【意訳版現代語訳】人の巻 ホツマツタヱ32文 ふしとあわ海 みつの文

ホツマツタヱ32文の現代語訳を「読みやすさ」と「まとまり」を重視して意訳しました。

詳細な逐語訳や原文を確認したい方は、冒頭のリンクから個別ページを参照してください。




ホツマツタヱ32文のあらすじ


ヤマトフトニ(孝霊天皇)からヤマトクニクル(孝元天皇)、さらにワカヤマトネコヒコ(開化天皇)へと続く三代の治世を描き、三つ子の保護令、富士山命名、地方統治、后妃制度、殉死、代嗣の継承など、王権の制度化が進む過程をまとめた文(あや)です。

1. ヤマトフトニ(孝霊天皇)の治世と三つ子保護令

ヤマトフトニが即位し、后妃制度を整え、多くの皇子皇女が生まれる。三つ子が続けて誕生したことを契機に、「三つ子の間引き禁止」の詔が出され、民の生命を守る政策が定められる。また、富士山噴火の記憶を踏まえたハラミ山(富士山)の吉兆解釈が語られる。

2. 富士山(フシノヤマ)の命名と諸国巡幸

ヤマトフトニは諏訪・甲斐を巡幸し、ハラミ山に登拝する。山の姿と藤の花の縁を重ね、ハラミ山を「フシノヤマ(富士山)」と命名する。この巡幸では、天御孫の神霊を遷す儀礼や、タマカワの神宝文の奉納など、王権と神宝の継承が強調される。

3. ヤマトクニクル(孝元天皇)の即位と后妃制度の拡大

ヤマトフトニ崩御後、モトキネ(ヤマトネコヒコクニクル)が即位し、新都の建設、后妃の増設、祈雨祭・稲虫祓いなどの国家祭祀の制度化が進む。この時代に、后妃イカシコメの系統からタケウチ(武内宿禰)へと続く祖系が整えられる。

4. ワカヤマトネコヒコ(開化天皇)の即位と継承問題

孝元崩御後、ワカヤマトネコヒコが即位するが、后妃の迎え方をめぐってオミケヌシの諫言と対立が起こる。その後も皇子が次々と生まれ、ミマキイリヒコ(崇神天皇)へと続く代嗣が確立される。開化天皇の崩御後、殉死が行われ、古い葬制の名残が描かれる。

意訳文


ヤマトフトニ(孝霊天皇)の治世


上鈴428年1月12日、アマツヒツキ(帝位)を受け継いだヤマトフトニのアマツキミは、斎名をネコヒコという。この際、諸臣が会議し、天の御孫(ニニキネ)の法を以って御飾りを民に拝ませた。また、母のオシヒメを上げて御上后とした。

なお、去年の12月4日に黒田の廬戸宮に遷都して、今年初暦を定めた。

孝霊2年(上鈴429年)2月11日、磯城のオオメの娘のホソヒメを后(内宮)に立てた。また、春日のチチハヤの娘のヤマカヒメをスケ后とし、十市のマソヲの娘のマシタヒメをココタヘとした。その他にも、内侍四人、乙侍、下侍も四人ずつ定めた。

孝霊3年(上鈴430年)春、オオミナクチとオオヤクチが共に宿禰(主君の補佐)に就いた。

孝霊3年(上鈴430年)夏、内侍のヤマトクニカが三つ子を生んだ。名前はヤマトモモソヒメ、ヰサセリヒコ、ワカヤヒメである。母となったヤマトクニカは、これによりヤマトオオミヤメ(ヤマト大宮姫)と呼ばれるようになった。

孝霊11年(上鈴438年)冬、ヤマトクニカの妹であるハエヒメを内侍とした。

孝霊13年(上鈴440年)12月1日、ハエヒメも三つ子を生んだ。名前は、上はヱワカタケヒコ、中はヒコサシマ、末はトワカタケヒコである。母となったハエヒメも位を上げられ、ワカオオミヤメ(若大宮姫)と呼ばれるようになった。

孝霊18年(上鈴445年)春、1月15日、后のホソヒメが御子のヤマトネコヒコクニクルを生み、斎名をモトキネとした。

孝霊25年(上鈴453年)1月11日、恒例となったこの日に県主を召すと、皆が物品を献上した。

三つ子の間引き禁止の詔


この時、君は次のように詔した。

「もし、一孕みで三つ子を生む者があれば御門に告げよ。それが下民であっても賜物を与えよう。このゆえは、天の御孫(ニニキネ)の后のコノハナサクヤヒメが三つ子を生んだことに因む。私は今、三つ子を儲けることになったことにつき、ほのかに聞けば三つ子が生まれれば"間引く"と名付けて殺すという。そのため、今より間引けば罪人とする。これは『我が子も人も陽陰の種、鹿・犬の千よりも人一人』というタケミナカタの宣に基づくものである」

このように御言が定まると、国司らは民に告げるために国に帰っていった。

ハラの絵の評価(富士山の噴火の記録)


孝霊25年(上鈴453年)1月12日の朝、スワハフリがハラヤマノヱ(ハラミ山の絵)を奉ったので、君はこれを褒めた。また、同じ時にシラヒゲ(ホノススミ)の孫のアメミカゲがアワウミノヱ(琵琶湖の絵)を奉ったので、君は「面白い賜物である」と褒めたたえた。

ある日、君は春日県主のチチハヤに次のように詔した。

「私は昔 このハラノヱ(ハラミ山の絵)を見たが、アテナテタカシ(あまりに高貴で美しい姿に現実感が無い)と思って棄ててしまった。今は山や沢などの絵が合わさってひとつの絵となる様は、まるで割札を合わるが如く見事であり、ヨキシルシ(吉兆)であるように見える。

ハラミヤマ(今の富士山)の吉き草も、500年前(上鈴50年頃=神武東征の頃)に焼け失せてしまった。種が再び芽吹く兆候は、ニオウミ(琵琶湖)が山を潤すようになることだという。そうなればチヨミグサ(富士山の霊草)もまた生えるだろう」

君は、このように楽しんで語った。

※ホツマによれば、神武東征の頃に富士山が焼け失せたとされる

ヤマトフトニ(孝霊天皇)の代嗣を決める


孝霊36年(上鈴463年)初春10日、君はモトキネ(ヤマトネコヒコクニクル)を代嗣とし、御手からミハタヲリトメ(三種宝の一)を授けて次のように詔した。

「これはアマカミのヲシテである。朝夕眺めて鑑みて、民を治めよ」

このようにハラタメシ(ニニキネが定めた作法)に倣い、モトキネの装いを民に拝ませた。

富士山の命名


孝霊36年(上鈴463年)3月7日、ハラミ山(富士山)に御幸することが決まった。

その経路が決まると、黒田(都)から香具山、賀茂、多賀の宮を経由することになり、諏訪酒折宮(甲府の酒折宮)のタケヒテルが御饗の用意をして待っていた。ハラミ山を上って下るスバシリ(須走口)の山裾を巡り、梅大宮(ハラアサマ宮)に入った。そこで春日県のチチハヤが次のように申し上げた。

「峰にて採ったミハノアヤクサはチヨミグサでしょうか?諸人が食おうとしましたが、煮ても苦いため誰も食えませぬ」

これに君は次のように答えた。

「ハラミ山の中峰に対応するものはアワ海(琵琶湖)である。なれば、八峰は山裾のヤツウミ(八湖)に対応するであろう。八湖も三つ埋まってしまったが、噴火しても眺めは変わらなかった」

そして自ら歌を作って詠んだ。

『半ば旧り 半ば沸きつつ 九の山と 共統つまりの コノヤマよこれ』
(あるときは朽ち崩れ、またある時は噴出しつつ、この九つの山は不二一体である、これは最高峰の山よ)

このように歌を詠んで、山の新名を考えていると、タゴノウラビトが藤の花を捧げてきた。君は、これらの縁を重ね合わせて、ハラミ山の新名を生む御歌を歌った。

『ハラミ山 一奮咲けよ 藤蔓の 名をも縁の 熟山よこれ』
(ハラミ山よ、一奮に栄えよ、藤蔓の名も縁と交えて付けよう、最高峰の山よ)

これにより、ハラミ山の名は「フシノヤマ(富士山)」となった。

天御孫の御子らの神霊を遷す


孝霊36年(上鈴463年)、ハラミ山から南道(東海道)を通って都に帰った後、梅宮のハフリであるホツミノオシウド(穂積の治人)を召した。そして、ヰツアサマミコ(ムメヒト・サクラギ・ウツキネ)とヤマツミ(マウラ)の四神をヤスカワハラに遷させた。

タケヒテルがタマカワの神宝文を奉る


ある時、タケヒテルが君にタマカワノカンタカラフミ(タマカワの尊宝文)を奉った。これは天御孫(ニニキネ)からハラヲキミ(ムメヒト=ホノアカリ)に伝わったものである。その子のタケテルは「カミヨノミノリを得て、今に永らえている」と語った。

君は笑んで、タケテルの子のタケトメを臣に乞うた。タケトメはタケツツクサの祀りを継いでタケダ(健多乎利)の祖となった。また、この神宝は出雲(杵築宮=出雲大社)に納められた。

ニシナカクニの反乱を治める


孝霊53年(上鈴480年)、ニシナカクニ(中国地方)が治まらなかったため、チノクチ(チタル国の入口)と播磨ヒカワ(播磨国の辺境)に、インベヌシ(アメトミ)にヤマトヰサセリ(ヰサセリヒコ)を副えて派遣した。

また、キビカンヂ(吉備上道)にヱワカタケヒコ(兄ワカタケヒコ)、キビシモチ(吉備下道)にトワカタケヒコ(弟ワカタケヒコ)を派遣した。これらを以って、離反する者を融和して服従させた。なお、イササワケ(敦賀)にヒコサシマを派遣してコシクニ(越国)を治めさせた。

ふしとあわ海 みつの文:ヤマトフトニの最期


孝霊76年(上鈴503年)2月8日に君が崩御した。享年108(計算上は128)歳であった。皇子のモトキネ(ヤマトネコヒコクニクル)が喪還をし、四十八夜を経て旧臣に引き継がせた。この祀りは六年間経つまで敬われた。

なお、臣が世を去るまで、君は死後も居るかの如く御饗した。臣が去った後、若宮(ヤマトネコヒコクニクル)は遷都せずに仮宮にて親の後を継いだ。

ヤマトクニクル(孝元天皇)の治世


上鈴504年1月14日、若宮(ヤマトネコヒコクニクル)はアマツヒツキ(帝位)を受け継ぎ、ヤマトクニクル(孝元天皇)のアマツキミとなった。そして、天の御孫(ニニキネ)の例に倣って飾りを民に拝ませた。また、母のホソヒメを上げて御上后とし、十二の局に后を立てた。

孝元4年(上鈴508年)3月、新都をカルサカヒバラ(軽境原宮)に定めて遷都した。

孝元5年(上鈴509年)6月、内侍のウツシコメが御子を生んだのでヤマトアエクニオオヒコと名付けた。

孝元6年(上鈴510年)、イホトミヤ(孝霊天皇)の遺骸をムマサカ(馬坂)に納めた。

孝元7年(上鈴511年)2月2日、ウツシコメが内宮となった。また、ウツシコヲがケクニヲミとなった。

12月1日、日の出と共に后が生んだ御子はワカヤマトネコヒコである。斎名をフトヒヒという。

嘉祥の祭(田中神・オオナムチと水害の記録)


孝元9年(上鈴513年)夏、雨が四十日降り続いた。これにより、山背の方はアワ海(琵琶湖)が溢れて、稲もミモチ(稲の病)に罹ったため、嘆きの報告が上げられた。そこで君はミケヌシを御使として派遣し、祈らせることにした。

アワ国のミオ(滋賀県の三尾)にて、タナカカミ(田中神)に晴れを祈って祓いの儀式を成した。カセフノマツリ(稲虫を祓うための祓いの儀式)はオホナムチのイツモタナカ(出雲田和)の例を以って6月16日に祭を催行した。

【本文】

そのヲシエクサのカセフを為したのが「オオナムチノタナカノリ」である。

6月16日、祭を為して360回歌えばヲシクサによって痛みも直った。

【異文】

この守りを以って田に額を付ければ、稲は甦り、生き生きとした瑞穂が成った。民も糧が増えて賑わいを取り戻したことから、ミケヌシは「オホミケヌシノマツリヲミ」と名付けられた。

この例により、山背も、筑紫の直入県も、出雲も、伊勢も、花山も、毎年「カセフノマツリ」を行うようになった。

ヤマトクニクル(孝元天皇)の后とタケウチ(武内宿禰)の誕生


孝元11年(上鈴515年)3月15日、后が生んだトトヒメと共に御幸した。ヘソキネがヤマトイケスにて御饗を為した際、娘のイカシコメを膳出に召した。このイカシコメは後に内后となるが、この時は齢14歳であった。

孝元13年(上鈴517年)、イカシコメが御子のオシマコトを生んだ。斎名をヒコフトという。

孝元14年(上鈴518年)7月、ハニヤスヒメが御子のハニヤスを生んだ。斎名をタケハルとした。ハニヤスヒメは河内のアオカキカケの娘であり乙下侍であったが、これにより内后となった。

孝元22年(上鈴526年)1月12日、フトヒヒ(ワカヤマトネコヒコ)が代嗣となった。この時は齢16歳であった。この後、オシマコトがオウチの妹のタカチヒメを娶って間にウマシウチ(ウマシタケヰココロ)を生んだ。このウマシウチがキウツの妹のヤマトカゲを娶って間に生んだのがタケウチである。

ヤマトクニクル(孝元天皇)の最期


孝元57年(上鈴561年)9月2日、君が崩御した。その時は齢107歳であった。皇子のワカヤマトネコヒコは喪還に入り、生きているかの如く御饗した。四十八夜を過ぎると政を執り、その6年後(上鈴567年)に遺骸をツルギシマ(剣池嶋)に納めた。

同年9月24日、侍(后)や臣も殉死した。

ワカヤマトネコヒコ(開化天皇)の治世


上鈴560年冬、10月12日にカスガイサカワを新都として遷都した。皇子は51歳の時の11月20日にアマツヒツキ(帝位)を受け継ぎ、斎名フトヒヒのワカヤマトネコヒコのアメノスヘラキとなった。上代に倣って母のウツシコメも上げて御上后とし、十二后も先に立てて、翌年のキナヱ(上鈴561年)を初年とした。

開化7年(上鈴567年)1月12日、イカシコメ(孝元天皇の内后)を内宮に立てた。

オミケヌシの勧告(父の内后を娶った開化天皇)


これ以前のこと、君が后を召す時にオミケヌシが諌めて次のように申し上げた。

「君(開化天皇)よ、よくお聞きください。かつてシラヒト・コクミという者が母(サシミメ)を犯すという事件がありました。その汚名も今に残っています、ゆえに君も真似て汚名を被る様なことはなさらないでください」

これにケクニオミのウツシコヲが次のように反論した。

「イカシコメは母では無く姪である。曰く『妹背には、女は嫁げば生みの親 無し』とある。昔は叔母だが、今は姪として生む子がいる。連なる枝(系譜)ではオシマコトの母であろう」

オミケヌシもまた次のように反論した。

「天に月は一つである。母(内宮)は月、下侍は星であろう。ならば星を召すのが妥当である。大御神は陽陰の道を成し、代々の君はそれを受け継いで収めた。アメヒツキを汝(ウツシコヲ)が祀るのに、これを諌めずにおもねり、君を穴(空)にするとは何事か!心を汚せば、我が上祖神(オオモノヌシ神)は穢れは食わずとして君から離れるだろう!」

このように言い放つとオミケヌシは帰っていった。しかし、君はオミケヌシの諌めを聞かず、ミケヌシを親子共々蟄居(謹慎処分)にした。

ワカヤマトネコヒコの最期


開化7年(上鈴567年)12月13日、ユキリの娘のタケノヒメが御子のユムスミを生んだ。斎名をコモツミという。

開化8年(上鈴568年)3月、スケ后であった春日オケツの娘のオケツヒメが御子のヒコヰマスを生んだ。斎名をアリスミという。

開化10年(上鈴570年)5月12日、内宮のイカシコメが御子のミマキイリヒコを生んだ。斎名をヰソニヱという。

6月12日、ヘソキネをカルオトド(ケクニヲミ)とした。

11月、ウツシコヲをイワイヌシとした。

開化13年(上鈴573年)1月5日、内宮のイカシコメが御子のミマツヒメを生んだ。

5月15日、内侍に召した葛城国造タルミの娘のタカヒメが御子のハツラワケを生んだ。斎名をタケトヨという。

開化28年(上鈴588年)1月5日、代嗣を立てヰソニヱ(ミマキイリヒコ)をミコ(皇子)とした。この時の皇子は齢19歳であった。

開化60年(上鈴620年)夏4月9日、君が崩御した。この時の齢は101歳であった。皇子が喪還に入り、四十八夜を経た後に政を執った。旧臣は留め置き、君が居るかの如く御饗した。

同年10月3日、遺骸をイササカ(率坂)に納めた。

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注釈


登場人物


・ヤマトフトニ:『記紀』の大日本根子彦太瓊天皇に比定。孝安天皇とオシ姫の御子。七代孝霊天皇
・オオメ:『記紀』の大目に比定。磯城県主。ホソ姫の父
・ホソヒメ:『記紀』の細媛命に比定。孝霊天皇の内宮。孝元天皇の母
・チチハヤ:『記紀』の天足彦国押人命に比定。春日県主。ヤマカ姫の父
・ヤマカヒメ:『記紀』の春日千乳早山香媛に比定。孝霊天皇の典侍
・マソヲ:『日本書紀』の春日県主大日諸に比定。十市県主。マシタ姫の父
・マシタヒメ:『記紀』の真舌媛に比定。孝霊天皇のココタヘ
・オオミナクチ:『記紀』の大水口宿禰に比定。孝霊天皇の宿禰
・オオヤクチ:イヅシココロの子。オオミナクチの弟。孝霊天皇の宿禰
・ヤマトクニカ:『記紀』の倭国香媛に比定。ハエ姫の姉。孝霊天皇の内侍
・ヤマトモモソヒメ:『記紀』の倭迹迹日百襲姫命に比定。孝霊天皇とヤマトクニカ姫の子
・ヰサセリヒコ:『記紀』の五十狭芹彦命に比定。孝霊天皇とヤマトクニカ姫の子
・ワカヤヒメ:孝霊天皇とヤマトクニカ姫の子
・ハエヒメ:『日本書紀』の紐某弟に比定。ヤマトクニカの妹。孝霊天皇の内侍
・ヱワカタケヒコ:『記紀』の稚武彦命に比定。孝霊天皇とハエ姫の子
・ヒコサシマ:『記紀』の彦狭島命に比定。孝霊天皇とハエ姫の子
・トワカタケヒコ:『記紀』の弟稚武彦命に比定。孝霊天皇とハエ姫の子
・ヤマトネコヒコクニクル:『記紀』の大日本根子彦太瓊天皇に比定。孝霊天皇とホソ姫の御子。八代孝元天皇
・ニニキネ:『記紀』の瓊瓊杵尊に比定。アマテルの孫。現在は神霊
・コノハナサクヤヒメ:『記紀』の木花開耶姫に比定。ニニキネの后。現在は神霊
・タケミナカタ:『古事記』の建御名方神に比定。オホナムチの子
・ホノススミ:『古事記』の火須勢理命に比定。ニニキネとコノハナサクヤヒメの二男
・アメミカゲ:ホノススミの孫。過去に同名の人物がいる
・タケヒテル(タケテル):ホノアカリとタマネ姫の子。ニギハヤヒの弟
・ヤマツミ:『古事記』の天津麻羅に比定。オオヤマスミ(大山祇神)は官職名
・タケトメ:『旧事紀』の建斗米命に比定。タケヒテルの子
・インベヌシ:『旧事紀』『古語拾遺』の天富命に比定。フトダマの孫
・ウツシコメ:『記紀』の欝色謎命に比定。孝元天皇の内后。オオヒコと開化天皇の母
・ヤマトアエクニオオヒコ:『記紀』の大彦命に比定。孝元天皇とウツシコメの御子
・ワカヤマトネコヒコ:『記紀』の稚日本根子彦大日日天皇に比定。孝元天皇とウツシコメの子。九代開化天皇
・ウツシコヲ:『旧事紀』の欝色雄命に比定。ウツシコメの兄。孝元天皇のケクニ臣
・ミケヌシ:『旧事紀』の豊御気主命に比定。タケイイカツの孫。オミケヌシの父
・トトヒメ:『旧事紀』の倭迹迹姫命に比定。孝元天皇とウツシコメの子
・ヘソキネ:『旧事紀』の大綜杵命に比定。オオヤクチの子。イカシコメの父
・イカシコメ:『記紀』の伊香色謎命に比定。孝元天皇の内后。オシマコトの母
・オシマコト:『記紀』の彦太忍信命に比定。孝元天皇とイカシコメの子。ウマシウチの父
・ハニヤスヒメ:河内のアオカキカケの娘
・ハニヤス:『記紀』の武埴安彦命に比定。孝元天皇とハニヤス姫の子
・アオカキカケ:河内の国造と思われる。ハニヤス姫の父
・タカチヒメ:『古事記』の葛城高千那毘売命に比定。オウチの妹。オシマコトの妻。ウマシウチの母
・ウマシウチ:『記紀』の甘美内宿禰に比定。オシマコトとタカチの子。タケウチ(武内宿禰)の父
・ヤマトカゲ:『記紀』の影媛に比定。ウマシウチの妻。タケウチの母
・タケウチ:『記紀』の武内宿禰に比定。ウマシウチとヤマトカゲ姫の子。孝元天皇の曾孫
・タケノヒメ:『記紀』の竹野媛に比定。開化天皇の妻
・ユムスミ:『記紀』の彦湯産隅命に比定。開化天皇とタケノ姫の子
・オケツヒメ:『古事記』の意祁都比売命に比定。春日県主のオケツの娘。開化天皇の典侍
・ヒコヰマス:『記紀』の彦坐王に比定。開化天皇とオケツ姫の子
・オミケヌシ:『旧事紀』の大御気主命に比定。ミケヌシの子。オオタタネコの祖父
・ミマキイリヒコ:『記紀』の御間城入彦五十瓊殖天皇に比定。開化天皇とイカシコメの子。十代崇神天皇
・ミマツヒメ:『古事記』の御真津比売命に比定。開化天皇とイカシコメの子
・ハツラワケ:『記紀』の建豊波豆羅和気王に比定。開化天皇とタカ姫の子

関連社


・牟佐坐神社:ホツマにおける「カルサカヒバラ」に比定
 ・創建年:伝・安康天皇の御代(454年~456年)
 ・主祭神:高皇産霊神、孝元天皇
 ・所在地:奈良県橿原市見瀬町718
・田中神社:ホツマにおける「近江で田中神を祀った社」に比定
 ・創建年:不明
 ・主祭神:建速素盞嗚尊、奇稲田姫命、八柱御子神
 ・所在地:滋賀県高島市安曇川町田中1882-1
・率川神社:ホツマにおける「カスガイサカワ」に比定
 ・創建年:推古天皇元年(593年)
 ・主祭神:媛蹈韛五十鈴姫命、狭井大神、玉櫛姫命
 ・所在地:奈良県奈良市本子守町18

※ホツマツタヱの記述との対応関係に基づく解釈

関連地


・片丘馬坂陵:第七代 孝霊天皇を埋葬した「馬坂」に比定
・剣池嶋上陵:第八代 孝元天皇を埋葬した「剣池嶋」に比定
・念仏寺山古墳:第九代 開化天皇を埋葬した「率坂」に比定

※ホツマツタヱの記述との対応関係に基づく解釈

関連知識


殉死について

殉死(じゅんし)とは、主君が亡くなったときに、その人物に深く仕えていた者が「死後の世界でもお仕えする」という考えから、自ら命を絶つ行為を指します。日本だけの特異な風習ではなく、古代中国・朝鮮・インド・エジプトなど、多くの文明で同様の習俗が存在します。これは、王や首長が死後も権威を持ち続けると考えられ、その霊に仕えるために家臣や従者が共に死ぬことが「忠義の完成」とみなされていたからだといわれています。

ホツマツタヱにも殉死の思想が明確に描かれており、天皇が崩御すると長く仕えてきた臣下が「神となった主のもとへ再び仕える」ために殉じる場面が記されます。代表的な例として、神武天皇の崩御時には三十三人が殉死し、彼らは「忠も操もとおる天かな」と歌って死に臨みます。

32文でも、孝元天皇・開化天皇の崩御に際して后や臣が殉死する場面が描かれ、殉死が古い時代の葬制として長く続いていたことが示されています。なお、『記紀』にも殉死の記録が記されています。

カセフノマツリについて

カセフノマツリとは害虫駆除の儀式のことで、ホツマにおいては1文と9文に関連する記述があります。参考になると思うので抜粋文を貼っておきます

ホツマ1文:ワカのまじない


ワカヒメが伊雑宮にいた頃、紀州の稲田に蝕虫(ホオムシ)が大量発生した。これによって稲田は被害を受け、その状況は伊雑宮のアマテルに告げられた。アマテルが天の真名井に御幸した後、后のムカツヒメが惨状を嘆く紀州の民のもとに向かった。

ムカツヒメは田の東に立って、草の扇(オシクサ)を扇ぎながらワカヒメの歌(和歌)を詠んで祓いの儀式を行った。これによって田から蝕虫(ホオムシ)は去った。また、ムカツヒメは周囲に30名の侍女を据えて、各々に祓いの和歌を歌わせて害虫を祓った。以後、このワカヒメの歌は「ワカのまじない」と呼ばれるようになった。

ワカのまじないとは、次のようなものである

『たねはたね うむすきさかめ まめすめらの そろはもはめそ むしもみなしむ』
(作物の種、大麦・小麦・盛豆・大豆・小豆らの繁葉を蝕む虫害よ、退け)

この歌を360回歌って鳴り轟かせれば、害虫はことごとく西の海へと飛び去っていき、穢れが祓われたことで稲も青々と実った。こうしてワカのまじないは「ヌバタマの世の糧を得る御宝」として重宝されることになった。

稲田から害虫が去ったことを喜んだ紀州の民は、キシヰ国に太陽の前宮とタマツ宮を建立した。そして、太陽宮は紀州の国懸(政庁)となった。また、タマツ宮にはワカヒメが座し、薨去した後にはワカヒメの霊を祀る宮となった。そして、この地は枯れた稲をも若返らせる沸の歌(和歌)により、ワカノクニ(沸の国)と称されるようになった。

ホツマ9文:害虫駆除のまじない


オホナムチが一人で諸国を巡っていた時のこと、民が獣肉を食したことから、稲を枯らすホオムシが発生した。これを聞いたオホナムチは、急いでヤスカワのヒルコを訪ね、そこで「ヤスカワのシタテルヒメに教え草(害虫駆除のまじない)」を習って帰った。

そして、ホオムシをヲシクサ(押草)で扇ぐと、ホオムシは彼方に去って行った。この効験に感銘を受けたオホナムチは、娘のタカコをヒルコの元に送って奉仕させた。また、アマクニタマの娘であるオクラヒメも同様にヒルコに奉仕に出された。こうしてシタテルヒメ(ヒルコ)は二人を側に置き、八雲打ちの琴を教えて楽しんだという。


なお、これと類似する説話が「古語拾遺」にも見られます。

※人文研究見聞録:古語拾遺

『記紀』との主な違い(AI分析)


欠史八代の扱いそのもの

ホツマでは、孝霊・孝元・開化の三代は詳細な記事が大量に記され、后妃制度・巡幸・政策・祭祀・皇子派遣などが具体的に描かれる。一方、『記紀』では孝霊〜開化の三代は極端に記述が少なく、系譜と簡単な事績のみで、後世「欠史八代」と呼ばれる空白期となる。

三つ子誕生と「間引き禁止」の思想

ホツマでは、孝霊天皇の時代に三つ子が続けて誕生したことを契機に、「三つ子の間引き禁止」が明確な詔として発せられる。これは、コノハナサクヤヒメの三つ子出産や、タケミナカタの「人一人は千の獣より重い」という宣に基づく生命尊重の思想として語られる。一方、『記紀』には三つ子誕生を契機とした政策的詔は存在せず、間引き禁止の思想や制度化は見られない。

后妃・皇子の詳細性

ホツマでは、孝霊・孝元・開化の后妃は十数名単位で名前・出自・役職・昇格の経緯まで記録され、皇子皇女も多数登場する。一方、『記紀』では后妃は数名に限られ、侍女階層(内侍・乙侍・下侍)などの制度的描写は存在しない。

政治・行政の具体性

ホツマでは、吉備・播磨・越国などへの皇子派遣、反乱鎮定、国司の役割などが極めて具体的に記述される。一方、『記紀』では欠史八代の政治記事はほぼなく、地方統治の具体的描写は見られない。

富士山命名・巡幸記事の有無

ホツマでは、孝霊天皇の巡幸で富士山の噴火史・吉兆解釈・命名(フシノヤマ)が語られる。一方、『記紀』には富士山命名譚はなく、欠史八代に巡幸記事はほぼ存在しない。

殉死の継続と葬制の描写

ホツマでは、孝元・開化の時代にも后妃や臣の殉死が行われたことが明確に記される。一方、『記紀』では殉死は古い時代の象徴として扱われ、欠史八代期の殉死は記録されない。

倫理的議論・諫言の存在

ホツマでは、開化天皇が后を迎える際に、オミケヌシが近親倫理・天道・祖神の離反を理由に強く諫める場面が描かれる。一方、『記紀』では后妃迎えに関する倫理的議論はほとんどなく、諫言と反論の応酬は見られない。

武内宿禰の系譜の扱い

ホツマでは、孝元天皇の后イカシコメの系統からタケウチ(武内宿禰)へ続く祖系が明確に描かれる。一方、『記紀』では武内宿禰の出自は曖昧で、欠史八代との直接的な系譜連続性は示されない。