを拒否している)
これにタギシミミが次のように返歌した。
『熟乙女 直に会わんと 我が割ける 止』
(タギシミミは自らの願望をイスキヨリヒメに伝えた)
このように両者の意向は合わず、君が「追って伝える」と述べると、タギシミミはその場を去った。これを小侍女がクシミカタマに伝えると、クシミカタマは君に「これはシム(血統)の恥となります」と申し上げた。君はそれに頷いて内密に処理した。
なお、この度の乙下侍とはユリヒメである(イスキヨリヒメはユリヒメと名を変えて局の乙下侍に据えられていた)。
タケヒトによる国々の賛美
神武31年(上鈴88年)サミト4月初日、君はワキカミ(掖上)のホホマノオカ(本馬丘)に御幸して次のように歌った。
『アナニエヤ(ああ素晴らしい)、得るのはウツフユマサキクニ(私は優れ至る国を得たのだ)。形はアキツ(蜻蛉)が連なっているように見える。これはアキツシマである。
アマカミ(中央の君)はヤマトウラヤス(本州の中心であるヤス国)である。コヱクニ(越根国)はヤマトヒタカミ(本州のヒタカミ国)である。ソコチタル(中国地方)はシワカミホツマ(地上の大調和)である。
オホナムチはタマガキウチツ(尊い囲みの内側)である。ニギハヤヒはソラミツヤマト(空を駆け回って至るナカクニ)である』
タケヒトによる代嗣の詔
神武42年(上鈴99年)1月3日キミヱ、君は代嗣の詔を発した。
「カヌナカワミミの尊を代嗣御子とする。鏡臣はウサマロ、剣臣(モノヌシ)はアタツクシネとし、御子の両羽の臣となれ。また、ミケナヘマツリモフスヲミ(神饌供え祭り申す臣)のヲモチキミ(ウマシマチ)は共に助けよ」
タケヒトの最期
神武76年(上鈴133年)1月15日、君は遺言の詔した。
「私は既に老いてしまった。これより政は『ナオリナカトミカミ(コヤネの系統)』と『ナオリモノヌシカミ(クシヒコの系統)』の親子の臣に任せるべし。諸臣はこれらと若宮(カヌナカワミミ)を立てよ」
このように詔すると内宮に入り、同年3月10日キヤヱに神となった。この後、アヒラツヒメとクシミカタマは長く喪に入り、イキマスノコト(生きているかの如く)務めた。
※『記紀』ではカンヤヰミミが帝位を継ぐような形になっている
タギシミミの反逆
この後、アメタネコ、クシネ、ウサマロは、若宮(カヌナカワミミ)と共に葬儀について話し合った。
その際、タギシミミが独断で政を執ろうとしたので、直り中臣・直り物主の三人(タネコ・クシネ・ウサマロ)が若宮に理由を問うたが、若宮はこれに答えなかった。そのため、喪に入ってモロハトミ(両羽臣)に後を任せた。
タギシミミは、父・タケヒト(神武)のミオクリ(回送)も拒んで、二人の弟を裏切った。また、畝傍峰のサユの花見を見合え(偽装)して、若宮を室屋に召したので、この不穏を察した若宮の母のタタラヰソスズヒメは、若宮に歌の直しを請うた。若宮が札を取って確認すると、そこにはイイロ(気分)を詠む次のような二歌があった。
『サユカワゆ 雲立ち渡り 畝傍山 木の葉さやぎぬ 風吹かんとす』
『畝傍山 昼は雲訪い 夕されば 風吹かんとぞ 木の葉さやぎる』
若宮はこの二歌の意味を考えて、歌の中に陰謀が隠されていることに気付いたので、カンヤヰミミを召して歌について次のように語った。
「昔、父はイスキヨリヒメと密通していたが、兄(タギシミミ)は親子の情けとして表に出さずに内々に済ませた。それゆえ、今は兄はワガママに政を執っているが、本来ならば退いて臣に授けるべきである。このように干渉するとは何事であろうか。また、父の葬儀も拒んで回送せず、我らを招くのも偽りである。ゆえに兄に対する策を図るべし」
こうして二人(カヌナカワミミ・カンヤヰミミ)は、まず弓削のワカヒコを召して弓を作らせた。次にマナウラを召してマカゴの鏃(やじり)を鍛えさせ、カンヤヰミミに靫(ユキ=矢筒)を背負わせた。
その後、若宮(カヌナカワミミ)は兄(タギシミミ)の言うとおりにカタオカムロ(片丘室)に向かった。その時、兄が床に伏せて昼寝していたので、若宮(カヌナカワミミ)はカンヤヰミミに「兄弟が競っていては付いてくる者は居ないだろう。ゆえに私が室に入った時に汝が矢を射よ」と命じた。
こうして二人が室の戸を突き開けて入ると、兄は怒って「靫を背負って入るとはどういうことだ!?」と言った。その時に若宮が斬りかかったが、カンヤヰミミは手足が震えて弓を討つことができなかった。そこで若宮が弓矢を取り、一矢を兄の胸に当て、二矢を兄の背に当てて、遂に殺したのである。
そして、兄の遺骸はカタオカムロに納められて「ミコノカミ」として祀られた。
震えて怖気づいたことを恥じたカンヤヰミミは、イホノトミ(斎き祭る臣)のミシリツヒコと名を変えてトイチ(十市)に移り住み、そこで常にカミノミチ(神を斎き祀ること)を行って、亡き兄(タギシミミ)の祀りを懇ろに催行した。
カヌナカワミミの即位とイワレヒコの葬儀
葛城に新都を建てて遷宮が成った年は、上鈴134年ツアト春であった。
初日サナヱにはコトホキをし、末一日サヤヱにアマツヒツキ(帝位)を受け継いでカヌカワミミの天君となり、高丘宮に座して新暦を発布した。天君の斎名はヤスキネであり、齢は五十二歳であった。また、上代の例(ハラノノリ)に倣って御飾りを民に拝ませ、母を上げてミウヱキサキ(皇太后)とした。
九月二十日ツミヱにタケヒト(神武)の遺骸をカシオ(白檮尾=畝傍山東北陵)に送り、御供にはアヒラツヒメとクシミカタマが付いた。そこでトハズカタリ(死者との対話)を為して侍ると、君と臣が共に洞に入り、神となった。
翌日 それを聞いた者が殉死し、その数は三十三人に至った。その際、この三十三人は次のヨニウタフウタ(後世に残る歌)を歌ったという。
『天御子が 天に還れば 三十三追う 忠も操も とおる天かな』
カヌナカワミミの后
綏靖2年春、ミスズヨリヒメが内宮となった。
磯城県主(オトシギ)の娘のカワマタヒメが、大スケ后となった。
クシネの孫のアダオリヒメが、スケ后となった。
春日県主(アウヱモロ)の娘のイトオリヒメがココタヘ(内侍の筆頭)となり、ミコナカハシのヲシテ守となった。
葛城国造(ツルギネ)の娘のカツラヒメは内后、妹のカツラヨリヒメは下后となった。
アメトミの娘のキサヒメも下后となった。
そして、その下にコトメ(小侍女)が三十人就いた。
三輪の神を定める
八月初日に次のような詔があった。
「私が聞くには、昔 オオナムチが殊成す(格別な事を実現する)際にミモロカミ(クシヰワザタマ)がこう言ったという。
『我があってこそ、汝はおおよその殊を成し遂げたのである。我は汝のサキミタマなり、ワザミタマはワニヒコ(クシミカタマ)であるぞ』
これゆえ、ミモロカミはオオナムチの子孫のクシヒコ・コモリ・ワニヒコと三度転生して現れて殊を成したのである。
殊を成した際に一人(フキネ)が別れたゆえ、三人目のワニヒコまでがミワノカミ(三輪の神)であるのだ」
この詔により、三輪の神は代々皇の守りとして九月十一日に祀られることになった。
これにより、アタツクシネにオオミワの姓が与えられた。なお、ワニヒコ(クシミカタマ)は享年192歳であった。
※三輪の神は、クシヒコ、コモリ、クシミカタマを指すとされる
筑紫に規範を伝える
筑紫から御幸の要請があったとき、君の代わり直り中臣(タネコ)が下った。
これにより、豊国のナオリノアガタが成り、ミソフノヌシ(筑紫の三十二県主)も大和の規範に倣った。
直り神と宗像三女神(綏靖朝の長雨の記録)
これ以前のこと、五月雨が六十日降ったため、稲苗もミモチ(稲の病)に罹って痛んでしまった。
そこで筑紫に派遣されていた御使人(アメタネコ)が直り祓いのカセフノマツリを催行した。その際、県主らも努めて「オシクサの守り」をすると稲苗も甦った。稲が健康になったことで皆は賑わい、これゆえに「ホツミノマツリ(穂積の祭=収穫祭)」を為した。
これより民のウフスナ(産土)には、スミヨシ、モノヌシ、ナカトミを合せた「ナオリカミ」が祀られることになった。また、宇佐にはイトウの三女神(宗像三女神)が祀られるようになった。
また、天君はヒコユキをマツリノトミ(ウマシマチ)のスケ(輔・次官)に付けた。
カヌナカワミミ(第二代 綏靖天皇)の治世と最期
綏靖4年(上鈴137年)、サヤヱ4月、斎臣(カンヤヰミミ)が罷り「ミシリツヒコの神」となった。サヤト9月15日、后のミスズヨリヒメが御子を生んだ。斎名をシギヒトとするタマテミコ(日の出と共に生まれた御子)である。
綏靖6年(上鈴133年)ネシヱ冬、イトオリヒメが生んだイキシミコは御子のスケ后となった。
綏靖25年サアト1月3日、シギヒトを代嗣御子とした。この時の齢21歳であった。11月14日、アメタネコが罷った。享年187歳であった。遺骸はミカサヤマに納め、春日の殿に合せ祀った。これにより「ミカサ」の姓をウサマロに与えてミカサ臣と称えた。
綏靖33年5月10日ネナト、皇(ヌナカワミミ=綏靖天皇)が崩御した。享年84歳で、若宮(タマテミコ)は その夜に喪還に入った。四十八夜を経ると、イサ川にあるミソギノワ(茅の輪)を貫けて宮に還った。この際、御上(父・ヌナカワミミ)の臣は引き続き父を神として祀った。
また、君と臣が分かれて勤めることになったため、若宮(タマテミコ)の政を取る臣は刷新された。
タマテミコの即位(誕生秘話)
上鈴170年ネアト7月3日、皇子のシギヒトは齢33歳でアマツヒツキ(帝位)を受け継ぎ、タマテミコはアメノスヘラキミ(天の皇君)となった。
昔、菊の花見をしようと、ミスズヨリヒメ、カワマタヒメ、父のクロハヤ(磯城の県主)が館に行った。
そこでミスズヨリヒメが御子を生もうとして三日間寝込んでいた時、ある夫婦が来て、君(ヌナカワミミ)に「このタマテミコを取り上げさせていただければ苦しまずに産ませましょう」と申し上げた。そして生まれたのがタマテミコである。
磯城の家に朝日が輝くと、その夫婦に御子の名は「タマテ」が良いのではないかと進められた。君が夫婦の姓を問うと、男は「コモリ」と言い、女は「カツテヒコ」と言った。これゆえに君は夫婦に「ワカミヤノウシ・モリノトミ」の名を与え、コモリ・カツテの二神を吉野に祀った。
※吉野水分神社・勝手神社と推測される
タマテミコの后と御子
帝位に就いたタマテミコは、父に倣って母のミスズヨリヒメをミウヱキサキ(御上后)とした。また、ナレミナ(通称)も斎名もミスズヨリヒメとした。
上鈴170年10月10日、父の遺骸を送りツキタオカ(桃花烏田丘)に葬った。
上鈴171年キミヱ12月、カタシホ(片塩)のウキアナ(浮孔)を都とした。
上鈴172年キミト1月、ヌナソヒメを娶って内宮とした。この姫はクシネの娘である。クシネはオフエモロ(アウヱモロ)のヌナタケヒメを娶り、イイカツとヌナソヒメを生んだ。また、磯城ハエの娘のカワツヒメを娶ってスケ后とした。
これ以前にオオマの娘のイトヰヒメが長橋に御子を生んだ。この御子は斎名をイロキネというトコネツヒコである。ゆえに内侍であったイトヰヒメは大スケ后となった。
また、カワツヒメの生む御子は斎名をハチキネというシギツヒコミコである。
タマテミコ(第三代 安寧天皇)の治世と最期
安寧4年(上鈴173年)4月15日、ヌナソヒメが生む御子はオオヤマトヒコスキトモである。斎名はヨシヒトという。また、ケクニヲミ(供国の大臣)にはタケイイカツとイツモシコが就き、イワイヌシ(斎主)にはオオネが就いた。
安寧6年(上鈴175年)1月15日、内宮(ヌナソヒメ)が生んだ御子の斎名はトキヒコというクシトモセである。
安寧11年(上鈴180年)1月3日、ヨシヒト(オオヤマトヒコスキトモ)が八歳で代嗣御子(皇太子)となる。
安寧38年(上鈴207年)サミヱの12月6日、皇(タマテミコ=安寧天皇)が崩御した。若宮のスキトモは喪還に入り、四十八夜を経ると、新春の祝はせず、イサ川にて禊をし、宮に出て政を聞いた。この際、臣を分けて、旧臣は父を「ウキアナノカミ」として御饗した。
そして、秋に遺骸を畝傍山のミホド(畝傍山西南御陰井上陵)に移送した。タマテミコの享年は70歳であった。
スキトモ(第四代 懿徳天皇)の治世と最期
上鈴208年サミト2月4日ネアヱ、若宮(スキトモ)は齢36歳でアマツヒツキ(帝位)を受け継ぎ、オオヤマトヒコスキトモのアメスヘラギ(天皇)と称えられた。日嗣をアメノノリ(陽陰の道)に倣って民に拝ませ、暦をマカリオコヨミ(懿徳の新暦)に改めた。
8月1日と12月6日は喪還に入り、9月13日には母のヌナソヒメを上げて御上后とした。
上鈴209年1月5日、カルマカリオ(橿原の境の丘)を新都として遷宮した。
2月11日、アメトヨツヒメを内宮に立てた。また、磯城ヰデの娘のヰヅミをスケ后とし、フトマワカの娘のイイヒメをココタヘ(内侍の筆頭)とした。
懿徳5年(上鈴212年)3月7日、住吉に御幸して海松(ミル)を見ている時に内宮が御子を生んだ。御子の名はカヱシネと言い、斎名をミルヒトという。なお、内宮の父はイキシミコ(イキシオヲキミ)である。
また、イイヒメがタケアシで生んだ御子はタヂマと言い、斎名をタケシヰという。
懿徳22年(上鈴230年)2月ツシトの12日ヲシヱ、カヱシネが代嗣御子(皇太子)となった。その時 齢18歳であった。
懿徳34年(上鈴242年)9月8日、君(スキトモ=懿徳天皇)が崩御した。若宮のカヱシネが神に仕えようと、喪還の一年まで生き座すが如く御饗した。
上鈴243年、君が崩御した翌年の冬には、回送して畝傍のマナゴタニ(真名子谷)に七十四日座した。送る臣は「問わず語り(死者の供として一緒に墓穴に入ること)」をし、若君も送葬(死者を墓所まで送ること)して、イサ川にて禊して穢を還した。
カヱシネ(第五代 孝昭天皇)の治世と最期
上鈴243年ツミヱ春1月ツウヱの9日キシヱ、カヱシネがアマツヒツキ(帝位)を受け継いでアメノスベラキミ(天皇)となり、アメノノリ(陽陰の道)に則って飾りを民に拝ませた。
4月5日、母のアメトヨツヒメを上げて御上后とした。また、葛城の掖上のヰケココロ(池心宮)に遷都した。
初年には、イツシココロをケクニヲミ(供国の大臣)とした。
君が齢31歳の時に局を定め、ワカハヱの娘のヌナギヒメをスケ后とし、サタヒコの娘のオオヰヒメは長橋にてヲシテを扱う仮スケとした。そして、内侍六人、下侍四人、青侍三十人を定めた。
孝昭29年(上鈴271年)キシヱ1月3日、ヨソタリヒメを内宮に立てた、この時に姫は15歳であった。なお、昔 ヤヒコ(タカクラシタ)にユリヒメ(イスキヨリヒメ)を与えて生んだのがアメヰタキであり、その子のアメオシヲの孫娘に当たるのがヨソタリヒメである。
孝昭31年(上鈴273年)、内宮の兄のオキツヨソがケクニヲミに就いた。
孝昭45年(上鈴287年)5月15日、内宮のヨソタリヒメがアメタラシヒコクニの御子を生んだ。斎名をオシキネという。
孝昭49年(上鈴291年)キミヱ初日(元旦)、内宮のヨソタリヒメがヤマトタリヒコクニの御子を生んだ。斎名オシヒトという。この御子は生まれる時に朝日(初日の出)が輝いて生まれた(アマテルと同様の生まれ方)。
孝昭68年(上鈴310年)1月14日にオシヒトを若宮とした。この時、若宮は齢12歳であった。
この翌年にオシキネをヲキミとし、春日県を与えた。
孝昭83年(上鈴325年)秋8月5日、君(カヱシネ=孝昭天皇)が崩御した。享年103歳であった。臣・后らは集まって宮に留まって喪に仕え、四十八夜を終えても引き続き神霊を祀った。
皇子のオシヒトは父の神霊を祀った。この時の皇子の齢は35歳であった。そして、親に継いで民を治めた。これゆえに兄親君のオシキネはオシヒトに従い、子のオオヤケ、アワタ、オノ、カキモト、イチシら十臣も付き従った。
なお、君(孝昭天皇)の命日である毎年の8月5日にヤヨノモマツリ(八夜に渡り帰還した者に心を合せる祭)を催行した。
タリヒコクニ(第六代 孝安天皇)の治世と最期
上鈴326年1月7日、オシヒトはアマツヒツキ(帝位)を受け継ぎ、タリヒコクニのアマツキミとなった。アメノノリ(陽陰の道)に倣って飾りを民に拝ませ、帝位に就いた後に局を定めた。
まず、磯城ナガハヱの娘のナガヒメを大スケ后とした。次に十市ヰサカヒコの娘のヰサカヒメを内后とし、長橋に居てヲシテ守りをさせた。その他にも定めて十二局が成った。
考安2年(上鈴327年)冬、ムロアキツシマ(室秋津島)に新都を築いて遷都した。
考安11年(上鈴336年)、叢雲が湧き、稲にホヲムシ(害虫)が発生したので、君は自らが祓いのカセフノマツリを催行した。これにより、稲が甦って瑞穂となった。よって「ホツミノマツリ(穂積の祭=収穫祭)」を催行した。
考安26年(352年)春、2月14日、春日親君のアマタラシヒコクニの娘のオシヒメを娶って内宮とした。この時の姫は齢13歳であった。
8月14日、父(カヱシネ)の崩御から33年後に遺骸をハカタノホラ(掖上博多山上陵)に納めた。この際、臣・侍の遺骸もすべて納めた。また、生きていた三人も殉死した。これをアメミコノリ(天御子法)という。
考安51年(377年)9月初日、后のオシヒメがオオヤマトフトニの御子を生んだ。斎名をネコヒコという。
考安76年(402年)春、1月5日、ネコヒコが代嗣御子(皇太子)となった。この時の御子は齢26歳であった。
考安92年(418年)春、駿河宮にハフリ(仕える者)が「ハラの絵(富士山の絵)」を献上した。皇子(ネコヒコ)が報告したが、君(タリヒコクニ=孝安天皇)はこれを受け取らなかった。
考安102年(428年)1月9日、君(タリヒコクニ=孝安天皇)が崩御した。享年137歳であった。皇子(ネコヒコ)が喪還を終えて四十八夜を経た後、若宮として政を執った。
9月3日に遺骸をタマテ(玉手丘上陵)に送ると、五人が殉死した。これらを共に納めて父(タリヒコクニ)を「アキツカミ」と称えた。
注釈
登場人物
・タカクラシタ:『記紀』の高倉下、『旧事紀』の天香語山命に比定。タクリ(カゴヤマ)の子
・タケヒト(イワレヒコ):『記紀』の神日本磐余彦に比定。初代神武天皇
・イスキヨリヒメ(ユリヒメ):クメの娘。イワレヒコの乙下侍だったが、タカクラシタの妻となる
・ヰソスズヒメ:『記紀』の媛蹈鞴五十鈴媛に比定。ツミハの娘。イワレヒコの内宮
・カンヤヰミミ:『記紀』の神八井耳命に比定。神武天皇とヰソスズヒメの第一子
・カヌナカワミミ:『記紀』の神渟名川耳天皇に比定。神武天皇とヰソスズ姫の第二子。二代綏靖天皇
・タギシミミ:『記紀』の手研耳命に比定。タケヒトとアヒラヒメの御子
・クシミカタマ:大神神社祭神の倭大物主櫛甕魂命に比定。ツミハの子。五代目オオモノヌシ
・ニギハヤヒ:『記紀』の饒速日命に比定。ホノアカリの長男。テルヒコの後任となる
・アタツクシネ:『旧事紀』の天日方奇日方命に比定。クシミカタマの子
・ウマシマチ:『記紀』の宇摩志麻遅命に比定。ニギハヤヒの御子
・アメタネコ:『日本書紀』の天種子命に比定。コヤネの孫。オシクモの子
・ウサマロ:アメタネコとウサコヒメの子。綏靖天皇の鏡臣
・アヒラツヒメ:『記紀』の吾平津媛に比定。神武天皇の妻。タギシミミの母
・カワマタヒメ:『記紀』の川派媛に比定。クロハヤの娘。綏靖天皇の大スケ侍后
・アダオリヒメ:アタツクシネの孫。綏靖天皇のスケ侍
・イトオリヒメ:『日本書紀』の糸織媛に比定。春日県主アフヱモロの娘。綏靖天皇のココタヘ
・カツラヒメ:葛城国造ツルギネの娘。綏靖天皇の内侍
・カツラヨリヒメ:葛城国造ツルギネの娘。カツラヒメの妹。綏靖天皇の下侍后
・ミモロカミ(クシヰワサタマ):オホナムチのサキミタマ(守護霊的存在)とされる
・オオナムチ:『記紀』の大己貴神に比定。ソサノヲの三男。出雲を手放した後は津軽を得る
・クシヒコ:『記紀』の事代主神に比定。オホナムチの長男。二代目オオモノヌシ
・コモリ:神社祭神の子守神に比定。クシヒコの子。ニニキネ~ウガヤの右臣。三代目オオモノヌシ
・カツテ:神社祭神の勝手神に比定。ヒトコトヌシの子
・ミスズヨリヒメ:『日本書紀』の五十鈴依媛命に比定。綏靖天皇の内宮
・タマテミコ:『記紀』の磯城津彦玉手看天皇に比定。綏靖天皇とミスズヨリ姫の御子。三代安寧天皇
・ヌナソヒメ:『日本書紀』の渟名底仲媛に比定。クシネの娘。安寧天皇の内宮
・ヌナタケヒメ:アウヱモロの娘。アダツクシネの妻。イイカツとヌナソ姫の母
・イイカツ:『旧事紀』の健飯勝命に比定。クシネの子
・カワツヒメ:磯城県主ハエの娘
・イトヰヒメ:『日本書紀』の糸井媛に比定。オオマの娘。安寧天皇の大典侍
・トコネツヒコ:『古事記』の常根津日子伊呂泥命に比定。安寧天皇とイトヰ姫の御子
・シギツヒコ:『日本書紀』の磯城津彦命に比定。安寧天皇とカワツ姫の御子
・オオヤマトヒコスキトモ:『記紀』の大日本彦耜友天皇に比定。安寧天皇とヌナソ姫の第一子。四代懿徳天皇
・イツモシコ:『旧事紀』の出雲色命に比定。オオネとイヅシココロの兄弟
・オオネ:『旧事紀』の大禰命の比定。安寧天皇の時に斎主となる
・カヱシネ:『記紀』の観松彦香殖稲天皇に比定。懿徳天皇とアメトヨツ姫の子。五代孝昭天皇
・タヂマ:『記紀』の武石彦奇友背命に比定。懿徳天皇とイイ姫の子
・タリヒコクニ:『記紀』の日本足彦国押人天皇に比定。孝昭天皇とヨソタリ姫の第二子。六代孝安天皇
・ナガヒメ:磯城県主ナガハヱの娘。孝安天皇の大典侍
・ヰサカヒメ:『日本書紀』の五十坂媛に比定。十市県主イサカヒコの娘。孝安天皇のココタヘ
・オオヤマトフトニ:『記紀』の大日本根子彦太瓊天皇に比定。孝安天皇とオシ姫の子。七代孝霊天皇
関連社
・彌彦神社:ホツマにおける「ヤヒコカミ」の関連社に比定
・別 名:伊夜比古神
・創建年:伝・孝安天皇元年(紀元前392年)
・主祭神:天香山命
・所在地:新潟県西蒲原郡弥彦村大字弥彦2887番地2
・吉野水分神社:ホツマにおける「吉野にコモリを祀った社」に比定
・創建年:不明
・主祭神:天之水分大神
・所在地:奈良県吉野郡吉野町吉野山1612
・勝手神社:ホツマにおける「吉野にカツテを祀った社」に比定
・創建年:不明
・主祭神:天之忍穗耳命
・所在地:奈良県吉野郡吉野町吉野山2354
※ホツマツタヱの記述との対応関係に基づく解釈
関連地
・畝傍山東北陵:初代 神武天皇を埋葬した「白檮尾」に比定
・大正まで地名は「高市郡白檮村大字山本」であったとされる
・桃花烏田丘上陵:第二代 懿徳天皇を埋葬した「ツキタオカ」に比定
・畝傍山西南御陰井上陵:第三代 安寧天皇を埋葬した「畝傍山のミホド」に比定
・畝傍山南織沙谿上陵:第四代 懿徳天皇を埋葬した「畝傍のマナゴタニ」に比定
・俗称「マナゴ山」
・掖上博多山上陵:第五代 孝昭天皇を埋葬した「ハカタノホラ」に比定
・玉手丘上陵:第六代 孝安天皇を埋葬した「タマテ」に比定
※ホツマツタヱの記述との対応関係に基づく解釈
関連知識
殉死について
殉死(じゅんし)とは、主君が亡くなったときに、その人物に深く仕えていた者が「死後の世界でもお仕えする」という考えから、自ら命を絶つ行為を指します。日本だけの特異な風習ではなく、古代中国・朝鮮・インド・エジプトなど、多くの文明で同様の習俗が存在します。これは、王や首長が死後も権威を持ち続けると考えられ、その霊に仕えるために家臣や従者が共に死ぬことが「忠義の完成」とみなされていたからだといわれています。
ホツマツタヱにも殉死の思想が明確に描かれており、天皇が崩御すると長く仕えてきた臣下が「神となった主のもとへ再び仕える」ために殉じる場面が記されます。神武天皇の崩御時には三十三人が殉死し、彼らは「忠も操もとおる天かな」と歌って死に臨みます。ここでは殉死が、臣下にとっての忠義・操(みさお)・死後の奉仕として理解されていたと見ることが出来ます。なお、『記紀』にも殉死の記録が記されています。
『記紀』との主な違い(AI分析)
タカクラシタ(高倉下)の位置づけ
ホツマでは、タカクラシタは筑紫・山陰・四国・越後を巡って国鎮めを行い、ツチグモ討伐や越後統治の詳細が語られる。また、越後に定住して「ヤヒコカミ(弥彦神)」となる経緯が明確に描かれる。一方、『記紀』では高倉下は神武東征の際に布都御魂を授ける象徴的な人物として登場するのみで、国鎮めや越後との関係は語られない。
神武天皇の後継問題と宮中の葛藤
ホツマでは、イスキヨリヒメ(ユリヒメ)・ヰソスズヒメ・タギシミミの関係が具体的に描かれ、恋慕・嫉妬・政治的緊張が宮中の問題として記録される。后妃の咎めや侍女の扱いなど、宮廷内部の人間関係が生々しく語られる。一方、『記紀』では神武の后妃関係は簡潔で、後継問題や宮中の葛藤はほとんど描かれない。
タギシミミ反逆の動機と経緯
ホツマでは、タギシミミがイスキヨリヒメに恋慕したこと、拒絶されたこと、父の死後に政権を奪おうとしたことなど、反逆の動機と背景が詳細に語られる。兄弟間の緊張や歌による暗号など、事件の内情が丁寧に記録される。一方、『記紀』ではタギシミミは「暴虐のため討たれた」とされ、動機や背景は語られない。
綏靖天皇の即位と三輪の神の由来
ホツマでは、綏靖天皇(カヌナカワミミ)が三輪の神(クシヒコ・コモリ・クシミカタマ)の由来を詔し、三代のオオモノヌシの転生として説明する。三輪信仰の成立過程が明確に語られる。一方、『記紀』では大物主神の性格は語られるが、三輪の神を三代転生とする思想は存在しない。
直り神(ナオリカミ)の成立と祓いの体系
ホツマでは、長雨と稲の病を祓うために直り祓いが行われ、スミヨシ・モノヌシ・ナカトミを合わせた「ナオリカミ」が産土神として祀られるようになったと記される。また、宗像三女神が宇佐に祀られる経緯も語られる。一方、『記紀』では宗像三女神は天照の命を受けて海に降るが、祓い・農耕・産土神との関係は語られない。
初期王権の喪葬儀礼の具体性
ホツマでは、喪還・四十八夜・茅の輪の通過・殉死・問わず語り・御饗など、初期王権の葬制が極めて具体的に描かれる。天皇の葬送における儀礼の細部が記録されている。一方、『記紀』では初期天皇の喪葬儀礼はほとんど記述されず、簡潔な崩御記事に留まる。
綏靖・安寧・懿徳・孝昭・孝安の治世の詳細
ホツマでは、各天皇の治世における遷都・后妃制度・祭祀・祓い・農耕・臣下の配置などが具体的に記録され、初期王権の制度史が明確に示される。一方、『記紀』ではこの時代は極めて簡略で、即位年と崩御年が中心であり、政治・祭祀の実態はほとんど語られない。
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