『ホツマツタヱ』に見る 豊受大神社 [京都府]
豊受大神社(とゆけだいじんじゃ)とは京都府福知山市大江町にある神社であり、元伊勢伝承地の1つとされています。
また、周辺には「皇大神社(内宮)」「天岩戸神社」もあることから、併せて「元伊勢三社」と総称されているそうです。
スポンサーリンク
概要
由緒
由緒には諸説あり、以下のようなものが挙げられている
豊受大神社 創建の諸説
・「社伝」:崇神天皇の御代、天照大神が大和国笠縫邑から遷座し、その時に豊受大神を併せ祀ったことを創祀とする
→ 旧号を「与佐宮」と称し、御山を「比沼の真名井ヶ原」と称する
・『止由気宮儀式帳』:伊勢外宮は、丹波国比治真奈井に鎮座する豊受大神を遷座したものである
・『神道五部書』:雄略天皇21年、倭姫命に天照大神の神託があり、丹波国与佐宮の豊受大神を伊勢山田原に迎えたとする
→ 伊勢外宮の御饌都神(豊受大神)は、天御中主神・国常立神と同神であるとする
・『丹後国加佐郡旧語集』:雄略天皇の御代に建立され、第33代 推古天皇21年に伊勢の外宮に遷座したと伝えられる
→ 主祭神の豊受大神は国常立尊と同神であり、左に瓊瓊杵命、右に天児屋根命を祀っているとしている
・『丹後風土記』:当地を「与謝の比沼ノ魚井原(真井とも)」とし、当社を「与謝宮」とする
→ 当社を「比沼麻奈爲神社」であるとするとも記される(比沼麻奈爲神社は京丹後市にもある)
・『加佐郡誌』:雄略天皇22年、比沼麻奈爲神社を伊勢に遷座する際、当社地の舟岡山にしばらく鎮座したとする
・『丹後州宮津府志』:第31代 用明天皇の皇子・麻呂子親王が、鬼退治の際に内宮と共に勧請したとする
→ 祭神を天保食持神、豊受皇太神、天児屋根命とし、別宮4社、末社37社とする
・『田辺府志』:社伝と同様の由緒を伝える
→ 「與謝郡河守下宮大明神」と称し、豊受神は国常立尊の別名とする
・『丹後与謝海名勝略記』:内宮より遥か昔に勧請された古社とし、天照大神が4年鎮座したとも伝える
→ 麻呂子親王が凶賊征伐の際に勧請したという説も載せる
・「社伝」:崇神天皇の御代、天照大神が大和国笠縫邑から遷座し、その時に豊受大神を併せ祀ったことを創祀とする
→ 旧号を「与佐宮」と称し、御山を「比沼の真名井ヶ原」と称する
・『止由気宮儀式帳』:伊勢外宮は、丹波国比治真奈井に鎮座する豊受大神を遷座したものである
・『神道五部書』:雄略天皇21年、倭姫命に天照大神の神託があり、丹波国与佐宮の豊受大神を伊勢山田原に迎えたとする
→ 伊勢外宮の御饌都神(豊受大神)は、天御中主神・国常立神と同神であるとする
・『丹後国加佐郡旧語集』:雄略天皇の御代に建立され、第33代 推古天皇21年に伊勢の外宮に遷座したと伝えられる
→ 主祭神の豊受大神は国常立尊と同神であり、左に瓊瓊杵命、右に天児屋根命を祀っているとしている
・『丹後風土記』:当地を「与謝の比沼ノ魚井原(真井とも)」とし、当社を「与謝宮」とする
→ 当社を「比沼麻奈爲神社」であるとするとも記される(比沼麻奈爲神社は京丹後市にもある)
・『加佐郡誌』:雄略天皇22年、比沼麻奈爲神社を伊勢に遷座する際、当社地の舟岡山にしばらく鎮座したとする
・『丹後州宮津府志』:第31代 用明天皇の皇子・麻呂子親王が、鬼退治の際に内宮と共に勧請したとする
→ 祭神を天保食持神、豊受皇太神、天児屋根命とし、別宮4社、末社37社とする
・『田辺府志』:社伝と同様の由緒を伝える
→ 「與謝郡河守下宮大明神」と称し、豊受神は国常立尊の別名とする
・『丹後与謝海名勝略記』:内宮より遥か昔に勧請された古社とし、天照大神が4年鎮座したとも伝える
→ 麻呂子親王が凶賊征伐の際に勧請したという説も載せる
祭神
主祭神
・豊受大神(とようけのおおかみ):衣食住を司る産業の守護神とされる
相殿神
・日子番能邇邇芸尊(ひこほのににぎのみこと):天孫であり、皇室の祖とされる
・天児屋根命(アメノコヤネ):中臣連等の祖神
・天太玉命(アメノフトダマ):忌部氏の遠祖
・豊受大神(とようけのおおかみ):衣食住を司る産業の守護神とされる
相殿神
・日子番能邇邇芸尊(ひこほのににぎのみこと):天孫であり、皇室の祖とされる
・天児屋根命(アメノコヤネ):中臣連等の祖神
・天太玉命(アメノフトダマ):忌部氏の遠祖
境内社
・多賀神社
・土之神社
・月読宮
・風之宮
・その他の末社(37社)
・土之神社
・月読宮
・風之宮
・その他の末社(37社)
関連リンク
・豊受大神社 (ウィキペディア)
・元伊勢外宮 豊受大神社(人文研究見聞録)
ヲシテ文献の記述
マナヰについて
・ミヤツ(宮津)にはサホコチタル国の政殿があり、当地はマナヰ(アメノマナヰ)と呼ばれた
・トヨケもアマテルも此処で政を執っており、両名とも当地の洞に隠れた(神上がった)
・アマテルが神上がる際、自ら「マナヰのアサヒ宮と同じ場所」と言い、サルタに穴を掘らせたという
・マナヰにて、アマテル神は内宮へ、トヨケ神は外宮に祀られたという
・宇治に伊勢神宮が創建された後、トヨケ神のイワヒト(斎人)はタニハミチウシとなった
トヨケについて
・トヨケは5代目タカミムスビ(ヒタカミを統べる役)であり、イサナミの父である
・オモタル・カシコネに代嗣が居なかったことから、暫定的に天君となる
・オモタル・カシコネの後継を設けるべく、イサナギとイサナミを結婚させて即位させた
・イサナギ・イサナミの御子であるアマテルは、トヨケにアメナルミチを以って教育された
・トヨケがマナヰの洞に隠れた際、アマテルがその上に建てた宮をアサヒミヤという
・トヨケは、神上がった後にアサヒカミとして祀られた
・本人曰く、クニトコタチ → キノトコタチ → トヨケへと転生したという
アマテルについて
・イサナギ・イサナミの御子
→ 世を治めるに相応しい御子とするべく、二尊によって数々の儀式が為された後に身籠った
→ 同時にトヨケも8000回に亘る禊を為し、アメミヲヤ(根源神)に日月の神霊の降誕を願う祈りを捧げた
→ イサナミの胎内に96ヵ月も宿った後、ハラミ山(富士山)にてタマコ(胞衣)に包まれて誕生した
→ 誕生した時には黄金が八方に吹き出し、辺りの物が黄金に染まったという
→ 胞衣はシナノのヱナガタケ(恵那山)に納められた
→ 系譜としては、ヒルコの弟、ツキヨミ・ソサノヲの兄に当たる(ヒルコは後にイロトとして妹になる)
・16歳より87歳までヒタカミのトヨケの元で教育される
→ ここで「アメナルミチ」を学習したとされる
→ この時の学友には、タカギ(7代目タカミムスビ)が居たとされる
・皇君になる際、ハラミ(富士山麓)にヤスクニ宮を新造して即位したとされる
→ 12人の后を娶って五男三女の御子を儲ける(セオリツヒメが内宮になると、その穴埋めが為されて13人の后となる)
・トヨケが亡くなった際、一時的にミヤツに留まって政を執った
・オシホミミに帝位を譲ると、オモイカネにイサワ宮を新造させて遷宮する(ここをイセとした)
→ イサワの宮ではアメノマサカキ(暦を司る真榊)の植え継ぎをし、政を為したとされる
・アマテルはウガヤ朝まで生き続け、1,732,469歳で亡くなったとされる
→ 長寿の秘訣は、ハラミ山(富士山)に生える不老長寿の薬草を食していたからだとされる
・まとめると、日月の神霊の顕現であり、クニトコタチの皇統に代わる新たな皇統の祖とされる
→ クニトコタチの皇統は、6代目のオモタル・カシコネに代嗣が無かったために途絶えた
→ 当初はヒタカミが正統だったため、アマテルの皇統によって後々東国との確執が生まれることになる
ヲシテ文献の対応箇所
・ホツマツタヱ6文 日の神 十二后の文:トヨケの最期【6】
・ホツマツタヱ6文 日の神 十二后の文:トヨケ神【7】
・ホツマツタヱ14文 代嗣祈る宣言の文:アマテルの出自【6】
・ホツマツタヱ28文 君臣 遺し法の文:マナヰにて祀られるアマテルとトヨケの神【10】
・ホツマツタヱ36文 ヤマト姫 神鎮む文:トヨスキヒメの巡幸【5】
・ホツマツタヱ36文 ヤマト姫 神鎮む文:伊勢の外宮と内宮【7】
備考
豊受大神社について
・京都府福知山市にあるが、豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメ)が天照大神を祀った与佐宮と伝えられる
・付近には皇大神社、天岩戸神社もあり、併せて「元伊勢三社」と称される
・付近には「五十鈴川」や「猿田彦神社」があるなど、伊勢の構図に酷似する
・「節分の深夜に龍神が燈火を献ずる」という伝承がある
・社伝は真名井神社の創建伝承と重複する
ホツマにおける仮説
・社名について
→ 当社は豊受大神社(とゆけだいじんじゃ)であるが、ホツマにおけるトヨケの別名に「トユケ」がある
・ホ28文に、アマテルの「神逝の神輿はマナヰにて、アマテル神は内宮へ、トヨケは外宮に祀られた」とある
→ 「マナヰ」という名称は現在の福知山(皇大神社)にも存在する
→ ホツマにおける「ミヤツ」の詳しい範囲は不明
⇒ 古代には現在のように細かい地域区分は無かったものと推定する
⇒ 「福知山」は明智光秀の丹波平定後に定められたという(参考:福知山の由来)
→ ホツマとの比較において、この文は内宮を籠神社、外宮を真名井神社に比定するという説がある
⇒ しかし、籠神社は奈良時代の創祀とされており、それまで当地にそれらしい神社が在ったかは不明
⇒ ホツマにおいて「内宮・外宮」の名称は28文が初出であるが、旧丹波国周辺で内宮・外宮を名乗るのは当社しか無い
→ ホ36文にも「内宮・外宮」が出てくる
⇒ これは伊勢神宮 創建後の話であり、内宮は伊勢内宮、外宮はアサヒ宮(真名井神社)を指すものと考えられる
・上記のことから、ホツマにおける皇大神社について以下のような仮説を立てることにする
→ アマテルの死後、最初に創建された「内宮・外宮」であると推定する
→ これは後に伊勢の「内宮・外宮」のモデルになったのかもしれない
→ 付近に猿田彦神社があるが、由緒は不明
⇒ ホツマにおいてアマテルの辞洞を掘ったのはサルタであり、サルタは伊勢神宮の創建にも関わっている
スポンサーリンク
コメント
0 件のコメント :
コメントを投稿