ホツマツタヱ・ミカサフミ現代語訳:賀茂別雷神社(上賀茂神社) [京都府]

賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)とは京都市北区にある神社であり、山城国一宮とされています。

通称 上賀茂神社(かみがもじんじゃ)と呼ばれ、毎年5月には下鴨神社と共に賀茂祭(葵祭)が行われることで有名です。


概要


由緒


由緒には諸説あり、以下のようなものが挙げられている。

【上賀茂神社 創建の諸説】

[社伝]

神代の昔、賀茂別雷命(カモワケイカヅチ)が本社の北側にある秀峰 神山(こうやま)に降臨したことから、賀茂別雷命を当地に祀ったことに始まるとされる。

また、神武天皇の御代に賀茂山の麓の御阿礼所に賀茂別雷命が降臨したとという伝承もある。

[山城国風土記]

玉依日売(タマヨリヒメ)が加茂川の川上から流れてきた丹塗矢を床に置いたことから懐妊し、そこで生まれたのが賀茂別雷命(カモワケイカヅチ)であるとされる。

その後、玉依日古(タマヨリヒコ)の子孫である賀茂県主の一族がこれを奉斎したと伝えられている。

ただし、『記紀』においては全く触れられておらず、「六国史」における初出は『続日本紀』の「文武天皇2年(698年)3月21日、賀茂祭の日の騎射を禁じた」という記事であるとされている。

しかし、古くから朝廷の崇敬を受けてきた神社とされており、平安時代には伊勢神宮の斎宮に倣った「斎院」が置かれるようになり、選ばれた皇女が代々「斎王」として奉仕するようになった(平安末期頃まで続いたとされる)。

祭神


【主祭神】

・賀茂別雷大神(カモワケイカヅチ):賀茂氏の祖神とされる
 → 「別雷」は「若雷」の意味で、若々しい力に満ちた雷(神鳴り)の神という意味であるとされる
 → 『賀茂之本地』において、阿遅鉏高日子根神(アヂスキタカヒコネ)と同神であると説明される
  ⇒ 『古事記』にも阿遅鋤高日子根神(アヂスキタカヒコネ)は別名を「迦毛大御神」と云うとある
 → 松尾大社の社伝において、主祭神の大山咋神(オオヤマクイ)と同神であるという説がある

関連社


【摂社】

・片山御子神社:玉依比売命(タマヨリヒメ)を祀る
・新宮神社:高龗神(タカオカミノカミ)を祀る
・大田神社:天鈿女命(アメノウズメ)を祀る
・若宮神社:若宮神を祀る
・奈良神社:奈良刀自神(ナラトジノカミ)を祀る
・賀茂山口神社:御歳神(ミトシノカミ)を祀る
・須波神社:阿須波神・波比祇神・生井神・福井神・綱長井神(座摩神)を祀る

【末社】

・棚尾社:櫛石窓神・豊石窓神(天石門別神)を祀る
・川尾社:罔象女神(ミヅハノメ)を祀る
・橋本社:衣通姫神(ソトオリヒメ)を祀る
・岩本社:底筒男神・中筒男神・表筒男神(住吉三神)を祀る
・山尾社:大山津見神(オオヤマツミ)を祀る
・土師尾社:建玉依比古命(タケタマヨリヒコノミコト)を祀る
・杉尾社:杉尾神を祀る
・山森社:素盞嗚神(スサノオ)・稲田姫命(クシナダヒメ)・田心姫命(タキリビメ)を祀る
・梶田社:瀬織津姫神(セオリツヒメ)を祀る
・白鬚社:猿田彦神(サルタヒコ)を祀る
・百大夫社:船玉神(フナダマ)を祀る
・鎮守社:大国主神(オオクニヌシ)・少彦名神(スクナヒコナ)を祀る
・福徳社:福徳神(フクトクジン)を祀る
・藤木社:瀬織津姫神(セオリツヒメ)を祀る
・小森社:水分神(ミクマリノカミ)を祀る
・半木社:天太玉命(フトダマ)を祀る

【境外摂社】

・久我神社:賀茂建角身命(カモタケツノミノミコト)を祀る

関連リンク


上賀茂神社(公式サイト)
上賀茂神社 (ウィキペディア)
上賀茂神社(人文研究見聞録)
カモワケヅチジンジャ(ほつまつたゑ 翻訳ガイド)

ヲシテ文献の記述


ニニキネについて


・オシホミミとタクハタチチヒメの二男で、クシタマホノアカリの弟に当たる
・タカヒコネの指導の下で馬術を覚え、馬の厳乗りを得たとされる
・ニハリの地に宮を立てる際、クシヒコを召して宮造りの法を定めさせた
 → 炎を吐くオコロ(土竜)にオコロカミの名を与えて宮を守らせた
 → 宮造りの法を定めたクシヒコにヲコヌシ(大国主)の名を与えた(これが大黒柱の由来となったという)
・ニハリの新宮に入る際にウツロヰに邪魔されたものの、罰を与えようとするアマテルからウツロヰを庇った
 → ウツロヰを庇ったことによって仲が親密となり、以後 東北の方角を守るはウツロヰノヲマサキミと定めた
・ニハリ宮からツクバ宮、フタアレへと遷宮し、それから6万年無事に治めたことから"ヰツノカミ"と称えられる
 → フタアレからニハリに戻った際には、今までの功績から"ヰツヲヲカミ"と称えられた
・アマテルに諸国開拓の巡幸を拒否された際、イセ周辺に井堰や堤を成して田に豊作を招いた
・イセ周辺の開拓の功績からアマテルより八州巡幸の詔が出され、諸国の壮大な開拓事業が始まる
・八州巡りが決まると、三種宝がニニキネに授けられることになる
 → これにより、カスガとコモリを左右の臣とし、諸臣を連れて壮大な土木開拓事業を行い始める
・八州巡りの途中でサルタヒコと出会い、サルタヒコの働きによってミカミヤマを造成した
 → この功績よりサルタに好むウスメとサルヘの名を与えた
・タチカラヲを召してハラミ山を中心に四方を開拓し、八つの湖を造成した
 → その後、天を築いた峰に写して伊豆浅間峰の造成した
・アシツヒメ(コノハナサクヤヒメ)を娶って、ホノアカリ、ホノススミ、ヒコホオテミの三つ子を儲けた
 → この際、一悶着あってアシツヒメと一時的に不仲になるが、後に正式な后として迎える
・八州巡りが一段落すると、アマテルより"ハラノヲキミ"の名を賜った
・ヤマクイにヒヱノヤマを造成させるなどの事業を成したことから、"ワケイカツチノアマキミ"の名を賜った
 → これはクニトコタチに代わる新たな功績を立てたニニキネを讃えて、アマテルが贈った尊称である
 → この後も引き続き諸国の開拓事業を進めたとされる
・ハラミ山の麓(富士山麓)のサカオリ宮をハラアサマ宮に改めて遷宮した
 → この後もニシナカクニ(中国地方)やツクシ(九州)の開拓も行っている
・子のヒコホオテミがトヨタマヒメと仲違いした際、ミツハメの社に出向いてトヨタマヒメを説得した
・晩年に死期が迫ると、ヒコホオテミに遺勅を遺してカゴシマに遷る
 → ここからアサマに昇る朝日に向かい、タカチホに沈む夕日と別れて過ごした(故にヒムカフクニという)
・タカチホの峰にて神上がると、ナルカミを別けて土を活かしたことから"ワケイカツチノスヘラカミ"と称えられた

※要約すると、壮年期には諸国の開拓事業を成功させ富士周辺を拠点に活躍し、晩年期には九州へ行きタカチホで没した

ワケイカツチノカミについて


・ニニキネの種々の功績を讃えて与えられた尊称であり、ニニキネを指す語として度々登場する
 → この語源は以下の功績に基づいていると思われる
  ⇒ ウツロヰ(雷を司る神)を手懐けて雷を火と水に別け、これにより荒地を活かしたこと(雷を火・水に別ける)
  ⇒ 諸国の荒地を開拓し、田を成せるような環境を整えたこと(土を池・山に別ける)

ワケツチヤマについて


・ミツハメの社(貴船神社)の南に位置する山とされる
・ニニキネが崩御した後、トヨタマヒメがワケツチ山にて四十八夜 喪に服したという

ワケツチミヤについて


・いつから存在するのかは不明
・ヤエガキ剣とマフツ鏡が納められていたことがある
・垂仁朝にオホクニサラス(大国県主)が お百度参りをした
・荒廃して稜威が衰え始めていたため、垂仁天皇の御代に新造された

ヲシテ文献の対応箇所


ホツマツタヱ26文 産が屋 葵桂の文:ホオテミの皇位継承【4】
ホツマツタヱ26文 産が屋 葵桂の文:ニニキネによるトヨタマヒメの説得【5】
ホツマツタヱ26文 産が屋 葵桂の文:ニニキネの最期【6】
ホツマツタヱ26文 産が屋 葵桂の文:ニニキネの葬儀【7】
ホツマツタヱ27文 御祖神 船霊の文:タマヨリヒメの誕生【12】
ホツマツタヱ27文 御祖神 船霊の文:タマヨリヒメとワケイカツチの子【13】
ホツマツタヱ27文 御祖神 船霊の文:出雲の御子【14】
ホツマツタヱ30文 天君 都鳥の文:イワレヒコの治世【4】
ホツマツタヱ30文 天君 都鳥の文:賀茂社にニニキネとウガヤを祀る【7】
ホツマツタヱ37文 鶏合せ 橘の文:賀茂社とお百度参り【5】
ホツマツタヱ37文 鶏合せ 橘の文:賀茂社の新造と御幸【6】
ホツマツタヱ37文 鶏合せ 橘の文:美しきカマハタ【7】
ミカサフミ9文 年内になす事の文:タのヲシテの形【4】

備考


上賀茂神社について


・由緒や祭神は、ホツマを下敷きに考えると概ね合点が行く
 → ホツマに従えば、祭神はニニキネということになる
・立砂という円錐形の盛砂があるが、詳細は不明
・本社の北北西2kmの所には、祭神が降りたとされる神山(こうやま)がある

賀茂祭について


・賀茂神社において、5月15日(陰暦4月の中の酉の日)に行なわれる例祭のことで「葵祭」とも呼ばれる
・ミカサフミには、4月の月末に「アオヒカツラノメヲマツリ」を行うとある
・ホツマでは葵に関連深いとされるが、現在の葵祭でも葵の葉を頭に挿している

料金: 無料
住所: 京都府京都市北区上賀茂本山339(マップ
営業: 楼門内 8:30~17:00
交通: 京都市バス 西賀茂車庫行き 上賀茂神社下車

公式サイト: http://www.kamigamojinja.jp/index.html