ホツマツタヱ・ミカサフミ現代語訳:ヲシテ文献に見る 賀茂祭(葵祭) [京都府]

賀茂祭(かもまつり)とは、京都市の賀茂御祖神社(下鴨神社)賀茂別雷神社(上賀茂神社)で、毎年5月15日に行なわれる例祭であり、一般的には葵祭(あおいまつり)の名で知られています。

古くは陰暦四月の中の酉の日に行われていたとされ、祭の当日には牛車・勅使・供奉者の衣冠・牛馬などの全てが葵鬘(あおいかずら)で飾られたことから葵祭と呼ばれるようになったとされています。


概要


由緒


『賀茂縁起』によれば、「太古に別雷神(ワケイカヅチ)が(上賀茂神社の北北西に位置する)神山(こうやま)に降臨した際、神託によって奥山の賢木を取り阿礼(あれ)に立て、種々の綵色(いろあや)を飾って走馬を行い、葵楓(あおいかつら)の蔓(かずら)を装って祭を行った」とされ、これが上賀茂神社における祭祀の起源とされる。

また、「第29代欽明天皇の御代(539~571年)、国内は激しい風雨に見舞われて五穀が実らなかったので、欽明天皇28年(567年)、賀茂大神の崇敬者であった卜部伊吉若日子(うらべのいきわかひこ)に占わせたところ賀茂大神の祟りと出たため、若日子を勅使として4月の吉日に祭礼を行い、馬には鈴をかけ、人は猪頭(ししがしら)をかぶって駆競(かけくらべ)をしたところ、風雨はおさまり、五穀は豊かに実って国民も安泰になった」とあり、これが賀茂祭の起源であるとされている。

その後、奈良時代になると、和銅4年(711年)4月に元明天皇により「毎年の賀茂祭の日には国司が親しく祭場に臨み、祭が無事に執り行われているか検察せよ」との勅命が下されたという。

また、平安時代になると、大同2年(807年)4月に平城天皇によって賀茂祭が勅祭となり、弘仁元年(810年)には嵯峨天皇によって賀茂神社にも斎院(伊勢神宮の斎宮に倣った巫女)が定められて賀茂祭にも奉仕したとされる。また、弘仁10年(819年)3月16日には賀茂祭を中祀(祭りの前3日間を潔斎して行う祭祀)として斎行せよとの勅命が下され、当時の神社の祭祀において最も重要な扱いを受け、貞観年中(859~876年)に勅祭としての賀茂祭の儀式次第が定められて壮麗な祭儀として完成し、庶民からも人気を集めたとされている(『源氏物語』などに当時の様子が記される)。

しかし、室町中期頃より次第に衰微していったとされ、応仁の乱の後に廃絶となったという。

その後、江戸時代の元禄7年(1694年)に幕府の協力によって再開され、これ以降の賀茂祭では 内裏宸殿の御簾・牛車(御所車)・勅使・供奉者の衣冠・牛馬の全てが「葵の葉」で飾られるようになったことから「葵祭」と呼ばれるようになったという(使用される葵は「フタバアオイ」で、毎年 賀茂神社から御所に納められているとされる)。なお、賀茂祭(葵祭)は明治3年(1870年)まで執行されたが、これ以降はしばらく中絶されて、単に奉幣使のみの参向となったとされている。

また 近代になると、明治17年(1884年)に明治天皇の旧儀復興の仰せにより、賀茂神社の賀茂祭は いわゆる日本三勅祭の一つとして厳粛に祭儀が執行されることになり、祭日も古来の4月吉日(第2の酉の日)から新暦の5月15日と改められたとされる(他の勅祭は 春日大社の春日祭・石清水八幡宮の石清水祭)。

なお、行列は大正15年(1926年)に整備されたが、昭和の国内情勢の激変によって昭和18年(1943年)より行列は中止され、社頭の儀のみの斎行となったという。

その後、昭和28年(1953年)に葵祭行列協賛会の後援を得て行列が復活し、昭和31年(1956年)に斎王に代わる「斎王代」を中心とする女人列も復興された。これにより、往時のように華やかで美しい行装が行われるようになって現在に至るとされている(現代では賀茂祭は京都三大祭の一つとして人気を集めている)。

関連リンク


賀茂祭(上賀茂神社)
葵祭(京都市観光協会)
葵祭(ウィキペディア)
賀茂神社の葵祭(人文研究見聞録)
アオイカツラノメヲマツリ(ほつまつたゑ 解読ガイド)

ヲシテ文献の記述


トヨタマヒメについて


・ハテスミの娘
・兄弟に、トヨツミヒコ(兄)・タケツミヒコ(弟)・オトタマヒメ(妹)がいる
 → トヨツミヒコ(カモタケスミ)はトヨタマヒメに付き添ってキタノツに向かい、後に河合を賜る
 → オトタマヒメは、ミツハメの社に籠もったトヨタマヒメの進言でヒコホオテミの妻となる
・ヒコホオテミの内宮となり、ウガヤフキアワセズを産んだ
 → この際、自らを恥じてヒコホオテミと距離を置く
 → ニニキネによって和解する
・ヒコホオテミと共にシノ宮で神上がり、ミヅハ宮 (貴船神社) に葬られる
 → 死後、アヰソロノカミという贈名を与えられる
 → 太古、船を創案した六人として六船霊の第六とされる

ヒコホオテミについて


・ニニキネとアシツヒメ (コノハナサクヤヒメ) の三男で、ホノアカリ、ホノススミの弟に当たる
・いくつかの名前がある
 → ヤマサチヒコ:常に狩を楽しんでいたため(海幸山幸の山幸彦)
 → ツクシヲキミ:ニニキネの治世において、ツクシ(九州)を統治していたことから(筑紫を統べる君)
 → ケヰノカミ(気比の神):ヒコホオテミの贈り名・縁結びの神
 → ミヲヤニツカフアマキミ:アマテルがホオテミに与えた名
・キタツに居た時、兄のホノススミ(海幸彦)と争って勝利する(海幸山幸神話)
 → ホノススミの釣鉤を無くしたことがキッカケで争いが生ずる
 → この時にトヨタマヒメと出会う
 → 釣鉤を見つけて返したが、兄は弟の功績を認めなかったため、武力を行使して兄を屈服させる(仲直りした)
・トヨタマヒメを内宮(正妻)として、ウガヤフキアワセズを生む
 → モトメ(コモリの娘)、イソヨリヒメを妻とする(後にイソヨリヒメをタケスミの妻として与える)
 → 結局、内宮に加え六局の后を揃えて十二后を成す
・ニニキネの皇位を継承し、コヤネを左臣・コモリ右臣とする 
・最後はトヨタマヒメと共に大津のシノ宮で神上がり、遺言により遺骸はイササワケ宮に葬られる

ニニキネについて


・オシホミミとタクハタチチヒメの二男で、クシタマホノアカリの弟に当たる
・タカヒコネの指導の下で馬術を覚え、馬の厳乗りを得たとされる
・ニハリの地に宮を立てる際、クシヒコを召して宮造りの法を定めさせた
 → 炎を吐くオコロ(土竜)にオコロカミの名を与えて宮を守らせた
 → 宮造りの法を定めたクシヒコにヲコヌシ(大国主)の名を与えた(これが大黒柱の由来となったという)
・ニハリの新宮に入る際にウツロヰに邪魔されたものの、罰を与えようとするアマテルからウツロヰを庇った
 → ウツロヰを庇ったことによって仲が親密となり、以後 東北の方角を守るはウツロヰノヲマサキミと定めた
・ニハリ宮からツクバ宮、フタアレへと遷宮し、それから6万年無事に治めたことから"ヰツノカミ"と称えられる
 → フタアレからニハリに戻った際には、今までの功績から"ヰツヲヲカミ"と称えられた
・アマテルに諸国開拓の巡幸を拒否された際、イセ周辺に井堰や堤を成して田に豊作を招いた
・イセ周辺の開拓の功績からアマテルより八州巡幸の詔が出され、諸国の壮大な開拓事業が始まる
・八州巡りが決まると、三種宝がニニキネに授けられることになる
 → これにより、カスガとコモリを左右の臣とし、諸臣を連れて壮大な土木開拓事業を行い始める
・八州巡りの途中でサルタヒコと出会い、サルタヒコの働きによってミカミヤマを造成した
 → この功績よりサルタに好むウスメとサルヘの名を与えた
・タチカラヲを召してハラミ山を中心に四方を開拓し、八つの湖を造成した
 → その後、天を築いた峰に写して伊豆浅間峰の造成した
・アシツヒメ(コノハナサクヤヒメ)を娶って、ホノアカリ、ホノススミ、ヒコホオテミの三つ子を儲けた
 → この際、一悶着あってアシツヒメと一時的に不仲になるが、後に正式な后として迎える
・八州巡りが一段落すると、アマテルより"ハラノヲキミ"の名を賜った
・ヤマクイにヒヱノヤマを造成させるなどの事業を成したことから、"ワケイカツチノアマキミ"の名を賜った
 → これはクニトコタチに代わる新たな功績を立てたニニキネを讃えて、アマテルが贈った尊称である
 → この後も引き続き諸国の開拓事業を進めたとされる
・ハラミ山の麓(富士山麓)のサカオリ宮をハラアサマ宮に改めて遷宮した
 → この後もニシナカクニ(中国地方)やツクシ(九州)の開拓も行っている
・子のヒコホオテミがトヨタマヒメと仲違いした際、ミツハメの社に出向いてトヨタマヒメを説得した
・晩年に死期が迫ると、ヒコホオテミに遺勅を遺してカゴシマに遷る
 → ここからアサマに昇る朝日に向かい、タカチホに沈む夕日と別れて過ごした(故にヒムカフクニという)
・タカチホの峰にて神上がると、ナルカミを別けて土を活かしたことから"ワケイカツチノスヘラカミ"と称えられた

※要約すると、壮年期には諸国の開拓事業を成功させ富士周辺を拠点に活躍し、晩年期には九州へ行きタカチホで没した

ヒコホオテミとトヨタマヒメの故事


賀茂神社(上賀茂・下鴨神社)および賀茂祭の歴史と『ホツマツタヱ』の記述を照らし合わせると、「ホツマツタヱ26文 産が屋 葵桂の文」にある「ヒコホオテミとトヨタマヒメの故事」が深く関連しているように思われます。以下が26文の要約です。

ニニキネが皇位を子のヒコホオテミに譲ろうとした時のこと、これは各地に伝えられ、ツクシ(九州)を治めていたヒコホオテミに御幸が求められた。

ニニキネの居るキタツ(敦賀)までは、オオカメ船ならば一ヶ月以上、カモ船であれば一ヶ月、オオワニ船であればすぐに着くという。また、当時 ヒコホオテミの后であるトヨタマヒメは妊娠していたため、ヒコホオテミは父・ニニキネを慮って自らは速いオオワニ船に乗って先にキタツに向かい、トヨタマヒメにはカモ船に乗せて後から来るように命じた。

この際、トヨタマヒメの出産時期が重なることから、予め松原(気比の松原)に産屋を建させておき、そこで待っているように命じていた。トヨタマヒメは その通りにしたが、キタツに着いた時には産屋は屋根も葺き終わっていない状態であり、やむなく未完成の産屋で御子を出産することになった。

産まれた御子は、コヤネ"カモヒト"と名付けられ、トヨタマヒメより"ナギサタケ ウガヤ フキアワセズ"の名が与えられた。なお、この名は、トヨタマヒメの出産までの経緯に由来する。

トヨタマヒメがキタツに向かている時のこと、途中でカモ船がチクラ(磐)にぶつかって壊れてしまい、船に乗っていたトヨタマヒメ・タケスミ・ホタカミらは諸共に渚に落ちてしまった。そこで、トヨタマヒメは猛心でタツやミツチの力を得て、泳いで磯に上陸した。この後、別の船でキタツに向かったのだが、トヨタマヒメは腹の御子のためとはいえ、ナギサ・タケの本性を現してしまったことを恥じていた。

トヨタマヒメが産屋に入った時のこと、これを聞いたヒコホオテミは心を躍らせながら松原に向かった。ヒコホオテミカツテカミより"妻が出産する際、夫は決して産屋を覗いてはならない"という古く重要な風習があることを聞いていたが、これを破って産屋を覗いてしまった。すると、中に居たトヨタマヒメは腹這いで装いも無い姿であったため、ヒコホオテミはそっと戸を閉めた。また、その音に気付いたトヨタマヒメは ここでも自らの姿を恥じた。

その後、トヨタマヒメは弟のタケスミと共に6月の禊をしてからヲニフ(遠敷)に到った。その際、今までの醜態を恥じていたトヨタマヒメは、御子を抱きながら「母は恥じています、もう会わないでおくれ」と言い、御子を棄ててワケツチ(賀茂)の北にあるミツハメの社(貴船神社)で休むことにした。

このことがニニキネの居るミヅホ宮に告げられると、トヨタマヒメを思い留まらせるためにホタカミが派遣された。命令を受けたホタカミはミツハメの社に向かってトヨタマヒメに返事を求めたが、音沙汰は無かったため、弟のタケスミに後を任せてミヅホ宮に事の次第を報告した。

すると、トヨタマヒメの家族であるツクシ(九州)のハテスミ(父)とオトタマヒメ(妹)に説得が命じられ、両名がミツハメの社に向かって説得を試みたが、トヨタマヒメは「御子はオトタマヒメに任せます」との返事をした。このため、ヒコホオテミオトタマヒメを娶って后とした。

この後、ニニキネは正式にヒコホオテミに譲位した。一方、トヨタマヒメについては、しばしば呼び出しに向かっていたものの、ミツハメの社を出ようとしなかった。

ヒコホオテミが皇位に就いた翌年、ニニキネはワケツチ(賀茂)の葵・桂を袖に掛けてミツハメの社に向かった。ニニキネが自らが訪れると、トヨタマヒメはようやく社から出てきた。

その時、ニニキネは葉を持って「これを何だ?」と問うと、トヨタマヒメは「葵葉でございます」と答えた。また、別の葉を持って「これは何だ?」と問うと、「桂葉でございます」と答えた。ニニキネが「いつ頃 果てるか?」と問うと、トヨタマヒメは「まだ果てないでしょう」と答えた。

そこで、ニニキネは「汝は世を棄てて道を外れるか?」と問うと、トヨタマヒメは畏れて「外れたくありませんが、渚を泳ぐ嘲りに腹這いの恥を重ねた身では内宮(帝の正妻)は務まらないでしょう」と答えた。

すると、ニニキネは「そなたが言う恥とは恥に似て恥にあらず、しかと聞け。産後は因み(因縁)を絶つもの、これは産後から元に戻るまでの75日掛かるためである。ヒコホオテミは予てよりカツテカミに忠告されていたにもかかわらず産屋を覗いてしまった。よって、この恥は そなたの恥では無く、ヒコホオテミの恥なのである」と言った。

また、ニニキネは話を続け「竜の子は千年海に棲んでタツタを知り、千年山に棲んでタツフルを知り、千年里に棲んでツクハナルを知るという。故に このミイキを悟って君(君主)となるのだ。そなたは渚に落ちて果てる間際、御種(孕み子)を慮って猛心を成して泳ぎ助かったのであろう、これによってハイキ(地活)を知った。そして、内宮になったことで嘲りを免れる、これによってアイキ(天活)を知った。そこで今一つ、葵・桂の妹背(夫婦の和合)を得ればヒトイキ(人活)を悟ることになるだろう。故、この三つを知ればタツキミ(竜君)の如く神となるのだ」と言い聞かせた。

ここでトヨタマヒメが「竜君とは何ですか?」と問うと、ニニキネは「竜はヒレ、三つを知る故にウロコキミである。カンツミ(上位)の存在があるという三つ(天地人)を知れば人は神となるのだ」と答えた。ニニキネの言葉を聞いたトヨタマヒメは、それ以降 恥や怖れを口にしなかった。

そして、トヨタマヒメニニキネミホツヒメ(ニニキネの叔母)の御幸に伴わせて送り出すと、ニニキネトヨタマヒメが気を留めたことに喜び、ミホツヒメも応えて頷き「太上君(ニニキネ)の心ある共感を得た君(ヒコホオテミ)と姫(トヨタマヒメ)は、日と月のように睦まじくなるでしょう」と言った。そこで、ニニキネタケスミに「トヨタマヒメを養え」と言ってカアヒ(河合・賀茂)の地を与えた。

ミツハメの社から戻ったニニキネは、ヒコホオテミへの遺言として「天に日月が照れば人も草にも影響し、暗になれば冷やしてしまう。地の君も同じく、暗になれば民は枯れてしまうだろう。汝は政を執り、コヤネ・コモリと共に治めよ。宮内の治はミホツヒメに任せよ」と伝えた。

この後、ニニキネはカゴシマ(鹿児島)に向かい、タカチホの峰で神上がった。ニニキネはナルカミ(雷)を別けて土を活かしたことから"ワケイカツチノスヘラカミ"と称された。ニニキネが崩御すると、ヒコホオテミは喪に入り、トヨタマヒメもワケツチヤマにて48回喪に服した。

その後、トヨタマヒメヒコホオテミの元へ戻ることになった。

これ以前のこと、トヨタマヒメは葵と桂を紙に包み、ミヒキグサを文箱に収めて奉っていた。ヒコホオテミが その文箱を開けると『沖つ鳥 上下を治むる 君ならで 世の事々を えやは防がん』という歌が入っていた。ヒコホオテミは この歌を三度詠むと涙をこぼし、膝に乗せた葵が裳に染みた。

そして、迎えの輿に乗ったトヨタマヒメの宮入りを喜び、葵を紋に写させて錦を織った。これより、"コアオイ"の御衣に"ココチリ"と"ヤマハトイロ"の三つの紋が成立し、神祭りの装いであるミハモ(御衣裳)にあしらわれることになった。

ホツマツタヱ26文「ヒコホオテミとトヨタマヒメの故事」のポイント


上記の「ヒコホオテミとトヨタマヒメの故事」の補足を以下にまとめておきます。

・上賀茂神社の主祭神である賀茂別雷大神は、ホツマではニニキネのことだと思われる
 → ホツマ24文に「ニニキネはイカツチ分けて恵みの神を生む功績から"ワケイカツチノアマキミ"の名を賜った」とある
 → ホツマ26文に「ニニキネは雷を別けて土を活かしたことから"ワケイカツチノスヘラカミ"と称えられた」とある
・貴船神社の社伝とホツマ26文ほかにおけるトヨタマヒメとの関わりに一致点が多い
 → 「『ホツマツタヱ』に見る 貴船神社」の備考を参照
・ホツマ26文には、ニニキネが葵・桂の喩えと以ってトヨタマヒメを説得した旨が記される
 → ホツマには「陰陽和合」という趣旨の教えが至る箇所に記されており、「葵・桂」も「陰・陽」の喩えの一つとされる
  ⇒ 桂と葵の葉は形が類似するが、桂は天に向かうことから男、葵は地に向かうことから女に比喩される
・下鴨神社の主祭神である賀茂建角身命は、ホツマではカモスミのことだと思われる
 → ホツマ26文に「ニニキネがカモスミにトヨタマヒメを養うよう命じ、カアヒ(河合・賀茂)を与えた」とある
 → 下鴨神社の主祭神である玉依姫命は、ホツマではカモスミの娘であり、後に白羽の矢から御子を産む(社伝に一致)
 → 河合神社 祭神の玉依姫命の父母は、ホツマではカモスミ・イソヨリヒメであり、両者はカアヒノカミとされる

ミカサフミの記述


『ミカサフミ』にも賀茂祭と同様の祭があったことが記されています。当文献では「アオイカツラノメヲマツリ」と呼ばれ、4月末に行われる夏の祭であったとされています。

輪の中に三光(三陽)の足が中心で結ぶ、これがカミカタチである。

メの嘗は大陰の水の女神が4月より、大陽を招き0陰4陽として夏を告げる。衣からワタヌキし、月の半ばのサビラキにイナルノカミを祀る。また、その末には"アオイカツラノメヲマツリ"を催行する。

5月には、葵の両葉上に和する露を舐めようとしてヱモキ・アヤメが伸長する。サツサ(端午の頃)はヰワタ(岩田帯)を締めて、馬の乗り比べを行う。そのときの馬は5尺5寸のツツタチの馬である。

※4月の末に"アオイカツラノメヲマツリ"を催行するとある。アオイカツラ(葵・桂)は陰陽の喩えであると考えられる

ヲシテ文献の対応箇所


『ホツマツタヱ』


ホツマツタヱ26文 産が屋 葵桂の文

『ミカサフミ』


ミカサフミ7文 嘗事の文:タのヲシテの形(夏前半について)【4】
ミカサフミ9文 年内になす事の文:タのヲシテの形【4】

備考


斎院について


伊勢神宮には、皇室から選ばれた未婚の皇族女子(内親王・女王)が神に奉仕するための巫女として捧げられる斎王(さいおう)という制度が古くからあり、これに倣って嵯峨天皇の御代(平安初期)に賀茂神社にも斎院(さいいん)が定められたとされます(斎王は総称であり、伊勢神宮の巫女は斎宮と呼ばれる)。

この斎院が定められる経緯として「嵯峨天皇が平城上皇と対立した際、賀茂大神に対して"我が方に利あらば、皇女を阿礼少女として捧げる"と、皇女を大神の巫女として捧げる旨を誓い、後に平城上皇との争いに勝利したことから、皇女の有智子内親王が初代賀茂斎院となった」という故事があり、これに基づいて始まり、鎌倉初期まで続けられたとされています。

賀茂祭の歴史について


『賀茂縁起』にある上賀茂神社・賀茂祭の起源には、ヲシテ文献である『ホツマツタヱ』『ミカサフミ』の記述と一致する点が多く含まれています。一般的な賀茂祭(葵祭)の解説においては省かれがちな記述であるため、ここにまとめて再度検証してみたいと思います。

【賀茂縁起による歴史】

『賀茂縁起』によれば、「太古に別雷神(ワケイカヅチ)が神山(こうやま)に降臨した際、神託によって奥山の賢木を取り阿礼(あれ)に立て、種々の綵色(いろあや)を飾って走馬を行い、葵楓(あおいかつら)の蔓(かずら)を装って祭を行った」とされ、これが上賀茂神社における祭祀の起源とされる。

【ヲシテ文献との比較】

・太古に別雷神(ワケイカヅチ)が神山(こうやま)に降臨した
 → ホツマにおいて、ニニキネはワケイカツチノカミと称えられている
 → ホツマにおいて、タマヨリヒメはワケツチ宮の軒に刺さった白羽の矢より懐妊し、ミケイリを産んだ
 → ホツマにおいて、白羽の矢はワケツチカミ(ニニキネ)であると云われるようになったとされる
  ⇒ 上記は「上賀茂神社の社伝」と「山城国風土記の記述」に一致する
・別雷神の降臨後、神託より賢木を阿礼に立てて、種々の綵色を飾って走馬を行い、葵楓の蔓を装って祭を行った
 → ホツマにおいて、ニニキネは夫婦別れしたトヨタマヒメを、葵・桂の喩えを以って説得した
  ⇒ この説話において、葵・桂はホツマの趣旨である陰陽和合に通じるものと取れる
  ⇒ ホツマ24文にも「カグツチ(火神)とミヅハメ(水神)の生んだ葵葉と桂」という陰陽を示唆する一節がある
 → ミカサにおいて、4月末にはアオイカツラノメヲマツリを催行するとあり、5月に馬の乗り比べを行うとある

料金: 無料
日時: 5月15日 10:30~15:40頃

公式サイト: https://www.kyokanko.or.jp/aoi/index.html