【意訳版現代語訳】地の巻 ホツマツタヱ27文 御祖神 船霊の文
ホツマツタヱ27文の現代語訳を「読みやすさ」と「まとまり」を重視して意訳しました。
詳細な逐語訳や原文を確認したい方は、冒頭のリンクから個別ページを参照してください。
ホツマツタヱ27文のあらすじ
ホオテミからウガヤ、さらにタケヒト(カンヤマトイワレヒコ)へと続く日嗣継承、諸国統治の整備、タマヨリヒメの神霊受胎、オホナムチの霊的体験、そしてウガヤの最期までを描く、皇統と地方の秩序が総括される文(あや)です。
1. ホオテミの治世と諸国統治の確立
ホオテミはコヤネ・コモリを左右に置き、三千のモノノベと八百万草(民)を治める。四国・東国・筑紫などに臣を派遣し、地方の政を整える。タケスミの婚姻やホノススミの系譜など、諸氏族の配置も進む。
2. クシタマホノアカリの薨去とニギハヤヒ(クニテル)への継承
ホノアカリとタマネヒメの間にクニテルとタケテルが誕生する。その後、アスカ国のテルヒコ(クシタマホノアカリ)が薨去し、アマテルは後継にクニテル(ニギハヤヒ)を任じる。十種宝の継承、喪祭、アスカの政の引継ぎが行われ、クニテルは新たな統治者として立つ。
3. ウガヤの即位・タマヨリヒメの神霊受胎・カンヤマトイワレヒコの誕生
ホオテミから三種宝を受け継いだウガヤは多賀宮を修復して即位する。代嗣に悩む中、タマヨリヒメが白羽の矢によって神霊(ワケイカツチ)を宿し、出雲の御子を生む。ウガヤはタマヨリヒメを娶り、ヰツセ・イナヰイ・カンヤマトイワレヒコをもうける。
4. オホナムチの霊験と地方秩序の再編、ウガヤの最期と日嗣継承
津軽を治めたオホナムチは、自らの守護霊クシヰワサタマと邂逅し、筑紫の後継問題の解決を示される。これによりクシミカタマがオオモノヌシの嗣子となり、地方秩序が整う。その後、ウガヤは筑紫巡幸を経て最期を迎え、白矢の璽と政の文をタケヒトに託して神上がる。タマヨリヒメも後に神となり、日嗣はタケヒトへと確立される。
5. ウガヤの巡幸・最期とタケヒトへの日嗣継承
ウガヤは筑紫を巡幸して民を潤し、老境に至ってタケヒト(イワレヒコ)に白矢の璽と政の文を託す。洞穴で神上がると、各地で異名の神として祀られ、タマヨリヒメも後に神となる。これにより、日嗣はタケヒトへと確立される。
意訳文
ホオテミの治世
この時、ミツホ宮ではトヨタマヒメが再び上ったことを喜んでいた。
ホオテミは、アマノコヤネとコモリを左右に侍らせて、三千人のモノノベや八百万草(多くの人民)を治めた。
これ以前は、ツミハ(コモリの二男)とタケフツ(コモリの十男)を召してイフキ宮(四国の政庁)から四国の二十四県を治めた。
ホツマチ(東)は、カシマオシクモ、ヒタカヒコ、ミシマミゾクイ(コモリの十一男)が、ハラアサマ宮から百枝県のモノノベ(県主)と共に豊かに治めた。
筑紫から使人を請う要請があったため、カンタチ(コモリの長男)をモノヌシとし、ハテツミと共に筑紫の三十二県を治めた。
このため、ツミハをカンタチ(モノヌシ)のコトシロヌシ(モノヌシ代行)として、アスカ宮に侍らせた。
タケツミが河合の領主となる
七月七日にイセムスヒ(婚礼の議)が行われ、ホオテミはカモタケスミに「私の后を汝の妻として与えようと思う。人選は任せよう」と詔があった。これに対し、タケスミは「畏れ多いことです。君に申すがままに受けましょう」と申し上げた。
そこで、ミホツヒメが「十二の局ありますが、我が孫にはスケ后のモトメ、ウチ侍のイソヨリが居ます。たくさん居る后の中でもイソヨリのことは知っているでしょう?」と言った。タケスミはミホツヒメの進言を父・コモリに聞いてみると父が頷いたので、タケスミはイソヨリを娶ることにした。
これを以ってタケスミは「カアヒノタチ(河合の領主)」となった。
ホノススミ、ホノアカリの子孫
ウカワ宮に座すホノススミは、コモリの娘のスセリヒメを娶って御子を生んだ。その御子の斎名はウツヒコと言った。
これ以前、スセリヒメの姉のタマネヒメはハラヲキミ(ホノアカリ)の内宮となった。また、ミゾクイの娘のイクタマヒメはスケ后、イクヨリヒメはウチ侍となった。
内宮のタマネヒメが「クニテル」と「タケテル」を生むと、ナツメが産着を作った。この産着の紋様である「サイワヒビシ」には、アシツヒメの出産故事に因む次のようないわれがある。
昔、アシツヒメのウツムロ(戸を塞いだ室)を囲む竹が焦げた。これを棄てるとマダラタケ(斑竹)が生えてきたので、これを模写して紋とし、御衣の名も「サイアイヘシ」となった。そして、イモセノミハ(婚礼衣装)と産着に用いるようになったのが起源である。
なお、へその緒を切る竹もマダラタケである。
アスカ国をホノアカリの御子のクニテル(ニギハヤヒ)に引継ぐ
その後、アスカの宮のテルヒコ(クシタマホノアカリ)が薨去した。
イセにてアマテルの傍に侍るチチヒメ(テルヒコの母)は、アスカの後任を決めるアマテルの詔を聞くことにした。この時、テルヒコには御子が無かったことから、チチヒメは「代嗣は無かったか…」と嘆いていた。
アマテルはアスカの後任について次のように詔した。
「ハラアサマ宮の『クニテル』をアスカの後任とする。ゆえに『アマテラスニキハヤヒキミ』と名乗るべし」
そして、テルヒコの喪に入り、シラニハムラ(イカルカ宮のあった地)にミハカ(御陵)を造成した。
その後、クニテルはトグサタカラ(十種神宝)を譲り受けた。なお、テルヒコのトシメグルヒ(回忌)には喪に入り、「アスカノカミ」として祀った。
テルヒコ(クシタマホノアカリ)からクニテル(ニギハヤヒ)への流れ
以前、テルヒコ(クシタマホノアカリ)には御子が無かった。そこで、右臣のカグヤマツミが娘のアメミチヒメを妻として迎えさせ、さらにその兄のタクリ(カゴヤマ)の子のタカクラマロを猶子(名義上の子)とした。
しかし、テルヒコの后のハツセヒメは、それが臣の子であることを妬み、アメミチヒメとタカクラマロの二人を追い出してしまった。これがテルヒコの怒りを買い、ハツセヒメは棄てられてしまった。
その後、クニテル(ニギハヤヒ)が「カグヤマヲキミ」となった。この時、追い出されたアメミチヒメとタカクラマロを呼び戻したが、タカクラマロは来なかった。
クニテルは、テルヒコの左臣であったフトタマの孫のミカシヤヒメを妻とした。その間に御子であるウマシマチを儲け、ミカシヤヒメの兄のナガスネヒコをオモノトミ(重臣)とした。
ウガヤへの皇位継承
都のミツホ宮では、ホオテミ夫婦は仲睦まじく八百日を過ごし、ツクシ宮では十八万年、即位してからは四十一万年を経るまで統治した。
ホオテミはアメヒツキ(帝位)を譲ろうと思ってウガヤを召すと、ウガヤはヲニフ(遠敷)からミヅホ宮に御幸した。その際、ウガヤは中に座し、左にはコヤネ、右にはコモリを侍らせていた。
天君(ホオテミ)は自ら「ミハタノフミ(三種の宝物の一つである文)」をウガヤに譲り渡した。また、トヨタマヒメは「ヤタノカカミ」を捧げ持ってコヤネに授け、モトメは「ヤヱガキノタチ」を捧げ持ってコモリに授けた。
これにより、君と臣が三種宝を謹んで継承した。
ホオテミとトヨタマヒメの埋葬
天君(ホオテミ)と后(トヨタマ)は諸共に大津のシノ宮に下り、この地で神となった。42鈴850枝際年ネウトの八月四日には、君の喪祭であるヨソヤ(四十八夜)も済んだ。
ホオテミの遺言により、遺骸はイササワケ宮に葬られて「ケヰノカミ」と称されるようになった。この由縁は、シホツチ翁に契機を得て釣針を得た故事にちなむ「カトテノケヰ(開運)」に基くものである。
トヨタマヒメは遺骸をミツハ宮(ミツハメの社=貴船神社)に葬られた。これは、かつて渚に落ちた時に誓約して「ミソロノタツの霊魂」を得たためであり、葬られた後の名も「アヰソロノカミ」とされた。この神は田水を守り、船を生む。キフネの神はフナタマ(船霊)であろう。
船霊神の由来
船は、往古にシマツヒコが造ったことに始まる。
・シマツヒコは朽木に乗った鵜の鳥が安曇川を行くのを見て、筏と棹を造って船とした
・シマツヒコの子のオキツヒコは、鴨を見て櫂を造った
・シマツヒコの孫のシガは、ホワニ(ワニ船)を造った
・シマツヒコの七代孫のカナサキは、オカメ(カメ船)を造った
・カナサキの孫のハテカミの子のトヨタマヒメは、水を守り船を造る神となった
この六名を「ムツフナタマ(六船霊)」という。
ウガヤが多賀で帝位に就く
三種宝を受け継いだウガヤは次のように詔をした。
「多賀は二尊(イサナギ・イサナミ)のハツノミヤ(最期の宮)である。今は破損が見られるため、これを造り替えてミツホ宮から遷宮し、二尊を常に拝もうと思う」
この詔により、イシヘ(敷地の整備する民)を召して地を引かせ、オオヤ(大工)に宮を改修させた。多賀宮の修繕が終わると遷宮が行われてウガヤが帝位に就いた。この時のウガヤの装いは、綾織に錦織を着て、珠・冠・佩・沓で身を飾るというハラノノリ(ハラの法)に則った華やかなものであった。
そして、その翌日に大御宝(民)に拝ませて祝福を受けた。
キアト夏、ウガヤが帝位に就いたことがイセに告げられると、アマテルはトカクシを召して次のような詔を発した。
「我が子孫が、タガの古宮を造り替えて都を遷した。天の二尊に継いでワノフタカミ(地の二尊)となるがよい。
私も昔、アメノミチ(陽陰和合の道理)を得た。そこで、ウガヤにアメノミチを得るための『カグノフミ・ミヲヤモアミ(橘の文・御祖百編)』を授けて『ミヲヤアマキミ(御祖天君)』の名を与えよう。
この心は、地上の君が万の政を聞く時には神も下って敬うゆえ、神の御祖なのである。君がこの道に沿って地を治めれば、子が親を慕う如く、百司もこの道に習うであろう、ゆえにこれも御祖である。
また、この梢(末端)である民を恵んで我が子のように撫でれば、人草にも御祖の心が伝わるであろう。これらのことは渾然として『モモノヲシテ(御祖百編のこと)』の中にある。
しかし、紋(経緯)が曖昧であればアチ(味=本質)は見えないであろう。錦の紋を織る如く、ヨコベ・ツウヂに経糸を分ければ、道の見えない所を明瞭にする。カスガ・コモリの左右の臣が共にアチを知れば、アマツヒツキの繁栄は、たとえ天地が暮れようと限りは無いだろう」
このようにアマテルの詔が奏上され、トガクシが去る時にウガヤも次のように詔した。
「冬至の日に大嘗会が催され、アマカミ(天尊)によって代々治められていた治世がスヘラカミ(地尊)に移る。ユキ宮・スキの宮では、山海の幸を司る神々とソロ(稲)を守るト尊の神霊はハニスキノナメヱ(新嘗会)に付随して祀られる。これにより、人草(人民)の幸の祝福が祈られるのである」
ウガヤの治世と代嗣の悩み
ウガヤは常にタダスの殿に座し、そこから遍く統治すると、民も豊かな日々を送ることができた。サクスズとなる六万年を経るごとにマサカキ(真榊)を植え継いで七鈴(四十二万年)に及んだが、なお豊かであった。
49鈴911枝初穂キアヱの一月三日のこと、コヤネが次のように申し上げた。
「君は今、御祖の道に則って治められておられます。それゆえに人草(民)の親をはじめ、天地の神も従う『ミヲヤカミ(御祖神)』となっております。しかし、ヨヨノミヲヤ(幾代の流れの源泉)を受け継ぐ代嗣子がおりません。十二の后をいかがしましょうか?」
ウガヤはこれに答えて言った。
「私もそれを考えていたが、齢は既に13鈴(78万歳)となった。ここまで年老いてしまっては、種もないであろう」
それにコモリが答えて「その対策はヨツギフミにあります」と申し上げた。
そこで、ウガヤはそれを実践すべく、アマノオシクモを召して代嗣社を造らせた。
ヰツセの誕生
代嗣社が完成した際、オシクモから「ナアテ(名宛)がありません」との申し出があった。
そこで、コヤネがフトマニで占い、その結果を次のように述べた。
「ヤセヒメが良いかもしれません。フトマニにおける『ヲヤマ』のいわれを見ると、真ん中の文字が『ヤ』となります。フトマニにおける『シハラ』は母として孕むことを意味しております。ゆえに『ヤ』を中心とする局を成す、あるいはウチ侍か中の位とするのが良いでしょう」
これにより、ウガヤは年の若いヤセヒメを娶って内宮とした。また、その他の十一后も用意すると、皆に祝福された。そして、オシクモに清めさせた代嗣社に祈ると、その甲斐があってヤセヒメは懐妊した。
なお、懐妊から十五ヵ月後に生んだことから御子は「ヰツセ」の君と名付けられた。
しかし、ヤセヒメは宮に入る前に亡くなってしまい、神となった。
タマヨリヒメとワケイカツチの子
ヰツセに与える乳が無かったため、これを告げ尋ねるとタマヨリヒメの話が出てきた。
以前のこと、カモタケズミとイソヨリヒメには13鈴(78万年)も子が無かった。そのため、ワケツチカミ(ニニキネ)に子宝を祈りに行った。すると、その夜に見た夢の中で「タマ」を賜った。その後、二人の間には子が出来たので、生んだ後にタマに因んだ「タマヨリヒメ」と名付けたという。
二人はタマヨリヒメを養育し、齢が14鈴(84万年)となったときに共に神となり、「カアヒノカミ」と呼ばれた。
タマヨリヒメは両親の喪祭を成した後、ただ一人でワケツチカミ(ニニキネ)に参詣した。そこで斎を捧げると、ウツロイが疑って「汝が一人がワケツチカミに仕えるのか?」と尋ねてきたので、タマヨリヒメは「違います」と答えた。
ウツロイは再び「この世に交わるのか?」と尋ねてきたので、タマヨリヒメは「あなたが何者かも知らず、どうして威嚇するのかもわかりませんが、私は神の子です」と答えた。
すると、ウツロイは跳び上がり、ナルカミ(雷)を落して去って行った。
ある日、タマヨリヒメがワケツチ宮に詣でて禊をしていると「白羽の矢」が軒に刺さった。すると、タマヨリヒメの月経が止まって子を孕み、後に男児が誕生した。
タマヨリヒメがその子を育てて三歳になった時、子が弓を指して「あれが父です」というと、矢が天空に昇って行った。それから、その矢は「ワケイカツチの神である」という話が世に響き渡った。
タマヨリヒメは娶ってくれる者を請うたが、諸守に頷く者はいなかった。そのため、タマヨリヒメと御子は高野の森に隠れ住み、そこに「ワケイカツチの祠」を成し、常にワケイカツチの御影を祀ったという。
出雲の御子
その後、ヰツセの乳を求める御告れを出すと、次のような報告があった。
「ヒヱ(比叡山)の麓に姫が居り、乳の出が良いために民の痩乳を助けているそうです。この噂によれば、姫の乳を飲んだ子はたちまち肥えると言います。また、この姫は昔、神の子と云われていましたが、今は森に隠れ住んでいるそうです。この森は五色の雲が起こることからイツモチモリ(出雲路森)と名付けられています。諸守は参ろうとしないので、サオシカ(使者)を派遣するのが良いでしょう」
この進言により、コモリの子のイワクラが派遣されることになった。
イワクラは姫の元を訪ねていき、君の元に来るように頼んだが、姫はそれに応じなかった。帰ってこれを報告すると、ヤマクイが出てきて次のように進言した。
「ヲシカト(君の代理人としての使者)でなければ応じないでしょう。その理由は、姫が森を離れればワケツチカミ(ニニキネ)を常に祀ることができなくなるからです」
すると、詔によってヤマクイが御使人として派遣された。
そして、ヤマクイが母子(タマヨリヒメと御子)を召して宮に上げ、ウガヤが母子にウヂナ(氏名)を尋ねると、姫は次のように答えた。
「私の親はタケスミとイソヨリヒメです。私の名前は両親によってタマヨリヒメと名付けられ、ハテカミの孫に当たります。この子に父は無く、神によって生まれました。父が無ければ斎名は付きません。そのため、人はイヅモノミコ(出雲の御子)と呼んでいます」
カンヤマトイワレヒコの誕生
ウガヤは、言葉も美しく、透き通った珠のように輝く容姿であったタマヨリヒメを娶り、ウチツボネ(内局)とする詔を発した。そして、タマヨリヒメは自らの母乳でヰツセを養育した。これに伴い、連れ子も「ミケイリ」と名付けられ、御子として扱われた。
また、ウガヤとタマヨリヒメの間に出来た子は「イナヰイ」の君と名付けられた。その後、タマヨリヒメはウガヤの内宮となった。
この後に生まれた御子は「カンヤマトイワレヒコ」のミコトと名付けられた。その時、アメタネコが「タケヒト」という斎名を奉った。
天君(ウガヤ)はタケヒトに詔し、次のようなツツノミウタ(御歌)を贈った。
『これヲシテ 豊綜る機の 連根にそなせ』
(タケヒトは皇の璽、幾代の大政事を成す土台となれ)
ウガヤ朝の地方の様子(四国・九州)
こうなる以前のこと、コヤネの左臣退任に伴い、ハラ宮のオシクモをタガ宮に召して左臣とした。
また、オシクモの弟のヒタチは若いため、阿波のコトシロヌシ(ツミハ)に預けた。オシクモはハラ宮のミシマミゾクイと「ハラカラ(仲の睦まじい兄弟のような)」の仲であったため、互いに西と東に通って勤め、その釣り合いを取った。
ツミハヤヱコトシロヌシ(ツミハ)は、ミシマ(大阪府三島郡)を経由してハラ(静岡県三島市)に行き、またミシマからイヨ(伊予)に行った。また、ツミハはミシマミゾクイの娘のタマクシヒメを娶って間に子を儲けた。
これにより、ワニ(船)に乗って阿波に帰ることになったが、その途中で子が生まれた。その子は斎名をワニヒコと言い、名前をクシミカタマという。また、次の子は斎名をナカヒコと言い、名前をクシナシという。クシミカタマは後にアオカキトノ(青垣殿)に住むことになる。
また、以前に筑紫のカンタチは、ソヲ(今の宮崎県と鹿児島県を合わせた地域)のフナツの娘のフトミミをヤス(筑前国の夜須)で娶ってフキネを生んだ。
この後、カンタチとフトミミは諸共に神となった。
コモリとカンタチの亡き後は、フキネがオオモノヌシとなり、トヨツミヒコと共に筑紫の三十二県を治めた。また、筑紫でノワサ(土木作業)を教えて民を潤わせた。
オホナムチとクシヰワサタマ
ヒスミ(津軽)を一人で治めたオホナムチは、自らを褒めて次のように述べた。
「葦の根さえ基から祓い除き、岩の根さえも全て潰した。このように治める者は、幾万年経ても他に現れてはいないだろう」
すると、海原から光るものが現れて「我があればこその汝である、ゆえに汝は大凡に成功したのだ」と言ったので、オホナムチが素性を尋ねると「我は汝のサキミタマ(守護霊)の『クシヰワサタマ』である」と答えた。
オホナムチは疑いつつ「さて?そのような者は知らぬ。祀ってやろうと思うがサキミタマはどこに住む?」と言うと、光は「否、神はどこにも住まぬ」と答えたので、オホナムチは「ならば、汝をアオカキヤマ(三輪山)に住ませようと思う」と言って、青垣山に宮を造ってそこに祀った。
その後、神(クシヰワサタマ)はオホナムチに次のような助言をした。
「オオモノヌシ(フキネ)には子が無きゆえ、やがて乱れることになるだろう。そのため、コトシロヌシ(ツミハ)の兄弟の子(カンタチの子・フキネ)は、クシミカタマを貰い受けて、オオモノヌシの嗣子とするべし」
オホナムチがこれをフキネに伝えると、フキネは神の教えに従ってミモロ(三輪)の傍にアオカキトノ(青垣殿)を造り上げた。その後、ツミハに養子を乞うてクシミカタマを我が子とし、妻のサシクニワカメと共に青垣殿に住まわせた。
そして、フキネはオオモノヌシとして筑紫を治めた。
フキネが果てる時、クシミカタマがオオモノヌシを引き継ぐことになった。フキネの臨終の際に妻子が駆け付けると、フキネは次のような遺言を残した。
「このムラクモツルギは、生まれてくる君の御子(タケヒト)の祝として捧げるべし」
その後、フキネは夫婦共々に神となった。
フキネの遺骸はヤス(筑前国の夜須)に納められ、喪祭の後にクシミカタマにツクシヲシカ(筑紫の大使)を任ずる詔が告げられた。この後、クシナシも神となった。そのため、クシミカタマは母のタマクシヒメに御使の辞任を頼まれて、これを受け入れた。
ゆえに、ウガヤは筑紫への御幸を請われた。
ウガヤによるツクシ巡幸
時に、ウガヤからヰツセに次のような詔があった。
「ヰツセはタガノヲキミ(多賀におけるウガヤの代理)となるべし。そして、オシクモとクシミカタマを左右の臣とせよ。また、アメタネコは御子のオオンモリ(幼少の皇太子の守役)とせよ。御子のタケヒト(イワレヒコ)は、まだ五歳である。そのため、イワクラは宮内の局を預かるのだ」
ヰツセに詔をした後、ウガヤは筑紫に御幸した。
まず、オカメ(船)を召してムロツ(室津)からウド(鵜戸)の浜に到り、カゴシマ宮に入った。そこで筑紫の三十二県の守に巡幸を請われれば、それに沿って廻って恵み、ツクシの荒廃を直して行った。
ウガヤが筑紫を治めると「皆が治まるのも、ワケツチカミ(ニニキネ)の功績である」と言い残して帰った。
これにより、十年間は民も賑わい、万歳を歌った。
ウガヤの最期
ウガヤがミヤサキ(宮崎)で休んでいる間に、齢も老いて最期の時も近づいてきた。
これを早雉がタガに告げると皆は驚き、タケヒトとアメタネコが直ちに西宮に向かった。そして、西宮からオオワニ(船)に乗ってウド(鵜戸)の浜に着き、遂にミヤサキ宮に到った。ミヤサキ宮にて、ウガヤがタケヒトらが会うと、そこで最期の詔を告げた。
「タケヒトもタネコもしかと聞くがよい。私はつくづく思っていたが、人草(民)の食糧が豊富であったゆえ、こうして永らく生きられてきた。齢も千や百を超えれば身体は萎え枯れるが、世の楽しみは八十万年でも百年でも同じである。
もしアマテル神が還ってしまえば、アノミチ(天の道)を守る人も無くなるだろう。ゆえに諸人が敬う神も無くなるのだ。そうなれば、汝ら二人も永らえず、ヰツセは子無しのままであろう。
よって、タケヒトがヨヨノミヲヤ(幾代の上祖)となり、タネコ達も干支の六十環が巡る間に妻を迎えて代嗣を成せ。タケヒトが十五歳になったとき、タネコの助けを得て、私に代わって世を治めよ。
この『シラヤノヲシデ(白矢の璽=天御子の証)』はタケヒトに譲り、『クニオシラスルモモノフミ(御祖百編のこと)』はタネコに譲ろう。
我が意向は、鏡はオシクモに、八重垣剣はワニヒコ(クシミカタマ)を授けることである。また、鏡と剣はタマヨリヒメが預かって、ワケツチ宮に納め置くことにせよ。ホツマ(調和)が成る時とは、自ずから三種の宝が集ったタケヒトをミヲヤとするのがホツマであるぞ」
ウガヤはこのように詔すると、ミヤサキ山の洞穴に入って「アカンタヒラ(我が神霊の帰還の意)」と言って神上がった。
タケヒトが喪を務め、四十八夜を済ませた後、筑紫の三十二県の守が集まってウガヤを「ツクシスヘラキ」と称えた。また、この事がタガ宮に告げられると喪に入り、ウガヤは「ヒウガノカミ」として祀られた。また、ヲニフ(遠敷)にてウガヤが祀られれば「カモノカミ」と称えられ、アヒラツ山(ミヤサキ山)では「ミヲヤカミ」と称えられた。
その後、タマヨリヒメも神上がり、河合で併せて「ミヲヤカミ」として祀られ、メヲノカミ(夫婦神)として有名になった。
注釈
登場人物
・アマテル:『記紀』の天照大神に比定。八代君主の男尊。創造神アメミヲヤの顕現
・ホオテミ:『日本書紀』の彦火火出見尊に比定。ニニキネとアシツ姫の三男。斎名はウツキネ
・トヨタマヒメ:『記紀』の豊玉姫に比定。ハテツミの長女。ホオテミの内宮
・アマノコヤネ:『記紀』の天児屋命に比定。カスガカミ。ニニキネ~ウガヤの左臣
・コモリ:神社祭神の子守神に比定。クシヒコの子。ニニキネ~ウガヤの右臣。三代目オオモノヌシ
・ツミハ:神社祭神の積羽八重事代主命に比定。コモリの次男。阿波のコトシロヌシ
・タケフツ:建布都神社祭神の建布都神に比定。コモリの九男
・オシクモ:神社祭神の天押雲根命に比定。コヤネの長男。アメタネコの父
・ヒタカヒコ(ヒタチ):コヤネの二男
・ミシマミゾクイ:『記紀』の三島溝橛耳に比定。コモリの第十一男
・カンタチ:神社祭神の天神立命に比定。コモリの長男。フキネの父
・フキネ:神社祭神の天之葺根命に比定。カンタチとフトミミの子。四代目オオモノヌシ
・ハテツミ:『記紀』の海神(豊玉彦)に比定。スミヨシの孫。トヨタマヒメらの父
・ミホツヒメ:『日本書紀』の三穂津姫に比定。タカキネの娘。クシヒコの妻
・タケスミ:神社祭神の賀茂建角身命に比定。ハテツミの二男。トヨタマヒメの弟
・イソヨリヒメ:コモリの三女。ホオテミの后だったが、詔でタケスミの妻とされる
・モトメ:コモリの長女。ホホデミの典侍后
・ホノススミ:『古事記』の火須勢理命に比定。ニニキネとアシツ姫の二男。斎名はサクラギ
・スセリヒメ:コモリの六女。ホノススミの妻。ウツヒコの母(ソサノヲの娘とは異なる)
・ホノアカリ:『日本書紀』の火明命に比定。ニニキネとアシツ姫の長男。斎名はムメヒト
・タマネヒメ:コモリの二女。ホノアカリの妻。クニテル(ニギハヤヒ)・タケテルの母
・クニテル(ニギハヤヒ):『記紀』の饒速日命に比定。ホノアカリの長男。テルヒコの後任となる
・タケテル:神社祭神の武日照命に比定。ホノアカリの二男
・アシツヒメ:『日本書紀』の神吾田鹿葦津姫に比定。ニニキネの内宮。別名コノハナサクヤヒメ
・テルヒコ(クシタマホノアカリ):『記紀』の天火明命に比定。オシホミミの長男。アマテルの孫
・カグヤマツミ:オオヤマカグツミの子。テルヒコの右臣
・アメミチヒメ:『旧事紀』の天道日女命に比定。カグヤマツミの娘。クシタマホノアカリの妻
・タカクラマロ:『記紀』の高倉下、『旧事紀』の天香語山命に比定。タクリ(カゴヤマ)の子
・ハツセヒメ:トヨマドの娘。クシタマホノアカリの二番目の内宮
・フトタマ:『記紀』の太玉命に比定。タカギの子。テルヒコの左臣
・ミカシヤヒメ:『記紀』の三炊屋媛に比定。フトダマの孫。ナガスネヒコの妹。ニギハヤヒの后
・ウマシマチ:『記紀』の宇摩志麻遅命に比定。ニギハヤヒの御子
・ナガスネヒコ:『記紀』の長髄彦に比定。フトダマの孫。ニギハヤヒの重臣
・ウガヤ:『記紀』の彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊に比定。ホオテミの御子。斎名はカモヒト
・シホツチ翁:『記紀』の塩土老翁に比定。シホカマとは別人とされる
・シマツヒコ:カナサキ・ムナカタ・アツミの祖。オキツヒコの父。船を作ったとされる
・オキツヒコ:シマツヒコの子。櫂を考案したとされる
・シガ:シマツヒコの孫でオキツヒコの子。帆船を考案したとされる
・カナサキ:神社祭神の住吉神に比定。シマツヒコの七世孫。ハヤアキツヒメの父
・トカクシ:不明。アマテルの詔を伝える御使
・ヰツセ:『記紀』の五瀬命に比定。ウガヤとヤセヒメの御子
・タマヨリヒメ:『記紀』の玉依姫に比定。タケズミとイソヨリ姫の娘。ウガヤの内宮となる
・ワケツチカミ:神社祭神の賀茂別雷大神に比定。アマテルの孫・ニニキネの神名
・ウツロイ:方位神の大将軍に比定。空を司る自然神。ニニキネに救われた恩がある
・イワクラ:神社祭神の石椋孫神に比定。コモリの十三男
・ヤマクイ:『古事記』の大山咋神に比定。オオトシクラムスビの子
・ミケイリ:『記紀』の三毛入野命に比定。タマヨリヒメとワケツチ神の子
・イナヰイ:『記紀』の稲飯命に比定。ウガヤとタマヨリヒメの御子
・カンヤマトイワレヒコ:『記紀』の神日本磐余彦に比定。ウガヤとタマヨリヒメの日嗣の御子
・タマクシヒメ:神社祭神の玉櫛姫命に比定。ミゾクイの娘。ツミハの妻。クシミカタマの母
・クシミカタマ:大神神社祭神の倭大物主櫛甕魂命に比定。ツミハの子。五代目オオモノヌシ
・フトミミ:カンタチの妻。フキネの母
・トヨツミヒコ:ハテツミの長男。トヨタマヒメの兄
・オホナムチ:『記紀』の大己貴神に比定。ソサノヲの三男。出雲を手放した後は津軽を得る
・クシヰワサタマ:オホナムチのサキミタマ(守護霊的存在)とされる
・サシクニワカメ:神社祭神の刺国若比売命に比定。フキネの妻
・アメタネコ:『日本書紀』の天種子命に比定。コヤネの孫。オシクモの子
関連社
・金刀比羅宮:ホツマにおける「イフキ宮」に比定
・創建年:不明
・主祭神:大物主神、崇徳天皇
・所在地:香川県仲多度郡琴平町892-1
・氣比神宮:ホツマにおける「イササワケ宮」に比定
・創建年:伝・仲哀天皇8年
・主祭神:伊奢沙別命、仲哀天皇、神功皇后
・所在地:福井県敦賀市曙町11-68
・貴船神社:ホツマにおける「ミツハメの社」に比定
・創建年:伝・反正天皇の御代
・主祭神:高龗神
・所在地:京都府京都市左京区鞍馬貴船町180
・多賀大社:ホツマにおける「タガ宮」に比定
・創建年:不明
・主祭神:伊邪那岐命、伊邪那美命
・所在地:滋賀県犬上郡多賀町多賀604
・賀茂別雷神社:ホツマにおける「ワケツチ宮」に比定
・別 名:上賀茂神社
・創建年:伝・天武天皇6年
・主祭神:賀茂別雷大神
・所在地:京都府京都市北区上賀茂本山339
・大神神社:ホツマにおける「青垣山の宮」に比定
・別 名:三輪明神
・創建年:不詳(有史以前)
・主祭神:大物主大神
・所在地:奈良県桜井市三輪1422
・高宮神社:ホツマにおける「青垣山の宮」に比定
・創建年:不明
・主祭神:日向御子神(あるいは大物主大神の幸魂奇魂)
・所在地:奈良県桜井市三輪1330
・神坐日向神社:ホツマにおける「青垣殿」に比定
・創建年:不明
・主祭神:櫛御方命、飯肩巣見命、建甕槌命
・所在地:奈良県桜井市三輪123
・賀茂御祖神社:ホツマにおける「ミヲヤカミ」の関連地に比定
・別 名:下鴨神社
・創建年:不明
・主祭神:玉依姫命、賀茂建角身命
・所在地:京都府京都市左京区下鴨泉川町59
・河合神社:ホツマにおける「カアヒノカミ」の関連地に比定
・創建年:不明
・主祭神:玉依姫命
・所在地:京都府京都市左京区下鴨泉川町59
・宮﨑神宮:ホツマにおける「ミヤサキ宮」に比定
・別 名:神武さま
・創建年:不明
・主祭神:神日本磐余彦尊
・所在地:宮崎県宮崎市神宮二丁目4-1
※ホツマツタヱの記述との対応関係に基づく解釈
関連知識
ニギハヤヒについて
ホツマにおける「ニギハヤヒ」は、ホノアカリとタマネヒメの子として登場します。アスカを治めていた「クシタマホノアカリ」が薨去した際、アマテルの詔によってアスカ央君の後任に任命され、十種神宝などを継承して「カグヤマ央君」と名を改め、大和地方の統治者となります。
一方『記紀』にも登場しますが、その名や行動には揺れがあり、必ずしも統一的ではありません。共通する点は「天磐船で天降ること」「神武東征時に長髄彦の主君として登場すること」です。
また『旧事紀』では記述が格段に詳しく、その内容も『記紀』とは一線を画します。まず神名が「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」とされ、瓊々杵尊の兄神として先に大和地方の嗜ヶ峰に天降ったと記されます。さらに、天降る際に天照大神より十種神宝と布瑠の言を授けられたとされ、物部氏の祖神として強く位置づけられています。このため、ニギハヤヒに関しては『旧事紀』が最も詳しい文献とされますが、ホツマの記述を見ると、さらに細かい政治的背景が描かれています。
具体的な違いを挙げると、ホツマにおいてニニキネの兄とされるのはクシタマホノアカリであり、この兄がニニキネに先んじて大和地方に向かいアスカ央君となります。この際に十種神宝や布瑠の言も授けられており、『旧事紀』の記述と一致します(20文参照)。
その後、クシタマホノアカリは政がうまくいかず、世継ぎも儲けることができなかったため、実子に帝位を譲ることなく薨去します。このため、ホノアカリの子であるニギハヤヒが後任として据えられるという流れになります。つまり、『旧事紀』において同一視される「天火明命(ホアカリ)」と「饒速日尊(ニギハヤヒ)」は、ホツマでは明確に別人として描かれているということです。ここが既存の史料と最も異なる点だと言えます。
タマヨリヒメの説話について(山城国風土記との酷似)
ホツマにおける「タマヨリヒメ」は、両親であるカモタケズミとイソヨリヒメが不妊に悩んでいた際に「ワケツチカミ(ニニキネ)」に子宝を祈った後に生まれた子で、母が夢で「タマ(珠)」を賜ったことから誕生したとされています。
そのため、誕生のきっかけとなった「ワケツチカミ(ニニキネ)」を祀るワケツチ宮を崇敬しており、ウツロイが現れて出自を問われた際にも「神の子」であると答えて、普通の者ではないことを自認しているような描写が記されます。
その後、いつも通りにワケツチ宮に参詣すると軒先に「白羽の矢」が刺さり、それが契機となって処女懐妊し、男児を出産します。その男児は「白羽の矢」を指して父であると言うなど、普通ではない誕生の仕方をするという説話が記されています。
この説話は『山城国風土記』逸文に見える「賀茂社」の縁起と非常によく似ており、矢による処女懐妊、神の子の誕生、母の神託体験など、構造的な共通点が多く見られます。詳細な内容は異なるものの、比較する価値があるため、以下に風土記の意訳文を記しておきます。
【山城国風土記 逸文】
賀茂社
「賀茂」と称する理由は、日向の曾(そ)の峰に天降り座した神・賀茂建角身命(かもたけつみのみこと)によるものである。この神は、神武東征の際に神倭石余彦(神武天皇)の先導に立ち、大和国の葛木山の峰に宿られた。
そこから次第に遷り、山代国の岡田の賀茂に至り、山代河(木津川)に従って下り、葛野河と賀茂河が合流する地点に至った。そこで賀茂川を見回して、こう言われた。
「川幅は狭いが、石川(清らかな石の川)であり、清らかな川である」
それゆえ、その地を「石川の瀬見の小川」と名付けた。そこから川を上り、久我国の北山の麓を安住の地と定められた。その時から、この地を「賀茂」と名付けたのである。
賀茂建角身命は、丹波国の神野の神である神伊可古夜日女(かみいかこやひめ)を娶り、一男一女を儲けた。兄は玉依彦(たまよりひこ)、次は玉依姫(たまよりひめ)という。
玉依日売が石川の瀬見の小川で川遊びをしていた時、丹塗矢(にぬりや)が川上から流れてきた。姫はそれを取って床の辺に挿し置いたところ、やがて孕んで男子を生んだ。
その子が成人した時、外祖父(母方の祖父)である建角身命は八尋屋(広い建物)を造り、八枚の扉を立て、八腹の酒(何度も醸した強い酒)を造って、八百万の神々を集めて七日七夜にわたり楽み遊んだ。そして、その子(孫)に向かってこう言った。
「お前が自分の父だと思う者に、この酒を飲ませなさい」
すると、その子は酒杯を捧げ持ち、天に向かって祭を成し、屋根を突き破って天へと昇ってしまった。それゆえ、外祖父の名にちなんで可茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)と呼ぶのである。例の丹塗矢の正体は、乙訓郡の社に座す火雷命(ほのいかづちのみこと)である。
賀茂建角身命、丹波の神伊可古夜姫、玉依姫の三柱の神は、蓼倉里の三井の社に座している。
賀茂社
「賀茂」と称する理由は、日向の曾(そ)の峰に天降り座した神・賀茂建角身命(かもたけつみのみこと)によるものである。この神は、神武東征の際に神倭石余彦(神武天皇)の先導に立ち、大和国の葛木山の峰に宿られた。
そこから次第に遷り、山代国の岡田の賀茂に至り、山代河(木津川)に従って下り、葛野河と賀茂河が合流する地点に至った。そこで賀茂川を見回して、こう言われた。
「川幅は狭いが、石川(清らかな石の川)であり、清らかな川である」
それゆえ、その地を「石川の瀬見の小川」と名付けた。そこから川を上り、久我国の北山の麓を安住の地と定められた。その時から、この地を「賀茂」と名付けたのである。
賀茂建角身命は、丹波国の神野の神である神伊可古夜日女(かみいかこやひめ)を娶り、一男一女を儲けた。兄は玉依彦(たまよりひこ)、次は玉依姫(たまよりひめ)という。
玉依日売が石川の瀬見の小川で川遊びをしていた時、丹塗矢(にぬりや)が川上から流れてきた。姫はそれを取って床の辺に挿し置いたところ、やがて孕んで男子を生んだ。
その子が成人した時、外祖父(母方の祖父)である建角身命は八尋屋(広い建物)を造り、八枚の扉を立て、八腹の酒(何度も醸した強い酒)を造って、八百万の神々を集めて七日七夜にわたり楽み遊んだ。そして、その子(孫)に向かってこう言った。
「お前が自分の父だと思う者に、この酒を飲ませなさい」
すると、その子は酒杯を捧げ持ち、天に向かって祭を成し、屋根を突き破って天へと昇ってしまった。それゆえ、外祖父の名にちなんで可茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)と呼ぶのである。例の丹塗矢の正体は、乙訓郡の社に座す火雷命(ほのいかづちのみこと)である。
賀茂建角身命、丹波の神伊可古夜姫、玉依姫の三柱の神は、蓼倉里の三井の社に座している。
海の向こうから来る神について
ホツマでは、海の彼方から来訪してオホナムチに助言を与えるのは「クシヰワサタマ」とされます。この神は自らを「オホナムチのサキミタマ」と名乗っており、ホツマにおける「サキミタマ」は「人の上位神霊」「過去世の霊」「守護霊」のような意味があると解されています。
ホツマには「魂魄(タマシヰ)」という観念が明確に存在し、これに伴って「輪廻転生」や「過去世」という点も語られているので、この解釈は妥当だと思われます。なお、クシヰワサタマが助言した内容は、オオモノヌシという役職を歴任していたオホナムチの血統が途絶える可能性があるため、養子を取ってでも存続すべしというものでした。
一方『古事記』では、大国主(大己貴命)が国造りに苦しんでいる時に、海の彼方から光り輝く神が来訪するという描写が見られます。この神は、後に「大物主神」と名乗り、「汝の幸魂・奇魂を祀れば国は治まる」と告げて姿を消します。形式的にはホツマの記述と酷似しますが、その目的や根拠については全く語られていません。また『記紀』における大己貴命はホツマとは立場が異なるため、両者の記述には明確にズレがあるとも言えます。
さらに、三輪山に鎮座する大神神社の主祭神の大物主大神の正式名が「倭大物主櫛甕魂命(やまとおおものぬしくしみかたまのみこと)」、摂社・神坐日向神社の祭神名が「櫛御方命(くしみかたのみこと)」とされており、こうした要素を拾って比較していくと、ホツマの記述では四代目オオモノヌシのフキネが子無しのため「クシミカタマ」を養子としてオオモノヌシを継承する流れになっており、こちらの方が『記紀』より説得力があるように思われます。
『記紀』との主な違い(AI分析)
地方統治の描写
ホツマでは、ホオテミ・クニテル・ウガヤの治世において、四国・東国・筑紫などの地方に具体的な県数・領主名・派遣臣の系譜まで詳述される。各地の統治者の任命、婚姻関係、船による往来など、国家運営の実務が物語として描かれる。一方『記紀』では、地方統治の詳細な行政構造はほとんど語られず、国造の祖先譚や神の系譜を示す程度で、具体的な統治制度や人事配置は描かれない。
クシタマホノアカリ(ニギハヤヒ)の継承と十種宝
ホツマでは、クシタマホノアカリの薨去後、アマテルがクニテル(ニギハヤヒ)を後継に任じ、十種宝の継承儀礼が明確に描かれる。喪祭・陵墓の造成・臣下の再配置など、政治的継承の手順が体系的に語られる。一方『記紀』では、ニギハヤヒは天降る神として登場するが、継承儀礼・喪祭・十種宝の授受といった政治的描写はほとんどなく、物語上の役割も限定的である。
タマヨリヒメの神霊受胎
ホツマでは、タマヨリヒメが白羽の矢によってワケイカツチの神霊を宿し、出雲の御子を生むという受胎譚が詳細に語られる。神霊との邂逅、禊、懐妊、子の出生までが一連の物語として描かれる。一方『記紀』では、神武の母タマヨリヒメはウガヤフキアエズの妻として登場するのみで、神霊による受胎譚は存在しない。白羽の矢による受胎は賀茂社伝承(風土記系)に見られるが、記紀本文には含まれない。
オホナムチの霊験とクシヰワサタマ
ホツマでは、津軽を治めたオホナムチが、自らの守護霊クシヰワサタマと邂逅し、筑紫の後継問題の解決を示されるという霊的体験が語られる。守護霊の助言に基づき、クシミカタマがオオモノヌシの嗣子となる政治的再編が行われる。一方『記紀』では、オオクニヌシ(大国主)の霊的体験や国譲りは描かれるが、守護霊との対話や地方後継問題の調停といった具体的な政治描写は存在しない。『古事記』においては、大国主が海から現れた光る神と対話する場面があり、その神が自ら大物主と名乗るが、クシヰワサタマに相当する名や守護霊的存在は登場しない。
ウガヤの即位・巡幸・最期
ホツマでは、ウガヤが多賀宮を修復して即位し、筑紫を巡幸して民を潤す様子が詳細に描かれる。最期には白矢の璽と政の文をタケヒトに託し、洞穴で神上がるという独自の神化譚が語られる。一方『記紀』では、ウガヤフキアエズの治世・巡幸・政治・最期の描写はほとんどなく、系譜上の存在として簡潔に扱われる。神化や継承儀礼の詳細も記されない。
日嗣(皇位継承)の体系性
ホツマでは、ホオテミ → ウガヤ → タケヒト(カンヤマトイワレヒコ)へと続く日嗣が、三種宝の授受・喪祭・臣下の配置・神化まで含めて体系的に描かれる。継承は儀礼・政治・霊的要素が一体となった総合的な制度として表現される。一方『記紀』では、皇統の継承は系譜中心で、儀礼的・政治的手順はほとんど描かれない。特に神武以前の継承は簡略で、日嗣の制度的描写は見られない。
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